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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第25章 見せたい自分より、今の自分で

月曜日の朝、紡は目覚めるとすぐにスマートフォンを見た。

まだ薄暗い部屋の中で、画面の光だけが白く浮かぶ。

セリから新しいメッセージは届いていなかった。

少しだけ息を吐く。

ほっとしたような、残念なような、不思議な気持ちだった。

三島で会えるかもしれない。

その予定がまだ完全には決まっていないことが、紡の胸を落ち着かなくさせていた。

決まってしまえば怖い。

でも、決まらないままでも落ち着かない。

人に会う約束というのは、旅の予約とはまた違う重さがある。

宿を予約するときは、自分が行くかどうかだけだった。

けれど、誰かと会う約束には相手の時間がある。

相手の予定があり、相手の気持ちがある。

紡は布団の中で、天井を見つめた。

セリに会ったら、何を話せばいいのだろう。

小田原の話。

三島の水の話。

母の肉じゃがの話。

暮らしの湯気をたどる、という名前のこと。

会社員でありながら、少しずつ旅と発信を続けたいと思っていること。

三十歳までに働き方を変えたいと思っていること。

でも、まだ何も確かな形にはなっていないこと。

考えれば考えるほど、話したいことは増える。

同時に、言えない気もしてくる。

セリの前で、うまく話せなかったらどうしよう。

薄っぺらい人間だと思われたらどうしよう。

自分の言葉で書いているつもりなのに、実際に話すと何も出てこなかったら。

紡は目を閉じた。

その不安は、以前から何度も味わってきたものに似ていた。

投稿ボタンの前で指が止まるとき。

母に文章を送る前。

上司に自分の時間を守りたいと話す前。

全部、怖かった。

でも、怖かったことの向こう側に、少しずつ道ができてきた。

小さく動けば、道は少し広がる。

紡はその言葉を思い出し、ゆっくり起き上がった。

白い花は、グラスの中で少しだけ首を傾けていた。

そろそろ終わりに近い。

けれど、まだ完全には散っていない。

紡は水を替えた。

茎を少し切るか迷ったが、今日はそのままにした。

無理に長持ちさせようとするより、今日の姿をそのまま見ておきたい気がした。

朝食を用意しながら、紡は青いノートを開いた。

三島のページ。

セリに会うかもしれない、と書いたページ。

準備することの下に、いくつかの項目が並んでいる。

人通りのあるカフェを調べる。

昼間の時間にする。

母に場所と時間を共有する。

話したいことを少し整理する。

聞きたいことを三つだけ考える。

無理にいいところを見せようとしない。

自分の言葉で話す。

紡は最後の二つを見つめた。

無理にいいところを見せようとしない。

自分の言葉で話す。

それが一番難しい気がした。

いいところを見せたい。

そう思うこと自体は、たぶん自然なことだ。

憧れの人に会うなら、少しでもちゃんとしていると思われたい。

文章を書いている人として、少しでも深く考えているように見られたい。

旅の記録をしている人として、もう少し経験があるように見せたい。

でも、そんな自分を見せたところで、すぐに苦しくなるだろう。

紡はまだ途中にいる。

旅を始めたばかりで、会社も続けていて、母にも全部は話せていなくて、投稿のたびにまだ緊張している。

それが今の自分だ。

その自分を隠してセリに会っても、きっと何かがずれる。

紡はノートに新しく書いた。

「見せたい自分ではなく、今の自分で会う」

書いた瞬間、胸が少し軽くなった。

その言葉は、逃げ道ではなかった。

むしろ、小さな覚悟だった。

会社へ行く支度をしていると、スマートフォンが震えた。

セリからだった。

紡は思わず息を止めた。

『おはようございます。日程ですが、来月の第二土曜日、午後二時頃であれば三島駅近くにいられそうです。もし紡さんの予定と合えば、一時間ほどお茶できたらと思います』

心臓が大きく鳴った。

決まる。

本当に決まってしまう。

続けて、もう一文。

『無理のない範囲で大丈夫です。旅の途中で少し立ち寄るくらいの気持ちでいてください』

紡は画面をしばらく見つめた。

旅の途中で少し立ち寄るくらいの気持ち。

セリらしい言い方だった。

大げさにしない。

でも、軽く扱ってもいない。

その距離感に、紡は少し救われた。

返信を打つ。

『おはようございます。ご連絡ありがとうございます。第二土曜日の午後二時、大丈夫です。私も三島に一泊で行く予定なので、駅近くのカフェで一時間ほどお会いできたら嬉しいです』

そこまで書いて、少し考える。

『緊張していますが、旅の途中で少し立ち寄る気持ちで伺います』

そう足した。

送信する。

今度は、すぐに送れた。

怖くないわけではない。

でも、前よりも指が止まらない。

それが嬉しかった。

数分後、セリから返事が届いた。

『ありがとうございます。では、近くなったらお店を決めましょう。お会いできるのを楽しみにしています』

お会いできるのを楽しみにしています。

その一文を読んだ瞬間、紡の胸の奥に柔らかい明かりが灯った。

楽しみにしている。

自分だけではない。

相手もそう言ってくれている。

その事実が、紡を少し支えた。

会社へ向かう道で、紡は母にメッセージを送った。

『セリさんと会う日、第二土曜日の午後二時になりそう。三島駅近くのカフェで一時間くらい。お店が決まったら送るね』

すぐに既読はつかなかった。

母は朝の家事をしている時間だろう。

紡はスマートフォンをバッグにしまい、駅へ向かった。

花屋の前では、白い花とは違う赤い花が並んでいた。

惣菜屋のシャッターはまだ半分だけ開いている。

いつもの道。

でも紡の中には、新しい予定がある。

会いたい人に会う日が、カレンダーの中に置かれた。

それだけで、朝の道が少しだけ広がって見えた。

会社に着くと、月曜日の空気は重かった。

週明けのメール。

会議予定。

来期準備の共有事項。

新メンバーの受け入れ資料。

やることは多い。

紡はデスクに座り、深く息を吸った。

浮き立つ気持ちをそのまま持ち込むと、仕事が手につかなくなりそうだった。

でも、会う予定があるからといって、日常を雑にしていいわけではない。

むしろ、今の日常を整えながら、旅の時間を作る。

それが自分のやり方だと思った。

紡は今日やることを書き出した。

午前中にメール整理。

十一時の会議。

午後に真帆と資料確認。

夕方に上司へ進捗共有。

退勤後、三島のカフェ候補を二つ調べる。

一つずつ書くと、頭の中のざわめきが少し収まった。

朝一番に、真帆から声をかけられた。

「藤沢さん、受け入れ資料の修正版、見てもらえますか?」

「うん。十時半でもいい?」

「はい、大丈夫です」

以前なら、すぐに見ていたかもしれない。

頼まれた瞬間に、自分の予定をずらして。

でも今日は、時間を決めた。

今やっているメール整理を終わらせてから見る。

相手を待たせすぎない。

自分の流れも止めすぎない。

その両方を選ぶ。

小さなことだったが、紡には確かな変化だった。

十時半、真帆と資料を確認した。

真帆は自分でかなり直してきていた。

見出しもわかりやすくなり、手順には画像が入っている。

「すごくよくなったと思う」

紡が言うと、真帆はほっとしたように笑った。

「よかったです。最初は何を見ればいいかわからなかったんですけど、新しく入る人のつもりで読むと、気になるところが出てきました」

「その視点、大事だと思う」

紡は頷いた。

「説明する側じゃなくて、受け取る側で読むこと」

言いながら、自分の文章にも同じことが言えると思った。

書き手の自分が伝えたいこと。

読み手が受け取れる形。

話してくれた人の大切なもの。

その間を、どう流すのか。

仕事で考えていることと、発信で考えていることは、やはりつながっている。

真帆が言った。

「藤沢さん、最近説明が前よりわかりやすいです」

「そう?」

「はい。前からわかりやすかったんですけど、最近は、こっちに考える余白を残してくれる感じがします」

考える余白。

その言葉が、紡の中に残った。

余白。

それは、今の自分に必要なものでもある。

旅にも、仕事にも、人との会話にも。

余白がなければ、流れは詰まる。

セリに会う日も、質問を詰め込みすぎない方がいいのかもしれない。

一時間しかないからと、聞きたいことを全部聞こうとすると、きっと息苦しくなる。

余白を残す。

沈黙があってもいい。

うまく話せない時間があってもいい。

そう思うと、少しだけ緊張がやわらいだ。

昼休み、美咲といつもの定食屋へ向かった。

席に座ると、美咲がすぐに聞いた。

「決まった?」

紡は水の入ったグラスを持ちながら頷いた。

「たぶん。第二土曜日の午後二時」

「セリさん?」

「うん」

美咲はぱっと表情を明るくした。

「すごい。会うんだ」

「まだ少し先だけど」

「でも決まったんでしょ。すごいよ」

紡は照れながら、グラスの水を一口飲んだ。

「緊張してる」

「だろうね」

「何話したらいいんだろう」

「普通に話せばいいんじゃない?」

「それが難しい」

美咲は笑った。

「紡はちゃんと話そうとしすぎるから」

その言葉に、紡は少し黙った。

確かにそうかもしれない。

ちゃんと伝えたい。

失礼がないようにしたい。

浅く見えないようにしたい。

そう思うほど、言葉が固くなる。

「いいところ見せようとしてる?」

美咲が聞いた。

紡は苦笑した。

「してると思う」

「じゃあ、やめたら?」

「簡単に言うね」

「だって、セリさんはたぶん、すごい人に会いたいんじゃなくて、紡に会おうとしてくれてるんでしょ」

紡は箸袋を指で折りながら、その言葉を受け止めた。

紡に会おうとしてくれている。

何かを成し遂げた人ではなく。

旅を始めたばかりの人。

会社員を続けながら、少しずつ書いている人。

迷いながら、それでも動こうとしている人。

それが今の紡だ。

「今のまま行けばいいんだよ」

美咲は続けた。

「会ってみて、うまく話せなかったら、それも今の紡だし」

「うまく話せなかったら落ち込みそう」

「落ち込んだら、また書けばいいじゃん」

その言葉に、紡は思わず笑った。

「雑」

「でも本当でしょ」

美咲は生姜焼きを口に運んだ。

「紡は最近、落ち込んでも書けるようになってきてる気がする」

紡はその言葉に少し驚いた。

落ち込んでも書ける。

そうかもしれない。

以前は、落ち込むと何もできなくなっていた。

自分には向いていない。

やっぱり無理だ。

そう思って、ノートを閉じていた。

でも今は、落ち込んだことも言葉にできるかもしれないと思える。

怖かったこと。

うまくいかなかったこと。

緊張したこと。

それらも、書いていいのだと少しずつわかってきた。

「今のまま行く」

紡は小さく言った。

「それ、今日のノートに書きなよ」

美咲が言う。

「書く」

二人で笑った。

午後の会議では、予定外の問題が出た。

新メンバーの配属時期が一週間早まるかもしれないという話だった。

準備が前倒しになる。

資料、研修、担当分け。

一気に調整が必要になるかもしれない。

会議室の空気が少しざわついた。

紡の胸にも、いつもの焦りが走った。

せっかくセリに会う予定が決まったのに。

三島へ行く前の週が忙しくなるかもしれない。

準備の時間が削られるかもしれない。

旅の前に疲れきってしまうかもしれない。

そんな思いが一瞬で頭に広がる。

けれど、紡はそこで深く息を吸った。

全部を今すぐ抱えなくていい。

流れを分ける。

余白を残す。

止めないために、詰まらせない。

紡は会議メモに、まず必要なことを書いた。

確認すること。

決まっていないこと。

今週中にできること。

来週でもよいこと。

誰に任せるか。

頭の中の不安を、そのまま紙へ移していく。

紙に出すと、少しだけ形が見えた。

上司が言った。

「藤沢さん、受け入れ資料の進捗、どこまでいけそう?」

紡はすぐに「全部大丈夫です」と言いかけて、止まった。

大丈夫という言葉は便利だ。

でも、便利すぎて、自分を簡単に追い詰める。

紡はメモを見ながら答えた。

「資料の基本部分は今週中に整えられます。ただ、研修用の補足資料まで私一人で見ると、少し厳しいです。そこは真帆さんと分担して、最終確認だけ私が入る形にしたいです」

言えた。

会議室の中で、自分の範囲を言えた。

上司はすぐに頷いた。

「それでいこう。真帆さん、お願いできる?」

真帆が頷く。

「はい。やってみます」

紡は小さく息を吐いた。

また一つ、抱え込みそうになるところで踏みとどまれた。

それは、誰にも気づかれないほど小さな行動だった。

でも、紡の中では大きかった。

夕方、母から返信が届いた。

『セリさんとの予定、了解。お店が決まったら送ってね。楽しみだけど、気をつけて』

楽しみだけど、気をつけて。

その言葉が母らしくて、紡は少し笑った。

『ありがとう。決まったら送るね』

送信してから、しばらく画面を見つめた。

母に言えた。

美咲にも言えた。

会社でも自分の範囲を言えた。

今日は、言うことが少しできた日だと思った。

退勤後、紡は書店へ寄った。

三島の本をもう一度見たかったのと、セリに会う前に何か勉強しておきたいという気持ちがあった。

旅行ガイドの棚。

地域文化の棚。

エッセイの棚。

紡は何冊か手に取った。

でも、どれを読んでも、少し落ち着かなかった。

もっと知識を入れなければ。

もっと話せる材料を持たなければ。

そう思っている自分に気づいた。

見せたい自分を作ろうとしている。

紡は本を棚に戻した。

もちろん、知ることは大事だ。

土地の背景を知らずに歩くより、少しでも学んでから行きたい。

でも、知識を鎧のように着てセリに会おうとしているなら、それは違う。

紡は少し迷って、三島の古い街道について書かれた薄い本だけを買った。

全部を詰め込むためではない。

水の町をもう少し深く歩くために。

レジで会計を済ませ、紙袋を受け取る。

その軽さに少し安心した。

今の自分に持てる分だけでいい。

部屋に戻ると、白い花の花びらが一枚、テーブルに落ちていた。

紡はそれを指でそっと拾った。

薄く、柔らかい。

終わりに近づいている花の一部。

けれど、汚いとは思わなかった。

咲ききったあとの静かな形だった。

紡はその花びらを、青いノートの今日のページに挟んだ。

押し花にするつもりはなかった。

ただ、今日の記憶として少し置いておきたかった。

夕飯を済ませ、紡は三島のカフェ候補を調べた。

駅に近いこと。

人通りがあること。

一人でも入りやすいこと。

話しやすそうな席があること。

いくつか候補を出し、セリに送る文面を考える。

『こちらのお店はどうでしょうか』

『駅から近く、人通りもある場所です』

『もし他にご都合のよい場所があれば、そちらでも大丈夫です』

何度か書き直す。

丁寧に。

でも、遠慮しすぎないように。

紡は候補を二つ送り、最後に、

『どちらも駅から近いので、セリさんのご都合に合わせやすい方で大丈夫です』

と添えた。

送信する。

今日、何度目かの小さな送信だった。

母へ。

セリへ。

仕事のチャットへ。

小さな言葉を外へ出すたびに、紡の中で少しずつ道ができていく。

夜、青いノートを開く。

今日のページに、美咲の言葉を書いた。

「セリさんは、すごい人に会いたいんじゃなくて、紡に会おうとしてくれてるんでしょ」

その下に、自分の言葉を書く。

「見せたい自分より、今の自分で」

さらに、

「余白を残す」

「全部を話そうとしない」

「緊張しても、急がない」

「うまく話せなかったら、それも書けばいい」

書いているうちに、胸の中の緊張が少しずつ整っていった。

消えるわけではない。

でも、形が見えてくる。

緊張は敵ではない。

準備する理由。

言葉を選ぶ理由。

安全な場所を調べる理由。

自分をよく見せようとしすぎないように、ノートへ戻る理由。

紡は最後に、今日会社で言えたことも書いた。

「全部大丈夫です、と言わなかった」

その一文を見て、小さく笑った。

地味な一文だった。

でも、今日の自分には大事だった。

何かを始めるには、足すことだけではない。

引き受けすぎないこと。

抱え込みすぎないこと。

見せすぎないこと。

それもまた、前へ進むための行動なのだ。

寝る前、セリから返信が届いた。

『候補ありがとうございます。ひとつ目のお店がよさそうです。駅から近いですし、明るい雰囲気ですね。そこにしましょう』

決まった。

場所まで決まった。

紡は画面を見つめた。

胸が高鳴る。

怖い。

でも、嬉しい。

『ありがとうございます。では、そちらでお願いいたします。時間が近くなったらまたご連絡します』

送信したあと、母にも店の名前と時間を送った。

『了解。楽しんできてね。気をつけて』

母からすぐに返事が来た。

楽しんできてね。

その言葉が、紡を静かに包んだ。

気をつけて、だけではない。

楽しんできてね。

母も少しずつ変わっているのかもしれない。

いや、母が変わったというより、紡が話すようになったことで、母の中にあった言葉が出てきやすくなったのかもしれない。

紡はスマートフォンを置き、白い花を見た。

花びらは少し落ちた。

でも、茎はまだ水の中にある。

その姿が、今夜の紡にはとても自然に見えた。

完璧な姿でなくてもいい。

少し揺れていてもいい。

会いたい人に会う日まで、自分を整えながら、今のまま向かえばいい。

灯りを消す前に、紡は青いノートへ最後の一行を書いた。

「私は、途中のまま人に会いに行く」

書いた文字を見つめる。

その一文は、少し怖くて、少し誇らしかった。

途中だからこそ、話せることがある。

途中だからこそ、聞けることがある。

途中だからこそ、受け取れる言葉がある。

紡はノートを閉じた。

明日も仕事がある。

会議もある。

資料もある。

でも、カレンダーの少し先には、三島の町と、セリに会う午後がある。

その予定は、紡の胸の中で静かに光っていた。

焦らなくていい。

飾らなくていい。

今の自分で、そこへ向かえばいい。

そう思いながら、紡は部屋の明かりを消した。


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