第24章 会いたい人に、会いに行く準備
日曜日の朝、紡は白い花の水を替えた。
グラスから花をそっと抜き、洗面台で水を流す。
少し濁った水が排水口へ吸い込まれていく。
新しい水を入れ、茎をほんの少しだけ切ってから、また花を挿した。
花びらの端は少し柔らかくなっている。
けれど、まだ咲いている。
紡はその姿を見て、小さく息を吐いた。
毎日水を替えるだけで、花は少し長くそこにいられる。
ほんの少し茎を切るだけで、また水を吸おうとする。
大きな手入れではない。
でも、何もしないのとは違う。
紡は指先についた水をタオルで拭きながら、昨日ノートに書いた言葉を思い出した。
小さく動けば、道は少し広がる。
その言葉は、朝の部屋の中でも静かに残っていた。
昨日、母の肉じゃがの投稿をしたあと、思っていたより多くのコメントが届いた。
多いといっても、世の中の大きな発信に比べれば小さな数だ。
けれど紡には、十分すぎるほどだった。
知らない誰かが、祖母の味を思い出したと言ってくれた。
母に電話したくなったと書いてくれた人もいた。
火を止めてから味が入る、という言葉が今の自分に必要だったとコメントしてくれた人もいた。
紡が母の台所で受け取った言葉が、それぞれの人の暮らしの中へ少しずつ流れていく。
そのことが、まだ不思議だった。
自分の文章が、誰かを大きく変えるわけではない。
でも、誰かがその日、少しだけ台所を思い出す。
誰かが、忘れかけていた家の味を思い出す。
それだけで、書いた意味がある気がした。
紡はコーヒーを淹れ、トーストを皿にのせた。
スマートフォンを開くと、通知が一つ届いていた。
セリからだった。
紡は思わず、画面を持つ手に力を込めた。
セリからのメッセージは、いつも静かに心の奥へ届く。
けれど、慣れることはない。
紡は少し姿勢を正して、メッセージを開いた。
『肉じゃがの投稿、読みました。とてもよかったです。誰かの言葉を大事に預かっている感じがしました』
その一文を読んだだけで、胸が熱くなった。
誰かの言葉を大事に預かっている感じ。
紡が母の文章を書きながら何度も考えていたことだった。
自分がそうできていたのか不安だった。
でも、セリには少し伝わったのかもしれない。
続けて、メッセージがあった。
『暮らしの記録は、書き手だけのものではなく、話してくれた人との間にあるものだと思います。きれいにしすぎない、でも雑に扱わない。その距離感は、とても大切です』
紡は何度も読み返した。
きれいにしすぎない。
雑に扱わない。
母にも、同じようなことを言われた。
変にきれいに書かなくていいからね。
その言葉と、セリの言葉が、紡の中でそっと重なった。
さらに下へスクロールすると、最後にもう一文あった。
『来月、静岡の方へ少し行く予定があります。もし三島の記録をもう少し続けるなら、タイミングが合えば、どこかでお茶でもできるかもしれません』
紡は息を止めた。
画面の文字が、急に遠くなったように見えた。
セリに会う。
その可能性を、今まで考えたことがなかったわけではない。
でも、それはもっと先のことだと思っていた。
紡がもっと旅を重ねて、もっと文章を書けるようになって、もっと自信を持てるようになってから。
いつか、もし機会があれば。
そんな遠い場所に置いていた。
その「いつか」が、急に手の届くところへ差し出されたようだった。
紡はスマートフォンをテーブルに置いた。
胸が速く鳴っている。
嬉しい。
会ってみたい。
でも、怖い。
実際に会ったら、がっかりされるかもしれない。
画面越しの文章では、少しは書ける人に見えているかもしれない。
でも実際の紡は、普通の会社員で、旅の経験も少なくて、まだ何も成し遂げていない。
三島と小田原へ一泊しただけ。
近所の花屋と惣菜屋を書いているだけ。
セリのように日本中を歩いてきた人の前で、自分は何を話せばいいのだろう。
紡はトーストに手を伸ばしたが、食欲が少し遠のいていた。
スマートフォンの画面は、まだセリのメッセージを表示している。
タイミングが合えば、どこかでお茶でもできるかもしれません。
とても軽やかな言葉だった。
無理に誘っているわけではない。
紡に圧をかける言い方でもない。
でも、そこには確かな扉があった。
開けるかどうかは、紡に委ねられている。
紡は青いノートを開いた。
何も考えずに、まず書いた。
「セリさんに会えるかもしれない」
その文字を見ただけで、また胸が鳴った。
会いたい。
そう思った。
怖さよりも先に、確かに会いたいと思った。
画面越しに何度も救われた言葉。
旅に出る前の人にしか書けない言葉があると教えてくれた人。
怖さがあることを否定しなかった人。
小田原の投稿を読んでくれた人。
三島の水の気づきを受け止めてくれた人。
母の言葉を大事に預かった感じがすると言ってくれた人。
その人に、会ってみたい。
ただ憧れを伝えるためではなく、自分が今どんな場所に立っているのかを、一度自分の声で話してみたい。
紡はノートに続けて書いた。
「会えるほどの私になってから、と思っていた。でも、会えるほどの私になるのを待っていたら、ずっと会えないのかもしれない」
書いた瞬間、胸の奥が静かに揺れた。
それは、旅にも似ていた。
旅に出られるほどの自分になってから。
文章を投稿できるほどの自分になってから。
母に見せられるほど整ってから。
そう思っているうちは、何も始まらなかった。
小田原へ行ったときも、三島へ行ったときも、完璧な自分ではなかった。
むしろ、不安で、迷って、緊張していた。
それでも行ったから、受け取れたものがある。
会うことも、同じなのかもしれない。
紡は深く息を吸った。
すぐに返信するのは怖かった。
けれど、後回しにすると、また怖さが大きくなる気がした。
完璧な返事を考えすぎると、送れなくなる。
母の言葉が戻ってくる。
全部完璧にしようとすると続かない。
紡はスマートフォンを手に取った。
返信画面を開く。
何度か文字を打って、消した。
丁寧すぎる文章。
遠慮しすぎた文章。
嬉しさを隠しすぎた文章。
どれも違う気がした。
紡は少し迷ってから、素直に書いた。
『セリさん、メッセージありがとうございます。肉じゃがの投稿を読んでいただけて、とても嬉しいです。母の言葉をどう書けばいいのか迷いながらだったので、「預かっている感じ」と言っていただけて、少し安心しました』
そこで一度、手を止める。
続きを書く。
『来月、静岡方面にいらっしゃるのですね。もし本当にご都合が合えば、ぜひお茶できたら嬉しいです。緊張しますが、お会いしてみたいです』
緊張しますが。
その一文を入れるか迷った。
でも、消さなかった。
緊張しているのは本当だ。
そして、緊張していることを隠さなくてもいい相手だと思った。
最後に、
『三島の記録も、もう少し続けたいと思っています。水の町で受け取った言葉が、まだ自分の中で流れている感じがします』
と書いた。
読み返す。
大げさすぎない。
遠慮しすぎてもいない。
今の自分に近い。
紡は送信ボタンを押した。
送った。
送ってしまった。
テーブルの上にスマートフォンを置き、紡はしばらく動けなかった。
でも、不思議と後悔はなかった。
怖い。
けれど、その奥に、小さな明るさがある。
紡は冷めかけたコーヒーを飲んだ。
苦味が少し強くなっていた。
それでも、朝の味として悪くなかった。
その日は、母と買い物へ行く約束があった。
昼前に実家の最寄り駅で待ち合わせて、夕飯の買い出しを手伝うことになっていた。
紡は支度をしながら、何度もスマートフォンを見そうになった。
セリから返事が来ていないか。
けれど、見すぎると落ち着かなくなる。
紡はスマートフォンをバッグの奥へ入れた。
返事は、相手の時間で届く。
自分の焦りで早められるものではない。
駅へ向かう道で、花屋の前を通る。
今日は店先に黄色い花が並んでいた。
昨日の白い花とは違う明るさ。
紡は足を止めずに見た。
見たものを全部拾わなくてもいい。
でも、気づいたことは心の端に置いておける。
それだけで、少し前の自分とは違う。
実家の最寄り駅に着くと、母は改札の外で待っていた。
「早かったわね」
「電車がすぐ来たから」
母は紡の顔を見て、少し首を傾げた。
「何かあった?」
「え?」
「なんとなく。そわそわしてる」
母は鋭い。
紡は苦笑した。
「ちょっと、メッセージを送っただけ」
「誰に?」
「旅の発信をしている人。前に話した、セリさん」
「ああ、あの人」
母は思い出したように頷いた。
「何を送ったの?」
「来月、静岡の方に来るかもしれないって。タイミングが合えば、お茶できるかもって言ってくれて」
母は目を少し大きくした。
「会うの?」
「まだわからない。返事を送ったところ」
「そう」
母は少し考える顔をした。
紡は、母が心配するだろうと思った。
知らない人と会うなんて大丈夫なのか。
ちゃんと安全なのか。
変な人ではないのか。
そう言われるかもしれない。
もちろん、心配されるのは当然だ。
紡も無防備に会うつもりはない。
人の多い場所で、昼間に、短い時間。
そういうことは考えている。
母はしばらく黙ったあと、言った。
「会うなら、ちゃんと人の多いところにしなさいよ」
紡は少し笑った。
「うん。もちろん」
「場所と時間も、お母さんに送って」
「送る」
「それなら、いいんじゃない」
思っていたより、母の声は穏やかだった。
「いいの?」
紡が聞くと、母は少し眉を上げた。
「駄目って言っても、会いたいなら会うんでしょう?」
「そんなことは」
「あるでしょう」
母は笑った。
紡も、少し笑ってしまった。
「でも、ちゃんと話してくれるなら、お母さんも心配しながら待てるから」
心配しながら待てる。
その言葉が、紡の胸に残った。
心配が消えるわけではない。
でも、話すことで、母は待つことができる。
紡が行動することと、母が安心することは、完全には同じ方向を向かない。
けれど、少しずつ橋をかけることはできるのかもしれない。
「ありがとう」
紡が言うと、母は照れたように顔を逸らした。
「別に。変なところで会わないでって話よ」
二人でスーパーへ向かった。
店内には、週末の買い物客が多かった。
野菜売り場で、母はじゃがいもを手に取り、すぐに戻した。
「今日はこっちの方がいいかな」
別の袋を取る。
「何が違うの?」
紡が聞くと、母は少し笑った。
「見た感じ」
「また感覚?」
「そう。見た感じ」
紡はその言葉を心の中に置いた。
料理の言葉は、いつも少し曖昧だ。
大きすぎないくらい。
ぐらぐらさせすぎないくらい。
鍋の顔。
見た感じ。
でも、その曖昧さの中に、長く続けてきた人の確かさがある。
精肉売り場では、母が薄切り肉を選びながら言った。
「この前の文章、お父さんにも少し見せたのよ」
紡は思わず母を見た。
「え、見せたの?」
「少しだけよ。お父さんのところはぼかすって言ってたから」
「どうだった?」
「うまいって」
紡は一瞬、意味がわからなかった。
「文章が?」
「たぶん」
母は笑った。
「お父さん、何でも『うまい』って言うから」
紡も笑った。
でも、胸の奥が温かくなる。
父らしい。
料理にも、文章にも、同じ言葉。
うまい。
それしか言わないのに、その一言で少し救われる。
「お父さん、怒ってなかった?」
「怒るわけないじゃない。照れてたけど」
「そっか」
よかった。
紡は静かにそう思った。
家族のことを書くのは、やはり慎重さがいる。
でも、書いたことで少し会話が生まれるなら、それは悪いことではない。
買い物を終え、母と駅前の小さな喫茶店に入った。
母はブレンドコーヒー。
紡は紅茶を頼んだ。
窓際の席から、駅前の通りが見える。
人が行き交い、自転車が通り、バスが停まる。
母は買い物袋を足元に置き、少し息をついた。
「お母さん、セリさんに会うの、どう思う?」
紡は思い切って聞いた。
母はカップを持ったまま、少し考えた。
「どうって、会ってみたいんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、会ってみればいいんじゃない」
その言い方があまりにあっさりしていて、紡は驚いた。
「もっと心配するかと思った」
「心配はしてるわよ」
母はすぐに言った。
「でも、紡が最近いろいろ話してくれるから」
紡は黙った。
「小田原のことも、三島のことも、文章のことも。何を考えてるのか、少しわかるようになったから。何も言わずに急に誰かに会いに行くって言われたら、もっと心配だったと思う」
母の言葉は、紡の胸にゆっくり染みた。
話すことは、ただ報告するだけではない。
自分の行動が、相手の中で少し理解できる形になる。
母にとって、紡の旅や発信はまだ心配なものだろう。
でも、言葉を重ねることで、知らないものではなくなっていく。
「私も、前より話せるようになった気がする」
紡は言った。
「全部じゃないけど」
「全部じゃなくていいわよ」
母はコーヒーを一口飲んだ。
「お母さんだって、全部聞いたら口出ししたくなるかもしれないし」
「それは困る」
「だから少しずつでいいの」
二人で笑った。
少しずつ。
その言葉は、何度も紡を支えてきた。
でも今は、ただ自分に言い聞かせるだけの言葉ではなくなっている。
母との関係も、少しずつ変わっている。
会社での働き方も、少しずつ変わっている。
発信も、少しずつ外へ向かっている。
セリに会うかもしれない。
その未来も、少しずつ近づいている。
喫茶店を出る頃、スマートフォンが震えた。
紡は画面を見た。
セリからだった。
胸がまた速くなる。
母が気づく。
「返事?」
「うん」
「見たら?」
紡は頷き、メッセージを開いた。
『ありがとうございます。私もお会いできたら嬉しいです。無理のない形にしましょう。三島であれば、駅近くの人通りのあるカフェで、昼間に短い時間なら安心かと思います』
セリの言葉に、紡はほっとした。
こちらの不安まで、先に汲んでくれている。
続けて、
『日程はまだ少し調整中ですが、来月の第二土曜日の午後なら可能性があります。紡さんの三島旅と合いそうなら、また近くなったら相談しましょう』
第二土曜日。
紡がカレンダーに入れている三島の一泊旅候補の日だった。
紡は思わず母を見た。
「三島に行く日かもしれない」
「そうなの?」
「うん。来月の第二土曜日」
母は少し目を丸くしたあと、笑った。
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
「うん」
紡は短く返事を送った。
『ありがとうございます。私も来月の第二土曜日に三島へ行く予定です。まだ宿だけ取っている状態ですが、その日に少しでもお会いできたら嬉しいです。人通りのあるカフェで、昼間の短い時間で大丈夫です』
送信する。
今度は、朝よりも少しだけ指が軽かった。
会うかもしれない。
本当に。
紡はスマートフォンをしまった。
胸の奥に、緊張と期待が一緒にある。
母が買い物袋を持ち直しながら言った。
「よかったわね」
「うん」
「緊張してる?」
「してる」
「でも、嬉しそう」
紡は少し照れた。
「嬉しい」
素直に言えた。
そのことにも、自分で少し驚いた。
以前なら、嬉しいことほど隠したかもしれない。
期待して、駄目だったときに傷つくのが怖くて。
でも今は、嬉しいと言える。
緊張していると言える。
会いたいと言える。
それだけでも、少し行動力がついているのかもしれない。
夕方、部屋に戻った紡は、青いノートを開いた。
今日のページに書くことがたくさんあった。
セリに返信したこと。
母に話したこと。
母が心配しながら待てると言ってくれたこと。
父が文章を「うまい」と言ってくれたこと。
セリと三島で会えるかもしれないこと。
紡はまず、大きく一行書いた。
「会えるほどの私になるのを待たなくていい」
その言葉を見つめる。
胸の奥に、静かな力が湧いた。
完璧になってから動くのではない。
整ってから会うのではない。
いま途中にいる自分のままで、誰かに会いに行っていい。
もちろん、準備はする。
安全も考える。
相手への敬意も忘れない。
でも、自信が完成するまで待つ必要はない。
行動しながら、自信は少しずつ育つのかもしれない。
紡は次に、三島旅のページを開いた。
以前書いた目的の下に、新しい項目を足す。
「セリさんに会うかもしれない」
その下に、準備することを書く。
人通りのあるカフェを調べる。
昼間の時間にする。
母に場所と時間を共有する。
話したいことを少し整理する。
聞きたいことを三つだけ考える。
無理にいいところを見せようとしない。
自分の言葉で話す。
書いているうちに、緊張が少しだけ現実の形になっていく。
ぼんやり怖いものは、書くと少し扱いやすくなる。
初めて小田原へ行くときもそうだった。
三島を予約するときもそうだった。
母の文章を見せるときもそうだった。
怖いことを紙に出すと、それは少しだけ準備に変わる。
紡はパソコンを開き、三島駅周辺のカフェを調べた。
駅から近い場所。
人通りがある場所。
落ち着いて話せるけれど、閉鎖的ではない場所。
いくつか候補をメモする。
口コミも見る。
写真も見る。
以前なら、こういうことを調べながら、どんどん不安になっていたかもしれない。
でも今は、準備することで自分を支えている感じがあった。
行動は、勢いだけではない。
怖さを小さくするために手を動かすことも、行動なのだ。
夜、紡は「足音を聴く」に短い投稿をした。
写真は、青いノートの端と、三島のガイドブックの地図。
町の名前は少しだけ見えている。
文章を打つ。
「会いたい人に会うことを、少し考え始めた。自信がついてから、もっと経験を重ねてから、そう思っていると、きっといつまでも動けない。まだ途中の自分のままでも、会いたいと思うなら、その気持ちを大事にしていいのかもしれない。怖いことを紙に書くと、少しだけ準備に変わる。次の旅は、水の町をもう一度歩きながら、人に会う旅にもなるかもしれない」
読み返す。
少し個人的すぎるだろうか。
でも、今の紡の正直な気持ちだった。
投稿ボタンを押す。
画面に表示された文章を見て、紡は静かに息を吐いた。
また一つ、外へ出した。
すぐに美咲から反応が来た。
『もしかして、セリさん?』
紡は笑った。
隠しきれていない。
『そう。会えるかもしれない』
すぐに返信が来る。
『すごいじゃん。行動してるね』
その一文を見て、紡は胸が温かくなった。
行動してるね。
美咲にそう言われると、少し照れくさい。
でも、嬉しかった。
『緊張してる』
そう返すと、
『緊張しながら行けばいいよ』
と返ってきた。
紡はその言葉をノートの端に書いた。
緊張しながら行けばいい。
本当に、その通りだと思った。
怖くない自分になる必要はない。
緊張しない自分になる必要もない。
会いたい気持ちがあるなら、緊張ごと持って行けばいい。
寝る前、紡は白い花を見た。
花びらは、もう少しずつ終わりに近づいている。
でも、水を替え、茎を切ったことで、今日もまだ部屋にいてくれた。
完璧な姿ではない。
最初の日のような新しさもない。
それでも、そこにある姿がきれいだった。
紡は思った。
自分も、新しいままではいられない。
いつも自信に満ちているわけでもない。
迷い、疲れ、怖がり、少ししおれる日もある。
それでも、水を替えながら、少しずつ前へ向かえばいい。
会いたい人に、会いに行く。
その予定は、まだ確定ではない。
でも、紡の中ではもう、静かに始まっていた。
部屋の灯りを消す前に、青いノートへ最後の一行を書いた。
「緊張していることは、行かない理由ではなく、準備する理由にする」
書いたあと、紡はゆっくり頷いた。
明日からまた会社が始まる。
メールも、会議も、真帆の資料もある。
母への報告も、三島のカフェ探しも、セリへの返事もある。
やることが増えている。
でも、不思議と重さだけではなかった。
自分で動いたことで生まれた予定は、少し怖くても、胸の奥に明かりを灯す。
紡はその明かりを消さないように、静かにノートを閉じた。




