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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第27章 会社員のわたしだから見えるもの

東京へ戻る電車の中で、紡はしばらく何も書けなかった。

膝の上には、深い青色のノートがある。

バッグの中には、三島で買った小さな焼き菓子と、水辺で拾わずに眺めただけの葉の記憶がある。

スマートフォンには、セリと並んで座ったカフェの場所が、まだ地図の履歴に残っている。

書きたいことは、たくさんあった。

水の町に戻ったこと。

橋の上で聞いた朝の流れ。

セリの手帳。

コーヒーの湯気。

怖いまま、丁寧に書くという感覚。

会社にいるから見えるものがある、という言葉。

けれど、書きたいことが多すぎると、かえって手が止まる。

紡はノートを開いたまま、窓の外を見た。

三島の町が遠ざかり、景色は少しずつ東京へ近づいていく。

山の輪郭が薄くなり、住宅が増え、線路沿いの建物が密になっていく。

日常へ戻っている。

けれど、以前のように、旅の時間が終わってしまう寂しさだけではなかった。

水の町で受け取ったものは、まだ体の中に残っている。

セリの言葉も、胸の奥に静かに沈んでいる。

会社にいるから見えるものがある。

その一文が、何度も戻ってきた。

紡はペンを持った。

長い文章はまだ書けない。

だから、短く一行だけ書いた。

「戻る場所も、書く場所になる」

書いた瞬間、胸の奥が少し動いた。

戻る場所。

それは、会社であり、東京の部屋であり、いつもの通勤路であり、昼休みの定食屋であり、母の台所でもある。

今までは、そこから出ることばかり考えていた。

旅へ行くために、会社を辞める。

新しい人生へ行くために、今の暮らしを変える。

もちろん、その思いはまだ消えていない。

三十歳までに働き方を変えたいという気持ちは、今も紡の中にある。

でも、今いる場所をただの待機場所のように扱うのは、少し違うのかもしれない。

ここにも、書くものがある。

ここでしか見えないものがある。

そう思うと、東京へ戻る電車の音が、少しだけ違って聞こえた。

翌朝、紡はいつもの時間に起きた。

三島の宿で目覚めた朝とは違う。

窓の外には、隣のマンションの壁。

遠くの水音はない。

川沿いの光もない。

けれど、洗面台の水を流すと、細い音が部屋に広がった。

水はここにもある。

紡は顔を洗いながら、三島の橋の上を思い出した。

同じ水ではない。

でも、流れるということは同じだった。

朝食を終えて、通勤バッグに青いノートを入れる。

三島で買った焼き菓子を一つ、会社用の小さな袋に入れた。

美咲に渡そうと思った。

セリに会った話を、きっと聞かれる。

すべてをうまく話せるかはわからない。

でも、話したいと思った。

駅へ向かう道で、花屋の前を通る。

白い花はもう店先にはなかった。

代わりに、淡い黄色の花が並んでいる。

店員がバケツの水を替えていた。

その音に、紡は自然に耳を向ける。

水を捨てる音。

新しい水を注ぐ音。

茎がバケツの中で揺れる音。

ほんの数秒のことだった。

でも、紡はその音を通り過ぎなかった。

スマートフォンのメモに書く。

「月曜朝。花屋。週末の花は入れ替わっていた。水も、花も、同じままではない」

駅まで歩きながら、紡は思った。

こういう一行が、いつか文章になるのかもしれない。

ならないかもしれない。

でも、残しておくことに意味がある。

全部を書ききろうとしなくてもいい。

受け取ったものを、まず小さく置いておく。

それも、流れを止めない方法だった。

電車はいつものように混んでいた。

肩が触れ合い、誰かのバッグが腕に当たる。

つり革を握る手。

スマートフォンを見つめる顔。

眠たそうな目。

ため息。

靴音。

以前なら、朝の電車は息苦しいだけだった。

一日が始まる前から、すでに疲れる場所。

でも今朝は、少し違った。

ここにも、人の暮らしが集まっている。

誰かは子どもの弁当を作ってから乗っているかもしれない。

誰かは夜勤明けかもしれない。

誰かは昨日、家族と喧嘩したかもしれない。

誰かは今日、大事な面接があるかもしれない。

誰かはただ、眠いだけかもしれない。

その一つひとつを知ることはできない。

けれど、想像することはできる。

朝の電車にも、暮らしの湯気はあるのかもしれない。

湯気というより、少し湿った空気のようなもの。

眠気や不安や、急ぎ足の生活が混ざった空気。

紡はつり革につかまりながら、心の中でそう思った。

会社に着くと、週明けのざわつきが待っていた。

新メンバーの配属時期が正式に一週間早まったという連絡。

受け入れ資料の最終確認。

研修スケジュールの調整。

真帆との分担。

上司との打ち合わせ。

三島の余韻は、一瞬で押し流されそうになった。

紡は席に座り、パソコンを開いた。

受信箱に並ぶメールを見て、少しだけ肩が重くなる。

でも、すぐに青いノートを開いた。

仕事用のノートではない。

旅の記録を書いている、深い青色のノート。

その端に、昨日の言葉がある。

会社にいるから見えるものがある。

紡はその文字を見て、息を整えた。

ここも、書く場所になる。

そう思うだけで、仕事が楽になるわけではない。

忙しさが消えるわけでもない。

けれど、ただ飲み込まれるだけではなくなる。

紡は今日やることを紙に書き出した。

受け入れ資料の最終確認。

真帆の修正箇所確認。

研修スケジュール案作成。

上司へ十五時までに共有。

自分の担当業務のメール返信。

十八時以降は新しい作業を増やさない。

最後の一行を書いたとき、紡は少しだけ背筋を伸ばした。

十八時以降は新しい作業を増やさない。

守れるかどうかはわからない。

でも、書く。

自分の時間を守るために、最初から線を引く。

それも、今の紡にとっては行動だった。

午前中、真帆と資料を確認した。

真帆は前よりも、自分の意見を言うのが少し早くなっていた。

「ここは、新しく入る人にはまだわかりにくいと思います」

「どう直したらよさそう?」

紡が聞くと、真帆は少し考えてから答えた。

「最初に全体の流れを一枚で見せてから、細かい手順に入る方がいいかなと思いました」

「いいと思う」

紡は頷いた。

「じゃあ、その全体図を真帆さんが作ってみる?」

「はい。やってみます」

真帆は以前よりも、少し迷いながらも前へ出ている。

その変化が、紡には嬉しかった。

誰かの成長を近くで見ること。

それも、会社にいるから見えるものだ。

真帆が席に戻ったあと、紡はメモに短く書いた。

「後輩が、自分の言葉で『わかりにくい』と言えた朝」

書いてから、少し笑った。

仕事中に何を書いているのだろう。

でも、これは仕事の邪魔ではなかった。

むしろ、仕事の中で流れてしまう小さな変化を、掬い上げることだった。

セリの言葉を思い出す。

会社にいるから見えるものがある。

紡はその言葉を、今朝少しだけ実感していた。

昼休み、美咲と定食屋へ行った。

席に着くなり、美咲が前のめりになる。

「で、どうだった?」

紡は笑った。

「早い」

「当たり前でしょ。ずっと気になってたんだから」

紡はバッグから三島の焼き菓子を出した。

「お土産」

「ありがとう。で、どうだった?」

「お土産よりそっち?」

「もちろん」

美咲があまりにも真剣な顔をするので、紡は少し肩の力が抜けた。

「会えてよかった」

まず、そう言った。

「すごく緊張したけど」

「どんな人だった?」

紡は少し考えた。

「静かな人だった。でも、遠い人ではなかった」

「遠い人ではなかった?」

「うん。憧れてたから、もっと完璧な人みたいに思ってたの。でも、迷うこともあるって言ってた。書けない日もあるって。書きたいと思ったものほど、一度立ち止まるって」

美咲は黙って聞いていた。

「それ、すごいね」

「うん」

紡は水の入ったグラスを見つめた。

「私、怖さをなくさなきゃいけないと思ってたんだと思う。堂々と書けるようになって、迷わず動けるようになってからじゃないと、ちゃんとした発信者にはなれないって」

「うん」

「でも、怖いまま丁寧に書けばいいんだって思った」

美咲は少し表情をやわらげた。

「紡に合ってるね」

「そう?」

「うん。怖くなくなる紡って、あんまり想像できないし」

「ひどい」

「褒めてる」

美咲は笑った。

「怖がりながら丁寧に進む方が、紡っぽい」

紡は苦笑しながらも、その言葉を嬉しく受け取った。

怖がりながら丁寧に進む。

それが自分の歩き方なら、それでいいのかもしれない。

「あと、会社にいるから見えるものがあるって言われた」

紡が言うと、美咲は箸を止めた。

「それ、いいね」

「うん。私、早く会社員の自分を卒業しなきゃって思ってたのかもしれない。旅をする自分になるために、今の自分を早く終わらせないとって」

「わかる気がする」

美咲は少し視線を落とした。

「私も、今の仕事がずっと続くのかなって考えると焦ることあるけど、じゃあ今の時間が全部無駄かって言われたら、違うもんね」

「うん」

「会社にいるから見えるもの、たぶん私にもあるんだろうな」

美咲の声が、いつもより少し静かだった。

紡はその横顔を見た。

美咲にも、美咲の迷いがある。

明るく見えて、いつも軽く返してくれる友人の中にも、言葉になっていない不安がある。

紡は今まで、そのことをどれだけ見ていただろう。

美咲は紡の話を聞いてくれる人。

そう思いすぎていたかもしれない。

「美咲が見えてるものも、聞いてみたい」

紡が言うと、美咲は少し驚いた顔をした。

「私の?」

「うん。いつかでいいけど」

美咲は少し照れたように笑った。

「じゃあ、そのうち話す」

「うん」

運ばれてきた定食の湯気が、二人の間に立ち上った。

今日は焼き魚定食だった。

味噌汁の匂い。

焼き魚の皮の香ばしさ。

昼休みの短い時間。

午後にはまた仕事へ戻る。

でも、この時間にも、ちゃんと温度がある。

紡はそう思った。

午後は慌ただしかった。

資料の修正。

上司への共有。

新メンバーの座席調整。

研修担当への連絡。

細かい確認が何度も重なる。

十八時以降は新しい作業を増やさない、と朝に書いたことが、少しずつ難しくなっていく。

十七時半を過ぎた頃、上司から追加の確認が来た。

「藤沢さん、今日中に研修資料の補足も見られる?」

その一言に、紡は反射的に「はい」と答えそうになった。

口が動く直前で、止まる。

今日中。

補足資料。

見ようと思えば見られるかもしれない。

でも、そこまで引き受けると、十八時以降も仕事が続く。

帰ってから三島のことを書く時間はなくなるだろう。

疲れて、何も書けずに眠るかもしれない。

もちろん、仕事だから仕方ない日もある。

けれど、本当に今日でなければならないのか。

紡は一呼吸置いた。

「今日中にざっと確認することはできます。ただ、細かいところまで見るなら明日の午前の方が確実です」

上司は少し考えた。

「明日の午前で間に合うか」

「はい。今日中に全体だけ見て、明日の十時までにコメントを入れる形ならできます」

「じゃあ、それでお願い」

「承知しました」

言えた。

全部を引き受けず、できる範囲を伝えた。

大げさなことではない。

でも、紡の中では小さな勝利だった。

席に戻ると、胸の奥に静かな達成感があった。

自分の時間を守ることは、仕事を雑にすることではない。

むしろ、確実にできる形を伝えることだ。

流れを止めないために、自分の水路を詰まらせない。

紡はメモに書いた。

「今日中に全部見ます、と言わなかった」

また、地味な一文。

でも、大切な一文だった。

十八時半、紡は会社を出た。

少し残業したが、持ち帰るほどではなかった。

空は暗くなっている。

駅へ向かう途中、定食屋の前を通ると、夕方の客が入り始めていた。

昼に自分たちが座った席には、知らない二人組がいた。

同じ店でも、昼と夜では顔が違う。

会社員の昼ごはんの場所が、夜には誰かの夕飯の場所になる。

紡は少し立ち止まり、店内の明かりを見た。

会社にいるから見えるもの。

昼休みの店。

退勤後の店。

同じ場所の違う顔。

紡はスマートフォンに短く書いた。

「昼の定食屋と夜の定食屋。同じ湯気でも、帰る場所が違う」

部屋に戻ると、紡はコートを脱ぐ前に、青いノートをテーブルに置いた。

三島から戻って、初めての月曜日。

書きたいことが、朝よりも増えていた。

花屋の水。

朝の電車。

真帆の「わかりにくい」。

美咲の迷い。

上司に全部は無理だと伝えたこと。

昼と夜の定食屋。

会社にいるから見えるものは、こんなにあった。

紡は夕飯を簡単に済ませ、パソコンを開いた。

「暮らしの湯気をたどる」のフォルダを開く。

新しい文書を作る。

タイトルは、少し迷ってからこうした。

「月曜日の会社にも、湯気はある」

少し照れくさい。

でも、今の紡にはそれが一番近かった。

書き始める。

「三島から戻った翌朝、会社へ向かう電車はいつものように混んでいた。肩が触れ、誰かのバッグが腕に当たり、眠そうな顔が窓に映っていた。以前の私は、その時間をただ耐えるものだと思っていた。でも今朝は、そこにも暮らしが集まっているのだと思った。」

指が動く。

思ったより、書けた。

三島の水のように滑らかではない。

途中で止まり、言葉を消し、また打ち直す。

それでも、流れは止まらなかった。

真帆のことを書くときは、名前を出さなかった。

「後輩」とも書かなかった。

「近くで仕事をする人」として、少しぼかした。

相手の暮らしを置き去りにしない。

セリの言葉が、指先に残っている。

美咲のことも、書きすぎないようにした。

友人の迷いを、自分の文章のために使いすぎない。

でも、昼休みの定食屋で、誰かの言葉が少しだけ開いたことは残したかった。

紡は書きながら、何度も立ち止まった。

書きたいと思ったものほど、一度立ち止まる。

セリの言葉が、また戻ってくる。

立ち止まることは、進んでいないことではない。

丁寧に進むために、必要な時間なのだ。

一時間ほど書いたところで、文章は途中のまま止まった。

完成には遠い。

でも、焦らなかった。

火を止めてから味が入る。

母の言葉が、今度は文章にも当てはまる気がした。

すぐに投稿しなくていい。

少し置いて、明日また読む。

味が入る時間を待つ。

紡は文書を保存した。

青いノートに戻り、今日の日付の最後に書く。

「会社員の私を、早く終わらせなくていい」

その文字を見て、少しだけ涙が出そうになった。

ずっと、今の自分を仮の姿のように扱ってきた。

本当は旅をしたいのに、会社にいる自分。

本当は書きたいのに、資料を作っている自分。

本当は自由になりたいのに、安定にしがみついている自分。

そんなふうに分けていた。

でも、今日一日を思い返すと、会社にいたからこそ受け取った言葉がたくさんあった。

真帆の成長。

美咲の迷い。

上司との調整。

昼の定食屋。

夜の定食屋。

朝の電車。

それらは、旅先の市場や水辺と同じように、紡の中に残っている。

書ける。

ここからも、書ける。

そのことが、紡を静かに支えた。

夜、短い投稿をした。

写真は、帰り道に撮った定食屋の外灯だった。

店名は写らないようにした。

暖簾の端と、外へこぼれる明かりだけ。

文章を書く。

「三島から戻った月曜日。会社へ行き、会議に出て、資料を直し、昼休みに定食屋でごはんを食べた。旅先の水音は聞こえないけれど、朝の電車にも、昼の味噌汁にも、帰り道の店の明かりにも、それぞれの暮らしがあった。会社にいるから見えるものがある。今の自分を早く終わらせようとするのではなく、今ここで見えているものも、丁寧に書いていきたい」

読み返す。

「会社にいるから見えるものがある」

その言葉は、セリから受け取ったものだ。

けれど今は、紡の一日の中を通って、自分の実感になっている。

紡は投稿した。

すぐに反応を確認しなかった。

今日はそれでよかった。

書けたこと。

今の自分から逃げずに、月曜日を書けたこと。

そのことを、まず自分で受け取りたかった。

寝る前、美咲からメッセージが来た。

『今日の投稿、よかった。月曜日にも湯気あるね』

紡は少し笑った。

『あるね。見落としてた』

すぐに返信が来た。

『私の月曜日にもあるかも』

紡はその言葉を見つめた。

美咲の月曜日。

それも、いつか聞いてみたい。

でも、急がない。

相手の言葉は、こちらの都合で引き出すものではない。

流れてきたときに、丁寧に受け取ればいい。

紡は返信した。

『いつか聞かせて』

美咲から、

『そのうちね』

と返ってきた。

そのうち。

その余白が、今は心地よかった。

部屋の明かりを消す前に、紡は青いノートをもう一度開いた。

今日、最後に書きたい言葉があった。

「旅は、今いる場所を否定するためではなく、今いる場所をもう一度見るためにもある」

書いたあと、紡はしばらくその文字を見つめた。

三島へ行った。

セリに会った。

水の音を聞いた。

そして東京へ戻り、会社へ行った。

その全部が、一本の流れの中にある。

どこか一つだけが本当の自分の場所なのではない。

旅先にも、会社にも、実家にも、近所にも。

紡の目が向く限り、書くべきものはある。

紡はノートを閉じた。

明日も会社がある。

忙しさは続く。

うまくいかない日もあるだろう。

また抱え込みそうになる日も、投稿が怖くなる日もあると思う。

でも、今日の月曜日を少し書けた。

それだけで、明日へ向かう足元が少しだけしっかりした気がした。

灯りを消すと、部屋はすぐに暗くなった。

水音は聞こえない。

川もない。

けれど、胸の奥にはまだ、細い流れが続いていた。

東京の月曜日の中にも、その流れは消えずにあった。


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