↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/63

第23章 小さく動けば、道は少し広がる

翌朝、紡はいつもより早くテーブルの前に座った。

窓の外はまだ白く明けきっていない。

向かいのマンションの壁も、薄い灰色に沈んでいる。部屋の中には、昨夜まで残っていた肉じゃがの匂いはもうほとんどなかった。

けれど、青いノートを開くと、母の台所はすぐに戻ってきた。

鍋の顔を見る。

話すと、残るのかもしれないね。

全部完璧にしようとすると続かない。

火を止めてから味が入る。

自分の味になる。

変にきれいに書かなくていい。

ページの上に並んだ言葉を見ていると、母の手つきや、鍋から上がった湯気や、台所の小さな音まで思い出せる気がした。

言葉は、ちゃんと残っている。

そのことに、紡は静かに胸を満たされた。

昨日、母に文章を見てもらってもいいかとメッセージを送った。

送信するまで、少し迷った。

母のことを書いた文章を、母に見せる。

それは、投稿ボタンを押すのとは別の怖さがあった。

見せないまま投稿すれば、自分の文章として自由に扱える。

でも、それでは少し違うと思った。

母の言葉を借りたのだから、母に一度渡したい。

きれいにしすぎていないか。

母が嫌な気持ちにならないか。

紡が受け取ったものと、母が話したつもりのものが、大きくずれていないか。

確かめたかった。

それは、以前の紡ならきっとできなかった。

書いたものを誰かに見せるのが怖くて、ノートの中に閉じ込めていたと思う。

でも今は、少し違う。

怖いままでも、見せてみようと思えている。

その変化に、紡自身が少し驚いていた。

コーヒーを淹れ、トーストを焼く。

朝食を食べながら、スマートフォンを開いた。

母から新しいメッセージが来ている。

『今日の夜なら読めると思う。送ってくれていいよ』

紡はその文字を見つめた。

胸が少し緊張する。

すぐに送ろうとして、手が止まった。

まだ少し直したい。

昨夜書いた文章をもう一度読みたい。

そう思った。

でも、直しすぎると、また送れなくなるかもしれない。

母が言ったではないか。

全部完璧にしようとすると続かない。

紡は小さく息を吐いた。

完璧でなくていい。

今の自分が書いたものを、今の形で渡してみればいい。

紡はパソコンを開き、「鍋の顔を見る」の文章を読み返した。

誤字をいくつか直す。

母の言葉を少しやわらかく整える。

大げさに見える一文を削る。

でも、消しすぎないように気をつけた。

母の手抜きや、怒ってばかりの日もあったという言葉も残した。

変にきれいにしすぎない。

その言葉を、文章の中にも置いておきたかった。

読み終えたあと、紡はファイルを母に送った。

送信ボタンを押した瞬間、胸がどくんと鳴った。

けれど、小田原の予約ボタンを押したときや、初めてセリにメッセージを送ったときのように、手が震えるほどではなかった。

怖さに、少しだけ慣れてきたのだと思った。

怖さが消えたわけではない。

でも、怖いまま動ける回数が少しずつ増えている。

それは、紡にとって大きな変化だった。

会社へ向かう道で、紡はいつもの花屋の前を通った。

先日買った白い花は、まだ部屋のグラスに挿してある。

少し花びらの端が柔らかくなってきたが、完全には萎れていない。

店先では、今日も店員が花を整えていた。

紡は少し迷ってから、足を止めた。

「おはようございます」

自分から声をかけた。

店員が顔を上げる。

「あ、おはようございます。この前の白い花、どうでした?」

覚えていてくれた。

それだけで、紡は少し嬉しくなった。

「まだ咲いています。部屋に花があるだけで、少し気分が変わりました」

「よかったです。水、毎日替えてあげると長持ちしますよ」

「はい。替えています」

「茎を少し切ると、また水を吸いやすくなります」

水を吸いやすくなる。

その言葉が、紡の中に残った。

「ありがとうございます。やってみます」

店員は笑って、また花の向きを整えた。

紡は駅へ向かいながら、スマートフォンのメモに書いた。

「茎を少し切ると、また水を吸いやすくなる」

歩きながら、その言葉を心の中で繰り返した。

人も、そうなのかもしれない。

古くなった部分を少し整えると、また水を吸える。

今までの自分のやり方に固まっていたところを、少しだけ切る。

何でも抱え込む癖。

すぐに「大丈夫です」と言ってしまう癖。

本音を言う前に諦める癖。

それらを少しずつ整えていけば、自分の中にもまた新しい水が入ってくるのかもしれない。

紡はそんなふうに考えて、少しだけ笑った。

花屋の一言で、朝の気持ちが軽くなる。

これも、暮らしの湯気をたどることなのだと思った。

会社に着くと、朝から慌ただしかった。

新メンバーの受け入れ準備で、上司から共有事項が次々と届いていた。

真帆からも、資料の相談が来ている。

会議室の予約変更。

クライアントからの急な確認。

午前中だけで、いくつもの小さな用事が重なった。

以前なら、紡はまず全部を自分の中に入れてしまっていた。

あとで整理すればいい。

とりあえず自分が持っておけばいい。

そう思って、気づくと一人で重くなっていた。

でも今日は、少し違う行動をした。

まず紙に書き出す。

すぐに自分がやること。

誰かに確認すること。

真帆に任せられること。

上司に判断をもらうこと。

四つに分けた。

分けるだけで、少し呼吸がしやすくなった。

流れを止めない。

詰まらせない。

三島で書いた言葉が、仕事の机の上でも支えになっている。

紡は真帆に声をかけた。

「真帆さん、この受け入れ資料の確認、一緒に分担してもいい?」

真帆は少し驚いたように顔を上げた。

「私で大丈夫ですか?」

「大丈夫。むしろ真帆さんの視点で見てほしい。新しく入る人が読んで、わかりにくいところがないか」

「なるほど」

「私が全部直すんじゃなくて、一度真帆さんに読んでもらって、そのあと一緒に確認したい」

真帆は少し考えてから、頷いた。

「やってみます」

「ありがとう」

頼んだ。

任せた。

それだけなのに、紡の胸は少しだけ弾んだ。

自分が楽をするためではない。

真帆の中に考える流れを作るため。

そして、自分の時間を守るため。

どちらも大切にしていいのだと思えた。

昼休み、美咲が紡の席まで来た。

「今日、外行ける?」

「行ける」

「じゃあ、あの定食屋?」

「うん」

二人で会社を出た。

秋の光は少しやわらかく、歩道には乾いた葉が落ちていた。

定食屋へ向かいながら、美咲が言った。

「最近、紡って前より動いてるよね」

紡は少し首を傾げた。

「動いてる?」

「うん。旅もそうだし、投稿もそうだし、会社でも前より自分から言ってる気がする」

紡は歩きながら、少し考えた。

確かに、以前より小さく動いている。

小田原へ行った。

三島へ行った。

活動名をつけた。

母に文章を見せることにした。

上司に自分の時間を守りたいと伝えた。

真帆に仕事を任せた。

花屋で自分から声をかけた。

どれも大きな行動ではない。

けれど、並べると確かに動いている。

「少しだけね」

紡は言った。

「大きく変わったわけじゃないけど」

「少しだけでも、動いてるならいいじゃん」

美咲はさらりと言った。

「止まってるときって、自分で止まってることにも気づきにくいし」

その言葉に、紡は頷いた。

「うん。前は、考えてるつもりで止まってたのかもしれない」

「今は?」

「考えながら、少し動いてる」

口にして、紡はその言葉が自分に合っていると思った。

考えることをやめたわけではない。

慎重さが消えたわけでもない。

でも、考え終わるまで何もしないのではなく、考えながら小さく試している。

それが今の自分の変化なのだと思った。

定食屋では、今日は野菜炒め定食を頼んだ。

厨房から強い火の音が聞こえる。

じゃっと油が弾ける音。

鉄のフライパンに野菜が当たる音。

その音を聞きながら、紡はふと思った。

この店の音も、いつかちゃんと書いてみたい。

会社の近くで何度も入っている定食屋。

昼休みに急いで食べるだけの場所。

でも、ここにも毎日の手がある。

店員が運ぶ水。

厨房の火。

忙しい時間帯の声。

午後の仕事へ戻る人たちの顔。

紡はスマートフォンを取り出し、メモに書いた。

「会社近くの定食屋。昼休みの火の音。午後へ戻る人のためのごはん」

美咲がそれを見て笑った。

「また書いてる」

「うん。忘れたくなくて」

「いいね」

美咲は自分の味噌汁を飲みながら言った。

「紡の投稿見てると、私も店の人の声とか気にするようになった」

「本当?」

「うん。昨日コンビニで、おばあちゃんが店員さんに『いつものパン、今日はないの?』って聞いててさ。店員さんが『今日はまだ届いてないんです』って言ってたの。なんか、それだけなんだけど、その人にとってはいつものパンがあるんだなって思った」

紡は箸を止めた。

美咲の中にも、少しずつ視線の変化が生まれている。

それが嬉しかった。

「それ、すごくいいね」

「でしょ。紡なら書きそうって思った」

「美咲も書けばいいのに」

「私はいいよ。紡に話す係で」

美咲は笑った。

紡も笑った。

でも、美咲が見つけた「いつものパン」は、紡の中に確かに残った。

誰かの日常には、いつものパンがある。

それを買えない日がある。

店員は、それを知っている。

小さなやり取りの中に、その人の暮らしが少し見える。

紡は、そういう話を聞けるようになった美咲の変化も、うれしく思った。

午後、真帆が資料を持ってきた。

「藤沢さん、見てみました」

「ありがとう。どうだった?」

「新しく入る人が読むなら、この言葉が少し社内向けすぎるかなと思いました。あと、この手順は画像があった方がわかりやすいかもしれません」

紡は資料を確認しながら頷いた。

「すごくいい視点だと思う」

真帆の表情が明るくなる。

「本当ですか?」

「うん。私も見落としてた。ありがとう」

ありがとう。

その言葉を、紡はきちんと口にした。

以前なら、指摘された部分をすぐ自分で直していたかもしれない。

でも今日は、真帆の気づきをそのまま受け取った。

「この部分、真帆さんが修正してみる?」

「はい。やってみます」

「わからなかったら聞いて」

「はい」

真帆が席へ戻る。

その背中を見ながら、紡は小さく息を吐いた。

任せることは、少しずつできるようになる。

一度でうまくいくわけではない。

真帆も、紡も。

でも、流れはでき始めている。

夕方、母からメッセージが届いた。

『読んだよ』

紡は席でスマートフォンを見つめた。

心臓が、少し速くなる。

続けて、次のメッセージが届く。

『恥ずかしいけど、変にきれいにはなってなかったと思う』

紡は思わず笑いそうになった。

さらに、

『おばあちゃんの「鍋の顔」は本当にそう言ってた。懐かしかった』

その一文を読んだ瞬間、胸が熱くなった。

懐かしかった。

母にとっても、あの文章は何かを開いたのだ。

紡が書いたことで、母の中の祖母の声が少し戻ってきた。

続けて、もう一通。

『投稿してもいいよ。ただ、お父さんのことはちょっと照れるから少しだけぼかして』

紡はすぐに返信した。

『ありがとう。お父さんのところは少し変えるね』

少し間を置いて、母から返事が来た。

『書いてくれてありがとう』

紡は、その文字を何度も読んだ。

書いてくれてありがとう。

言葉が胸の中に深く入ってくる。

母の言葉を預かったつもりだった。

でも、母にとっても、書かれることで残るものがあったのかもしれない。

紡は目の奥が熱くなるのを感じた。

すぐに泣くわけにはいかない。

まだ会社だ。

でも、胸の中は静かに揺れていた。

書くことは、誰かを置き去りにしないこと。

そして、誰かの記憶を一緒に確かめ直すこと。

その意味を、少しだけ実感した。

退勤後、紡はまっすぐ部屋へ帰った。

帰り道の花屋で、店員に教わった通り、白い花の茎を少し切ることを思い出した。

部屋に着くと、手を洗い、グラスの水を替えた。

花をそっと取り出し、茎を少しだけ切る。

切った断面を新しい水に戻す。

白い花は、昨日より少し首を傾けている。

けれど、新しい水の中で、また少し息をしたように見えた。

紡はその姿を見て、静かに思った。

自分もこうやって、少しずつ水を吸いやすくしていけばいい。

古い癖を、少しだけ整える。

話せなかったことを、少しだけ話す。

任せられなかったことを、少しだけ任せる。

書いたものを、少しだけ誰かに見せる。

その積み重ねが、行動力というものなのかもしれない。

大きく飛び出すことだけではない。

毎日の中で、ほんの少し手を伸ばすこと。

紡は夕飯を簡単に済ませ、パソコンを開いた。

母から許可をもらった文章を開く。

父に関する部分を少しぼかした。

母の言葉はそのまま残した。

祖母の「鍋の顔」も残した。

変にきれいに書かなくていい、という母の言葉も残した。

読み返す。

これでいいと思った。

投稿するには長い。

全部をそのまま載せるのではなく、少し短く整えることにした。

でも、今度は削ることが怖くなかった。

どこを残すべきか、少しずつわかってきている。

紡は投稿文を作った。

「母に肉じゃがを教わった。分量を聞くつもりで行ったのに、ノートに残ったのは『鍋の顔を見る』『全部完璧にしようとすると続かない』『火を止めてから味が入る』という言葉だった。母は、祖母からきちんと教わったわけではなく、見ているうちに覚えたと言った。暮らしの味は、レシピだけではなく、手つきや匂いや、何気ない言葉で続いていくのかもしれない。きれいにしすぎず、大事に残したい」

写真は、肉じゃがそのものではなく、母の台所で撮らせてもらった鍋のふたにした。

湯気で少し曇った銀色のふた。

そこに、台所の光がぼんやり映っている。

母の手は写っていない。

でも、気配は残っている。

紡は投稿ボタンを押した。

怖さはあった。

でも、押せた。

投稿が画面に表示される。

紡は深く息を吐いた。

また一つ、動けた。

すぐに反応を見るのではなく、青いノートを開いた。

今日の日付の下に、書く。

「母に見せた。直した。投稿した」

短い三つの言葉。

でも、紡にとっては大きかった。

見せる。

直す。

投稿する。

それは、一人で抱え込んでいた頃にはできなかった流れだった。

さらに書く。

「行動力は、急に大胆になることではないのかもしれない。小さく確かめて、小さく渡して、小さく進めること。それをやめないこと」

書いたあと、紡はペンを止めた。

今の自分に、少し誇らしさがあった。

大きな決断はまだしていない。

会社を辞める日も決めていない。

日本中を旅する暮らしも、まだ遠い。

それでも、今日の自分は確かに動いた。

真帆に任せた。

花屋で会話した。

母に文章を見せた。

許可をもらって直した。

投稿した。

それでいい。

小さく動けば、道は少し広がる。

紡は、その言葉をノートの端に書いた。

夜遅く、投稿にコメントが届いた。

『鍋の顔を見る、いい言葉ですね。うちの祖母も目分量で料理していました』

『火を止めてから味が入る、今の自分にも必要な言葉でした』

『きれいにしすぎず、大事に残したいというところに泣きそうになりました』

紡は、ひとつずつ読んだ。

母の台所の言葉が、知らない誰かの祖母や、今の自分の悩みに触れている。

それが不思議で、温かかった。

紡は母に短くメッセージを送った。

『投稿したよ。読んでくれた人が、おばあちゃんの料理を思い出したって』

少しして、母から返事が来た。

『そうなの。おばあちゃんも喜ぶかもね』

その文字を見て、紡は胸がいっぱいになった。

祖母はもういない。

でも、言葉は少しだけ残った。

鍋の顔を見る。

その言葉が、母から紡へ、紡から知らない誰かへ流れていった。

水のように。

湯気のように。

完全には残せなくても、温度の端は渡せる。

寝る前、紡は白い花の水をもう一度見た。

茎を切ったせいか、少しだけ花がしゃんとしているように見えた。

水を吸いやすくなる。

朝の花屋の言葉が、また戻ってくる。

紡はその花を見ながら、自分にも水を吸わせているのだと思った。

旅で。

文章で。

母の言葉で。

美咲との会話で。

会社での小さな挑戦で。

少しずつ、固くなっていた場所へ水が入っていく。

紡は青いノートを閉じた。

今日の最後に書いた言葉が、まだ胸に残っている。

小さく動けば、道は少し広がる。

明日も、大きなことはできないかもしれない。

でも、ひとつならできる。

誰かに話しかける。

少し任せる。

一行書く。

少し歩く。

水を替える。

それだけでも、流れは止まらない。

部屋の灯りを消すと、白い花の輪郭が暗闇の中にぼんやり残った。

昨日より少しだけ、水を吸った花。

その姿を見て、紡は静かに思った。

自分も、少しずつでいい。

少しずつ、前へ伸びていけばいい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。