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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第28章 続けるための生活設計

火曜日の朝、紡は通帳アプリを開いた。

まだ布団の中だった。

カーテンの向こうは白く明け始めていて、部屋の中には少し冷たい空気が残っている。

いつもなら、起きて顔を洗ってからスマートフォンを見る。

けれど今朝は、目が覚めた瞬間から、頭の片隅に数字があった。

旅を続けること。

書き続けること。

会社にいる今を否定しないこと。

そのどれも、きれいな言葉だけでは足りない。

電車に乗るにも、宿に泊まるにも、食事をするにも、本を買うにも、お金がいる。

時間もいる。

体力もいる。

昨日の夜、青いノートに書いた言葉がまだ胸に残っていた。

旅は、今いる場所を否定するためではなく、今いる場所をもう一度見るためにもある。

それなら、今いる場所でできる準備を、もう少し具体的に始めてもいいのではないか。

そう思ったのだ。

通帳アプリには、これまで少しずつ積み立ててきた金額が表示されている。

二十四歳の夜に、茶色い煮物の湯気を見てから、紡は少しずつお金を貯めてきた。

服を一枚我慢した日。

外食を減らした月。

なんとなく買っていたものをやめた週。

その小さな我慢が、数字になってここにある。

けれど最近、その数字をちゃんと見ていなかった。

見れば現実が近づく気がして、少し怖かったのだと思う。

紡は画面をじっと見つめた。

十分とは言えない。

でも、何もないわけではない。

小田原へ行けた。

三島へ行けた。

本を買えた。

母の家へかまぼこを持って帰れた。

それは、この数字があったからだ。

お金は、夢を邪魔するものではない。

向き合わなければいけない、夢の一部なのだ。

紡は布団から出て、テーブルの前に座った。

青いノートを開く。

新しいページの上に、大きく書いた。

「続けるための生活設計」

少し堅い言葉だった。

でも、今朝の紡には必要な言葉だった。

夢。

旅。

発信。

暮らしの湯気。

水のように続ける。

それらを大事にしたいからこそ、生活を整えなければならない。

一度だけなら勢いで行ける。

でも、続けるには設計がいる。

紡はペンを持ち、ページを四つに分けた。

お金。

時間。

体力。

仕事。

最初に、お金の欄へ書く。

毎月の旅積立。

生活費の見直し。

本や資料代。

宿泊費。

交通費。

予備費。

三十歳までの目標額。

書いているうちに、胸が少し重くなった。

数字は、夢を急に現実へ引き戻す。

日本中を旅しながら発信したい。

そう言うのは簡単だ。

でも、宿泊費は一泊いくらかかるのか。

移動費は月にどれくらいになるのか。

収入が不安定になったら、何ヶ月分の生活費が必要なのか。

考え始めると、怖いことばかりが出てくる。

紡はペンを止めた。

逃げたくなる。

でも、ここで閉じたら、また夢は引き出しの奥へ戻ってしまう。

怖いまま、丁寧に書く。

セリの声が胸の中で静かに響く。

紡はもう一度ペンを持った。

「怖い数字ほど、紙に出す」

そう書いた。

それだけで、少しだけ息がしやすくなった。

朝食を食べながら、紡は簡単な計算をした。

一泊旅にかかるお金。

交通費。

宿泊費。

食事代。

現地で買うもの。

資料や本。

小田原と三島で使った金額を思い出しながら、だいたいの平均を書く。

月に一度、一泊旅をするなら。

月に一度が難しい月は、日帰りにするなら。

近所の記録だけにする月を作るなら。

そう考えると、少し現実的になってきた。

毎月必ず遠くへ行く必要はない。

水のように続けるためには、流れを太くしすぎないことも大切だ。

仕事が忙しい月は、近所を書く。

余裕がある月は、一泊する。

お金に余裕がない月は、図書館で調べる。

体力がない日は、朝の花屋だけを見る。

それでも、流れは止まらない。

紡はノートに書いた。

「毎月どこかへ行くことより、毎月何かを聞き続けること」

その一文を書いたとき、胸の奥が少し軽くなった。

旅の回数だけで、自分の活動を測らなくていい。

遠くへ行ったかどうかだけで、前に進んでいるかを決めなくていい。

聞き続けること。

見続けること。

書き続けること。

それが核なのだ。

会社へ行く準備をしながら、紡は今日やることを決めた。

昼休みに、旅積立用の口座設定を見直す。

退勤後、今月の支出をざっくり確認する。

週末、図書館へ行って地域文化の本を探す。

来月の予定を見ながら、日帰りで行ける場所をひとつ候補にする。

やることが、少し具体的になった。

大きな夢を見上げるだけではなく、足元に小さな石を置いていくような感覚だった。

駅へ向かう道で、紡はいつもの花屋の前を通った。

白い花を買った日から、店員とは少しだけ挨拶を交わすようになっていた。

今日は店員が、水の入ったバケツを運んでいるところだった。

「おはようございます」

紡が声をかけると、店員が笑った。

「おはようございます。前の白い花、もう終わりました?」

「昨日、花びらが少し落ちました」

「そうですか。最後までよく持ちましたね」

「水を替えたからかもしれません」

「それもありますね。でも、花も頑張ったんですよ」

花も頑張った。

その言い方が、紡には少し可愛らしく聞こえた。

「頑張ったんですね」

「はい。花も、持つ子と持たない子がいますから」

紡は小さく笑って、駅へ向かった。

花も、持つ子と持たない子がいる。

同じように水を替えても、同じようには咲かない。

人もそうかもしれない。

同じやり方で続けられるとは限らない。

同じ頻度で旅に出られるとは限らない。

誰かができているからといって、自分も同じようにできるわけではない。

自分の持ち方を知る。

自分の水の吸い方を知る。

それも、続けるためには必要なのだと思った。

会社では、朝から新メンバーの受け入れ準備が続いた。

資料の最終調整。

座席表の確認。

初日の流れ。

真帆が作った全体図は、思っていた以上によくできていた。

「これ、すごく見やすい」

紡が言うと、真帆は安心したように笑った。

「本当ですか。昨日、少し時間かかりました」

「時間をかけた分、初めて読む人に優しい資料になってると思う」

「よかったです」

真帆は嬉しそうに画面を見た。

紡はその横顔を見ながら、ふと思った。

人に任せることは、自分の時間を守るだけではない。

相手の中に、自分で進める力が育つ。

昨日まではその考えを、頭ではわかっていた。

でも今日、真帆が作った資料を見て、少し実感した。

全部を自分が抱え込んでいたら、この全体図は生まれなかったかもしれない。

紡は仕事用のノートに短く書いた。

「任せたから、生まれたもの」

その言葉は、今の紡にとっても大切だった。

旅も、発信も、全部を一人で抱え込む必要はないのかもしれない。

母に確認してもらう。

美咲に話す。

セリに助言をもらう。

会社で分担する。

読んでくれた人のコメントに耳を澄ませる。

自分だけで完結させないことで、流れは広がっていく。

昼休み、紡は一人で会社近くのカフェに入った。

美咲は会議が長引いていた。

いつもの定食屋ではなく、静かにノートを広げられる場所にしたかった。

窓際の席に座り、サンドイッチとコーヒーを頼む。

周りには、同じように一人で昼を過ごす人が何人かいた。

パソコンを開く人。

本を読む人。

イヤホンをして目を閉じる人。

昼休みの一時間は、それぞれの人にとって小さな避難場所なのかもしれない。

紡はそんなことを思いながら、青いノートを開いた。

朝書いた「続けるための生活設計」のページを見返す。

お金。

時間。

体力。

仕事。

どの欄も、まだ途中だった。

紡はまず、時間の欄に書いた。

平日の夜、毎日書こうとしない。

週二回、三十分でもよい。

書けない日は、メモだけでよい。

朝の五分を使う。

休日の午前に一時間、まとめる。

旅の翌日は、無理に投稿しない。

一度寝かせる文章を作る。

書きながら、少し安心した。

毎日完璧に書く、と思うと苦しくなる。

でも、週二回ならできるかもしれない。

書けない日は、メモだけ。

それも、流れを止めないことになる。

次に、体力の欄へ書く。

一泊旅の翌日は、予定を詰めない。

旅先で歩きすぎない。

食事を抜かない。

睡眠を削って投稿しない。

疲れているときは、近所だけ歩く。

体調が悪い日は、休むことも流れの一部。

最後の一文を書いたとき、紡は少し笑った。

休むことも流れの一部。

以前なら、休むことは止まることだと思っていた。

けれど、水も、見えない場所を流れることがある。

表面に出ていないからといって、消えたわけではない。

自分も、休む日があっていい。

そう思えるようになったことも、三島から持ち帰った変化だった。

最後に、仕事の欄。

残業を前提にしない。

引き受ける前に、期限を確認する。

自分の範囲を言葉にする。

真帆に任せられることを増やす。

仕事で見た言葉や手つきも、記録の種にする。

会社員の自分を、仮の姿にしない。

書き終えると、ページが文字で埋まった。

紡はそれを眺めた。

生活設計というほど立派なものではない。

でも、確かに設計図のようだった。

夢を遠くの空に浮かべるのではなく、今日の昼休みのテーブルに広げた感じがした。

コーヒーを一口飲む。

少し冷めていた。

でも、その苦味が今の気分に合っていた。

午後、上司との打ち合わせがあった。

受け入れ準備は大詰めで、いくつか追加の依頼が出た。

紡はメモを取りながら、すぐに返事をしないよう意識した。

できること。

できないこと。

今日中に必要なこと。

明日でいいこと。

自分がやること。

誰かに任せること。

頭の中で分けてから、答える。

「この部分は今日中に対応します。ただ、研修資料の細かい文言調整は、明日の午前に回したいです」

「真帆さんに一次確認をお願いして、私は最終確認に入ります」

「座席表の連絡は、総務に確認してから共有します」

一つひとつ言葉にするたびに、紡は自分が少しずつ変わっているのを感じた。

以前より、行動が少し早い。

でも、無理に走っているわけではない。

考えてから、動く。

怖くても、言う。

抱え込みそうになったら、分ける。

その繰り返しだった。

打ち合わせが終わったあと、上司が言った。

「藤沢さん、最近仕事の進め方が安定してきたね」

紡は少し驚いた。

「そうですか」

「うん。前は丁寧だけど、ちょっと抱え込みすぎてた。最近は人を巻き込みながら進められている感じがする」

人を巻き込みながら。

その言葉に、紡は真帆の全体図や、母に文章を見せたこと、セリに投稿の確認をしたことを思い出した。

仕事だけではない。

自分は少しずつ、一人で閉じずに外へ出す練習をしているのだと思った。

「まだ慣れないですけど」

紡が言うと、上司は笑った。

「慣れなくても、できてきてるよ」

その言葉に、胸が少し温かくなった。

慣れなくても、できてきている。

それは、今の紡に必要な言葉だった。

退勤後、紡はまっすぐ帰らず、図書館へ寄った。

会社から少し歩いた場所にある小さな区立図書館。

平日の夜でも、何人かが静かに本を読んでいる。

紡は地域資料の棚へ向かった。

日本各地の暮らし、郷土料理、街道、祭り、商店街、食文化。

背表紙を見ているだけで、胸が少し高鳴る。

買うとお金がかかる。

家に置ける冊数にも限りがある。

でも、図書館なら、調べることができる。

お金をかけずに学べる場所が、近くにあったのだ。

今まで何度も前を通っていたのに、本気で使おうとしていなかった。

紡は郷土料理の本を一冊、街道の本を一冊、地域の商店街についての本を一冊借りることにした。

貸出機で本を通す。

レシートのような貸出票が出てくる。

返却期限の日付が印字されていた。

紡はそれを見て、少し嬉しくなった。

返す日がある。

読む期限がある。

それもまた、流れを作る小さな仕組みだった。

図書館を出ると、外はもう暗かった。

本の入ったバッグは少し重い。

けれど、その重さは嫌ではなかった。

未来のために持ち帰る重さ。

知らない町へ向かう前に、足元を少し強くする重さ。

紡は駅へ向かいながら、今日の自分が朝より少し前へ進んでいることを感じた。

大きなことはしていない。

会社へ行き、仕事を分け、昼休みに計画を書き、図書館で本を借りた。

それだけだ。

でも、それだけで、夢は少し現実に近づく。

部屋に戻ると、紡は借りてきた本をテーブルに並べた。

表紙を一冊ずつ撫でる。

自分のものではない本。

誰かも読んだかもしれない本。

次にまた誰かが読む本。

図書館の本には、静かな旅の気配があった。

紡は夕飯を簡単に済ませてから、ノートを開いた。

「続けるための生活設計」のページをもう一度見返す。

朝よりも、その言葉が少し体に馴染んでいた。

お金を見た。

時間を書いた。

体力を書いた。

仕事を書いた。

図書館へ行った。

本を借りた。

上司に範囲を伝えた。

真帆に任せた。

一つひとつは小さい。

でも、全部が同じ方向を向いている。

紡は新しいページに書いた。

「私は、夢を勢いだけで壊したくない」

書いた瞬間、少し胸が痛んだ。

会社を辞めたい。

旅をしたい。

自由になりたい。

その気持ちは本物だ。

でも、勢いだけで飛び出して、生活が苦しくなり、書くことも旅も嫌いになってしまったら。

それは、あの茶色い煮物の湯気に向かって積み重ねてきた時間を、雑に扱うことになる気がした。

夢を大事にするからこそ、焦って壊したくない。

続けるために、生活を整えたい。

紡はその下に書いた。

「前へ進むことは、急に辞めることだけではない。辞めないまま、準備を進めることも前へ進むこと」

その一文を見て、深く息を吐いた。

今の紡にとって、大切な確認だった。

夜、投稿を作った。

写真は、図書館で借りてきた本を重ね、その横に青いノートを置いたものにした。

本のタイトルは一部だけ見える程度にした。

文章を書く。

「旅を続けるために、今日はお金と時間と体力のことをノートに書いた。夢を考えるとき、きれいな景色や言葉ばかりを見たくなるけれど、交通費も宿泊費も、休む日も、働き方も、全部その夢の一部なのだと思った。勢いだけで遠くへ行くのではなく、続けるために生活を整えること。図書館で借りた本の重さが、今夜は少し頼もしい」

読み返す。

少し現実的すぎるだろうか。

でも、それも今の紡の正直な記録だった。

夢は、ふわふわしたままでは続かない。

台所の湯気にも、買い物がある。

三島の水にも、手入れがある。

旅にも、発信にも、生活がある。

紡は投稿ボタンを押した。

画面に、青いノートと本の写真が表示される。

派手ではない。

けれど、今の紡には必要な一枚だった。

しばらくして、美咲からコメントが届いた。

『生活設計、私もやらなきゃと思った』

紡は少し笑った。

返信を書く。

『私も今日やっと少し書いたところ。怖い数字ほど紙に出すことにした』

すぐに、美咲から返事が来る。

『怖い。でもそれ大事』

紡は頷いた。

怖い。

でも大事。

その二つが同時にあるものを、これからも避けずに見ていきたいと思った。

母からもメッセージが届いた。

『図書館、いいじゃない。お金かけずに調べられるし』

母らしい現実的な反応に、紡は笑った。

『うん。しばらく活用する』

少しして、母からもう一通来た。

『続けるなら、無理しすぎないことね』

紡はその文字を見て、胸が温かくなった。

続けるなら。

母が、続けるという前提で言ってくれている。

やめなさい、ではなく。

心配だけど、続けるなら無理しすぎないで。

その変化は小さく見えて、紡にとっては大きかった。

『うん。無理しすぎないために考えてる』

そう返した。

寝る前、紡は白い花を見た。

花はもう、明日には処分することになりそうだった。

最初に買ったときの姿ではない。

でも、この数日、部屋に水と小さな明るさをくれた。

終わるものもある。

続くものもある。

終わりながら、何かを残すものもある。

紡は花を見つめながら、今日のページに最後の一行を書いた。

「続けるために、整える」

その言葉は地味だった。

でも、力があった。

紡はノートを閉じた。

明日も会社がある。

数字も、時間も、仕事も、簡単にはいかない。

それでも、今日は少しだけ現実を見た。

怖い数字を紙に出し、働き方を書き、図書館で本を借りた。

夢が少しだけ、暮らしの中へ降りてきた。

それは、紡にとって確かな前進だった。

部屋の灯りを消すと、テーブルの上に積まれた本の輪郭が、暗闇の中でかすかに見えた。

まだ読んでいないページ。

まだ知らない町。

まだ決めていない未来。

そのすべてが、今夜は遠すぎるものではなく、少しずつ手を伸ばせる場所にあるように思えた。


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