第26章 水の町で、憧れの人に会う
土曜日の朝、紡は三島行きの電車に乗っていた。
膝の上には、深い青色のノート。
足元には、小さな青いボストンバッグ。
窓の外には、東京のビルが少しずつ遠ざかっていく景色が流れている。
一度訪れた町へ、もう一度向かう。
それだけで、前とは違う気持ちがあった。
はじめて三島へ向かった朝は、水の町へ行くという期待と、続けるための旅にしたいという緊張があった。
今日はそこに、もう一つの緊張が重なっている。
セリに会う。
午後二時。
三島駅近くのカフェ。
一時間ほど。
予定は、青いノートにも、スマートフォンのカレンダーにも入っている。
母には場所と時間を送った。
美咲にも、会うことを伝えた。
カフェの位置も確認した。
安全な場所であることも、何度も地図で見た。
準備はした。
それでも、胸は落ち着かなかった。
紡はノートを開いた。
昨日の夜、最後に書いた一文がある。
私は、途中のまま人に会いに行く。
その文字を見つめる。
途中。
その言葉は、少し前まで紡にとって頼りないものだった。
まだ足りない。
まだ整っていない。
まだ言えない。
まだ進めない。
そんなふうに、自分を止める言葉だった。
でも今は、少し違う。
途中だからこそ、会いに行く。
途中だからこそ、聞きたいことがある。
途中だからこそ、話せることがある。
紡はペンを持ち、電車の揺れの中で新しい一行を書いた。
「今日、いいところを見せようとしすぎない」
その下に、もう一行。
「ちゃんと聞く」
書いてから、静かに息を吐いた。
会いに行くのは、自分を評価してもらうためではない。
セリを試すためでもない。
画面越しに何度も支えてくれた人の言葉を、自分の耳で聞くため。
そして、自分が今どんな場所に立っているのかを、少しだけ声にしてみるため。
電車は進む。
窓の外の空が広くなる。
遠くの山の輪郭が見え始める。
紡はスマートフォンを見た。
母からメッセージが来ていた。
『着いたら連絡してね。楽しんできて』
気をつけて、ではなく。
楽しんできて。
その言葉に、胸が少し温かくなった。
紡は短く返信した。
『ありがとう。着いたら連絡する』
少しして、美咲からもメッセージが届いた。
『今の紡で行けば大丈夫。話せなかったことも、あとで書けばいい』
紡は笑った。
美咲らしい。
『ありがとう。行ってくる』
そう返して、スマートフォンをバッグにしまった。
三島駅に着くと、空気は前に来たときと少し違っていた。
季節がほんの少し進んだせいか、風に冷たさが混じっている。
けれど駅前の人の流れや、遠くに感じる山の気配は覚えている。
紡は改札を出て、まず母に連絡した。
『三島に着いたよ』
すぐに既読がつき、
『了解。無理しないでね』
と返ってきた。
紡はスマートフォンをしまい、駅前に立った。
二度目の三島。
知らない町ではなくなった。
でも、知っていると言えるほどでもない。
その距離感が、今の紡には心地よかった。
完全な他人でもなく、なじみの場所でもない。
また少しずつ近づきたい町。
紡はまず、川の方へ歩いた。
午後二時までは、まだ時間がある。
宿に荷物を預ける前に、少しだけ水音を聞きたかった。
道を進むと、やがて水の音が聞こえてきた。
さらさらと、控えめで、でも確かにそこにある音。
紡は足を止めた。
道の脇を澄んだ水が流れている。
前に見た流れと、同じ場所。
でも、同じ水ではない。
それでも、そこにある。
紡は橋の上に立った。
水面には、朝の光が揺れていた。
川底の石が見える。
緑が水の中で柔らかく揺れる。
一枚の葉が、水面をゆっくり流れていく。
水は、止まらないことで町を支えている。
あの日、ここで書いた言葉が戻ってきた。
紡はノートを開き、今日の日付の下に書いた。
「戻ってきても、水は同じ顔をして待っているわけではない。流れがあるから、また会える」
書いたあと、その言葉を少し見つめた。
人との出会いも、そうなのかもしれない。
一度言葉を交わした相手と、また同じ形で会えるわけではない。
その間に、それぞれの日々が流れている。
セリにも、紡の知らない時間がある。
紡にも、セリの知らない時間がある。
それでも今日、その流れの途中で少しだけ交わる。
そう思うと、緊張が少しだけ静かなものに変わった。
午前中、紡は水辺を歩いた。
前に入ったうなぎの店の前を通る。
まだ開店前だった。
店先ののれんは下りていない。
その前で、若い店員が水を撒いていた。
水が道路に広がり、朝の光を受けてきらりと光る。
紡は声をかけようか迷ったが、今日は通り過ぎた。
すべてを拾わなくてもいい。
今日は、午後に大切な予定がある。
水音を聞きながら、心を整えるだけで十分だと思った。
昼前、駅近くの小さな店で軽く食事をした。
温かいそば。
湯気の向こうに、店内の声がぼんやり聞こえる。
店員が「熱いので気をつけてください」と言って、丼を置いてくれた。
紡はその言葉に「ありがとうございます」と答えた。
そばを食べながら、何を話すかを考える。
聞きたいことは三つだけ。
青いノートに書いてある。
一つ目。
「セリさんは、迷ったときどうやって歩き続けていますか」
二つ目。
「人の言葉を預かって書くとき、何をいちばん大切にしていますか」
三つ目。
「会社員のまま少しずつ旅と発信を続けることを、どう育てていけばいいと思いますか」
書いてみると、どれも今の紡にとって大切な問いだった。
でも、全部を聞けなくてもいい。
会話は質問表ではない。
その場の流れに任せることも大切だ。
紡はそばをゆっくり食べ終えた。
宿に荷物を預け、身軽になってからカフェの場所を確認した。
駅から歩いて数分。
通りに面した、明るい店だった。
ガラス越しに中の様子が見える。
一人客も多く、店員の声も落ち着いている。
ここなら大丈夫。
紡は母に店の外観がわかる写真を送った。
『ここで会う予定。終わったらまた連絡する』
母からすぐに返事が来た。
『わかった。楽しんで』
紡はその言葉を見て、少しだけ笑った。
楽しんで。
もう一度、胸の中で繰り返す。
午後一時五十分。
紡はカフェに入った。
店員に案内され、窓際の二人席に座る。
アイスティーを頼んだ。
グラスが運ばれてきても、あまり喉は通らなかった。
外を歩く人の姿が見える。
ベビーカーを押す人。
旅行鞄を持った人。
制服姿の学生。
犬を連れた年配の男性。
町の流れの中に、自分が座っている。
紡は青いノートを膝の上に置いた。
開かずに、表紙だけをそっと触る。
午後二時少し前、店の扉が開いた。
紡は顔を上げた。
その人は、想像していたよりも静かな雰囲気の人だった。
年齢は紡より少し上に見える。
肩にかかるくらいの髪を一つにまとめ、深い緑色のカーディガンを着ている。
大きなリュックではなく、使い込まれた布のバッグを肩にかけていた。
派手さはない。
でも、歩いてきた場所の空気を少しまとっているように見えた。
店内を見回したその人と、目が合う。
少しだけ微笑んだ。
紡は立ち上がった。
「セリさん、ですか」
声が少し上ずった。
「紡さんですね」
セリは柔らかく笑った。
画面越しに何度も読んだ名前の人が、目の前で声を出している。
それだけで、紡は胸がいっぱいになった。
「はじめまして」
「はじめまして。今日はありがとうございます」
二人で軽く頭を下げる。
セリが向かいの席に座った。
店員が注文を取りに来て、セリはホットコーヒーを頼んだ。
一瞬、沈黙が落ちる。
紡は何か言わなければと思った。
でも、言葉がすぐには出てこない。
セリは急かさなかった。
窓の外へ少し視線を向けてから、言った。
「三島、歩けましたか」
その問いに、紡の緊張が少しほどけた。
「はい。午前中に少しだけ水辺を歩きました」
「水音、変わらずありました?」
「はい。でも、前に来たときと同じではなくて」
セリが頷く。
「同じ場所なのに、同じではないですよね」
「そう思いました。水が流れているから、また会えるのかもしれないって」
言ってから、紡は少し恥ずかしくなった。
うまく言えただろうか。
けれどセリは、静かに目を細めた。
「いい言葉ですね」
紡の胸が温かくなった。
「今日、橋の上でそう思って、ノートに書きました」
「見せてもらっても?」
「え?」
セリはすぐに言い足した。
「無理にではなく。もしよければ」
紡は少し迷った。
青いノートは、自分の内側に近い場所にある。
でも、今日ここまで持ってきたのは、きっと見せたい気持ちもどこかにあったからだ。
紡はノートを開き、今日のページをセリの方へ向けた。
セリは丁寧にそれを読んだ。
指で触れたりはせず、少し身を乗り出すようにして、文字を追う。
その姿を見て、紡は少し安心した。
大切なものとして見てくれている。
「戻ってきても、水は同じ顔をして待っているわけではない。流れがあるから、また会える」
セリは小さく声に出した。
「紡さんの言葉になっていますね」
「私の言葉、ですか」
「はい」
セリはノートから顔を上げた。
「誰かの言葉を受け取って、それを自分の中で少し時間を置いて、それから出てきた言葉だと思います」
紡はすぐには返せなかった。
自分の言葉。
ずっと欲しかったものだった。
誰かのようではなく、自分の目で見たものを、自分の呼吸で書くこと。
それが少しでもできているのなら。
「嬉しいです」
紡は小さく言った。
セリのコーヒーが運ばれてきた。
湯気が立つ。
その湯気を見て、紡は思わず目を留めた。
セリがそれに気づき、微笑んだ。
「暮らしの湯気、ですね」
紡は少し照れた。
「はい。つい見てしまいます」
「それは、いい癖だと思います」
いい癖。
紡はその言葉を胸にしまった。
会話は、思っていたよりゆっくり進んだ。
セリは、紡が想像していたように、何かを教える人のようには話さなかった。
問いかけて、聞いて、少しだけ自分のことを話す。
その距離感が心地よかった。
紡は小田原の市場で出会った女性の話をした。
名前を聞きそびれた揚げ物の味。
味は残そうと思って残るものではない、という言葉。
海辺で食べた紙袋の温かさ。
セリは頷きながら聞いていた。
「名前を聞きそびれたこと、残念に思いますか」
「思います。でも、聞きそびれたからこそ、あのときの自分の未熟さも一緒に残っている気がします」
「それも大事ですね」
「はい。次は聞こうと思いました」
「聞こうと思えるようになったなら、聞きそびれたことも無駄ではないです」
その言葉に、紡は少し救われた。
完璧に受け取れなかったことも、次の行動につながるなら意味がある。
そう思えた。
次に、三島の水の話になった。
紡は、水を汲んでいた男性の言葉を話した。
気がするだけでも、毎日がちょっといいなら。
セリはその言葉を聞いて、少し笑った。
「いいですね」
「はい。すごく残りました」
「旅先で出会う言葉って、大きな名言より、そういう日常の端にある言葉の方が残ることがあります」
「わかります」
紡は頷いた。
「その人が、言おうとして準備した言葉じゃないからかもしれません」
「そうですね。暮らしの中からこぼれた言葉だから、温度がある」
暮らしの中からこぼれた言葉。
紡は青いノートを開き、その言葉を書いた。
セリはそれを見て、少し笑った。
「今も書くんですね」
「あ、すみません」
「謝らなくていいです。忘れないために書くんですよね」
「はい」
「私も、よく書きます」
そう言って、セリは自分のバッグから小さな手帳を出した。
布のカバーがついた、使い込まれた手帳だった。
角が少し擦れている。
ページの端には、いくつもの付箋が見えた。
「セリさんも、紙に書くんですね」
「書きます。スマートフォンにも残しますけど、紙の方が、そのときの手の迷いまで残る気がして」
紡は深く頷いた。
「わかります。字が揺れていると、そのとき緊張していたことまで思い出します」
「そう。それも記録ですよね」
セリは手帳をそっと閉じた。
憧れの人も、手で書いている。
旅慣れていて、言葉がいつも自然に出てくるように見えた人も、紙に迷いを残している。
そのことが、紡には少し不思議で、嬉しかった。
紡は思い切って聞いた。
「セリさんは、迷うことはありますか」
聞いたあと、少し緊張した。
憧れの人に、踏み込みすぎただろうか。
でも、セリは驚かなかった。
コーヒーを一口飲み、カップを置いてから答えた。
「あります。しょっちゅう」
そのあっさりした答えに、紡は目を瞬いた。
「しょっちゅう、ですか」
「はい」
セリは小さく笑った。
「どこへ行くかも迷いますし、何を書くかも迷います。書いていいのか、書かない方がいいのかで迷うこともあります」
紡は黙って聞いた。
「旅をしていると、たくさんの人に会います。でも、出会ったからといって、全部を書いていいわけではありません。相手が話してくれたことが、その場の空気の中だけで生きる言葉だったこともあります」
紡は、母の言葉を思い出した。
変にきれいに書かなくていいからね。
そして、自分がノートに書いた一文。
残したいからこそ、相手を置き去りにしない。
「書かない選択もあるんですね」
紡が言うと、セリは頷いた。
「あります。むしろ多いです」
「多いんですか」
「はい。書きたいと思ったものほど、一度立ち止まります」
紡は胸の中に、その言葉を入れた。
書きたいと思ったものほど、一度立ち止まる。
「どうやって決めるんですか」
「完全には決められません」
セリは正直に言った。
「でも、私はいつも考えます。その人が読んだとき、自分の暮らしを勝手に持っていかれたと感じないか。見せ物にされたと感じないか。私の感動のために、その人の生活を使っていないか」
紡の胸に、静かな重さが落ちた。
それは厳しい言葉だった。
けれど、必要な重さだった。
「怖くなりませんか」
「なります」
セリは迷わず答えた。
「だから、怖さを持ったまま書きます。怖くなくなったら、たぶん危ないと思っています」
怖くなくなったら、危ない。
紡はその言葉に息を飲んだ。
自分はいつも、怖さをなくしたいと思っていた。
緊張しない自分。
堂々と書ける自分。
迷わず行動できる自分。
でも、怖さは消すべきものではないのかもしれない。
相手の暮らしを預かるときの怖さ。
言葉を外へ出すときの怖さ。
その怖さがあるから、雑に扱わずにいられる。
「怖いままでいいんですね」
紡が言うと、セリは静かに頷いた。
「怖いまま、丁寧に書けばいいんだと思います」
その言葉は、紡の中に深く入ってきた。
怖いまま、丁寧に書く。
それなら、今の紡にもできるかもしれない。
セリは少し表情を緩めた。
「紡さんは、もうそれをしていますよ」
「私が、ですか」
「はい。お母さまの文章を、投稿前に見せたんですよね」
紡は驚いた。
「投稿に書いていましたか」
「細かくは書いていませんでした。でも、文面から、確認したのかなと思いました」
「はい。見せました。怖かったです」
「それは、とても大事な怖さです」
セリの声はやわらかかった。
紡は胸が熱くなった。
怖かったことを、間違いではなかったと言われた気がした。
少し沈黙が流れた。
窓の外では、人が行き交っている。
カフェの中では、カップが置かれる音、誰かの笑い声、ミルクを注ぐ音がしている。
その音の中で、紡はふと思った。
自分は今、旅先で人の言葉を聞いている。
しかも、画面越しに憧れていた人の言葉を。
でもその人は、遠い場所にいる完璧な人ではなかった。
迷い、怖がり、書かない選択もしている人だった。
それが、紡にはとても大きなことに思えた。
憧れは、遠くに置きすぎると、自分を小さくする。
でも、近くで声を聞くと、歩き方を教えてくれる。
紡は、そう感じた。
「セリさん」
紡は少し迷いながら口を開いた。
「私は、まだ会社員で、旅も少ししかしていなくて、発信も始めたばかりです。三十歳までに働き方を変えたいと思っています。でも、本当にできるのか、自信がありません」
言葉が少し震えた。
でも、止めなかった。
「会社を辞めたい気持ちはあります。でも、今の仕事で得たものもあるし、母も心配するし、お金のことも怖いです。旅と発信を仕事にするなんて、そんな簡単なことじゃないのもわかっています」
セリは、途中で遮らずに聞いていた。
「だから、焦ります。もう二十七なのに、とか、まだ何もできていない、とか。周りは結婚したり、昇進したり、ちゃんと進んでいるように見えて。私は、まだ途中で」
そこまで言って、紡は一度息を吸った。
「でも、途中のまま動いてみようと思って、今日ここに来ました」
言い終えたあと、胸が大きく上下した。
言えた。
うまくまとまっていない。
でも、今の自分の言葉で言えた。
セリはしばらく黙っていた。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
言葉を急がずに受け取ってくれている沈黙だった。
やがて、セリは静かに言った。
「途中のまま来られたことは、とても大きいと思います」
紡は目を上げた。
「完成してから動こうとすると、たぶんずっと動けません」
セリは続けた。
「旅も、書くことも、働き方を変えることも、歩きながら形が変わります。最初に描いた通りには、あまり進みません」
「セリさんも、そうでしたか」
「そうです」
セリは少し笑った。
「私も、最初はもっと格好よく旅をして、もっときれいな文章を書けると思っていました。でも実際は、体調を崩したり、宿が取れなかったり、書けない日が続いたり、人の言葉をうまく受け取れなくて落ち込んだりしました」
紡は驚いた。
セリにも、そんな日がある。
当たり前のことなのに、想像できていなかった。
「でも、そういう日があったから、今の書き方になった気がします」
「書けない日も、必要だったんですか」
「必要だったと言い切るのは、少しきれいにしすぎかもしれません。でも、書けない日があると、書ける日のありがたさがわかります。歩けない日があると、歩ける距離を大事にするようになります」
セリは窓の外を見た。
「紡さんは、今、会社にいながら書いていますよね」
「はい」
「それは、弱点ではないと思います」
紡は少し息を止めた。
「会社にいるから見えるものがあります。通勤の水音も、昼休みの定食屋も、後輩に説明するときの言葉も、仕事の中で自分の時間を守ろうとする感覚も。旅だけをしている人には書けないものです」
セリの言葉が、紡の胸に広がっていく。
会社にいるから見えるもの。
それは、自分でも少し感じ始めていた。
でも、憧れの人から言われると、胸の奥に深く届いた。
「会社を辞めるかどうかは、急がなくていいと思います」
セリは言った。
「もちろん、いつか決める日が来るかもしれません。でも、今はまず、続ける流れを作ること。紡さん自身が書いていたように、水のように」
紡は、目の奥が熱くなった。
自分が三島で書いた言葉が、セリの口から返ってくる。
水のように続ける。
それは、ただ自分に言い聞かせた言葉ではなく、外へ出して、誰かに受け取られ、また自分へ戻ってきた言葉だった。
「私、続けたいです」
紡は言った。
「旅も、書くことも。まだ形はわからないけど、止めたくないです」
「それで十分だと思います」
セリは微笑んだ。
「止めたくないと思えるものは、大事にした方がいいです」
止めたくないと思えるもの。
紡は、その言葉を胸の中で繰り返した。
会話の時間は、思っていたより早く過ぎた。
一時間は、あっという間だった。
全部は話せなかった。
聞きたいことも、三つすべては聞けなかった。
でも、不思議と焦りはなかった。
余白が残った。
それが、次へ続く気がした。
カフェを出ると、外の光は少し傾いていた。
駅前の通りに、人の影が伸びている。
「今日はありがとうございました」
紡は深く頭を下げた。
「こちらこそ。会えてよかったです」
セリが言った。
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
「私も、会えてよかったです」
紡は素直に答えた。
セリは少しだけ首を傾げて、笑った。
「また、三島の続きを書いてください」
「はい」
「それから、お母さまの肉じゃがの続きも」
「続き、ですか」
「味は、一度書いて終わりではないでしょう?」
その言葉に、紡は小さく笑った。
「たしかに」
「何度か作って、自分の味になる。その過程も、きっと書けます」
母の言葉が戻ってくる。
何回か作って、自分の味になるの。
紡は頷いた。
「書きます」
「楽しみにしています」
セリはそう言って、駅の方へ歩いていった。
紡はその背中をしばらく見送った。
遠ざかっていくセリの姿は、思っていたより普通だった。
布のバッグを肩にかけ、歩幅は少しゆっくりで、駅前の人の流れに自然に混ざっていく。
遠い人ではなかった。
でも、軽い人でもなかった。
迷いながら歩き、怖さを持ったまま書き、書かない選択も知っている人。
その姿が、紡には深く残った。
紡は母にメッセージを送った。
『終わったよ。ちゃんと会えた。すごくいい時間だった』
すぐに返事が来た。
『よかった。気をつけて宿に戻ってね』
続けて、もう一通。
『話せた?』
紡は少し笑った。
『うん。うまく全部は話せなかったけど、今の自分のことは少し話せた』
母から返事が来る。
『それで十分じゃない』
紡は画面を見つめた。
それで十分。
今日の紡に、必要な言葉だった。
宿へ戻る前に、紡はもう一度川沿いへ向かった。
夕方の水は、朝とは違う色をしていた。
光が少し金色になり、水面に細かく揺れている。
橋の上に立つと、昼間の会話が少しずつ胸の中でほどけていった。
怖くなくなったら、危ない。
怖いまま、丁寧に書けばいい。
会社にいるから見えるものがある。
止めたくないと思えるものは、大事にした方がいい。
どれも、今すぐすべて理解できるわけではない。
でも、ノートに書かなくても、体の中に残っていた。
紡は青いノートを開いた。
手が少し震えていた。
会う前の緊張とは違う震えだった。
受け取った言葉の重さに、手が追いつかないような震え。
それでも書いた。
「憧れの人は、遠い場所で光っている人ではなかった。迷いながら、怖さを持ったまま、丁寧に歩いている人だった」
続けて書く。
「私も、怖いままでいい。怖いまま、丁寧に書く」
そして、少し間を空けて、
「会社にいるから見えるものがある」
その一文を書いたとき、胸の奥で何かがほどけた。
会社員である自分を、早く脱がなければいけない服のように感じていた。
本当の自分になるためには、今の仕事をやめなければならない。
そんなふうに考えていた。
でも、今の自分だから見えるものがある。
通勤の朝。
会議室の沈黙。
後輩が考える時間。
昼休みの定食屋。
上司に「全部は抱えられません」と言う勇気。
母へ予定を共有すること。
そのすべてが、紡の書くものになる。
会社を辞める日が来るかどうかは、まだわからない。
でも、そこへ向かうまでの今を、空白にしなくていい。
今も、ちゃんと書ける。
紡は橋の欄干に手を置いた。
水は流れている。
変わりながら続いている。
今日、セリと会ったことも、この流れの一部になる。
宿へ戻る頃、空は少し暗くなっていた。
部屋に入り、荷物を置く。
靴を脱ぐと、足に疲れが広がった。
でも、心は静かだった。
紡は机に向かい、今日の投稿を書くことにした。
すぐに長い文章を書くのではなく、今の温度だけを少し残したかった。
写真は、夕方の水面。
橋の影と金色の光が揺れている写真。
文章を打つ。
「三島で、会いたかった人に会った。うまく全部は話せなかったけれど、今の自分のことを少し話せた。『怖くなくなったら、危ないと思っています』という言葉が残っている。誰かの暮らしを預かって書くなら、怖さは消さなくていいのかもしれない。怖いまま、丁寧に書く。水の町で受け取ったこの言葉を、これから何度も思い出すと思う」
読み返す。
セリの言葉を載せることに、少し迷った。
本人が話してくれた言葉だ。
勝手に出していいのか。
紡はスマートフォンを置き、しばらく考えた。
怖いまま、丁寧に書く。
今まさに、その怖さがある。
紡はセリにメッセージを送った。
『今日はありがとうございました。先ほどお話ししてくださった「怖くなくなったら危ない」という言葉がとても残っています。今日の記録として短く投稿に書きたいと思ったのですが、載せても大丈夫でしょうか。もし控えた方がよければ、自分のノートだけに残します』
送信する。
しばらくして、セリから返事が来た。
『丁寧に確認してくださってありがとうございます。その言葉は載せていただいて大丈夫です。ただ、私の言葉として強く出すより、紡さんが受け取った気づきとして書いていただけると嬉しいです』
紡はその返事を読んで、深く頷いた。
受け取った気づきとして書く。
その方が、今の紡にも合っている。
投稿文を少し直した。
「三島で、会いたかった人に会った。うまく全部は話せなかったけれど、今の自分のことを少し話せた。誰かの暮らしを預かって書くなら、怖さは消さなくていいのかもしれない。怖いまま、丁寧に書く。今日受け取ったこの感覚を、水の音と一緒に、これから何度も思い出すと思う」
これなら、セリの言葉をそのまま奪わず、自分の受け取りとして書ける。
紡は投稿ボタンを押した。
画面に夕方の水面が表示される。
その下に、自分の言葉。
怖いまま、丁寧に書く。
今日、三島で得た新しい支えだった。
夜、ベッドに入る前に、紡は青いノートをもう一度開いた。
最後に、今日の約束を書く。
「止めたくないものを、大事にする」
その下に、
「今の私だから書けるものから、逃げない」
書いたあと、胸の奥が静かに熱くなった。
会いたかった人に会った。
遠い憧れは、少しだけ近い道になった。
そしてその道は、紡をどこか特別な場所へ連れていくというより、今いる場所をもう一度見直す方へ伸びていた。
会社。
母の台所。
近所の花屋。
定食屋。
水の町。
どれも、紡の足元にある。
そこから書いていい。
そこから歩いていい。
紡はノートを閉じた。
窓の外では、三島の夜が静かに深まっている。
川の音は部屋までは届かない。
けれど、耳を澄ませれば、胸の奥にまだ水音が残っていた。
その音を抱えたまま、紡は目を閉じた。




