↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/63

第30章 夢に値段がつく前に

水曜日の夜、紡は会社の就業規則を開いた。

予定表に入れていた通りの時間だった。

夕飯を済ませ、食器を洗い、テーブルの上に深い青色のノートを置く。

会社から支給されているパソコンではなく、自分のパソコンを開いた。

社内の資料は、会社の端末でしか確認できない。

そのため、昼休みに必要な項目だけを読んで、自分の言葉でメモしておいた。

副業。

兼業。

事前申請。

会社の信用を損なう行為の禁止。

本業に支障をきたさないこと。

情報漏洩をしないこと。

競合する事業に関わらないこと。

規則の文章は固く、読んでいるだけで肩に力が入った。

旅先の水音や、母の肉じゃがの湯気とはまったく違う世界に見える。

けれど、これも紡の夢の近くにある現実だった。

いつか文章で収入を得たい。

旅先の記録を仕事につなげたい。

そう思うなら、知らないままではいられない。

紡はノートに書いた。

「副業は、禁止ではない。事前に確認が必要」

書いたあと、しばらくその一文を見つめた。

完全に閉ざされているわけではない。

けれど、自由でもない。

申請。

確認。

説明。

それらが必要になる。

会社に、自分が何をしたいのかを伝えなければならないかもしれない。

そのことを想像すると、胸が少し重くなった。

上司には、旅先の記録や文章を書いていることを少し話している。

でも、まだ趣味に近いものとして伝えている。

収入を得る可能性。

外から依頼を受ける可能性。

それを口にすると、急に大きな話になる気がした。

会社に警戒されるかもしれない。

仕事に集中していないと思われるかもしれない。

来期の役割を任せにくいと判断されるかもしれない。

そう考えると、指先が冷たくなった。

紡はパソコンの画面を閉じかけた。

まだ収入があるわけではない。

依頼が来たわけでもない。

今すぐ考えなくてもいいのではないか。

そんな思いが浮かぶ。

けれど、ノートの端に書いた言葉が目に入った。

怖い数字ほど、紙に出す。

数字だけではない。

怖い規則も。

怖い手続きも。

わからないまま避けていると、いつまでも大きく見える。

紡は画面を閉じず、もう一度メモを読み返した。

事前申請が必要になるのは、報酬を受け取る仕事を始める場合。

無償での個人的な発信は、今のところ問題にならない。

ただし、会社の情報や取引先について書かないこと。

会社名や個人が特定される書き方を避けること。

勤務時間中に作業をしないこと。

当然だと思うことも多かった。

それでも、文章として確認すると、自分が守るべき境界が少し見えた。

紡はノートに新しい見出しを作った。

「書かないもの」

会社名。

取引先名。

社内の具体的な数字。

誰かが特定される失敗。

同僚の個人的な話。

業務上知った情報。

会社の中だけで交わされた言葉。

書きながら、セリの声を思い出した。

書きたいと思ったものほど、一度立ち止まる。

会社員としての日常を書くことと、会社の内側を勝手に外へ出すことは違う。

朝の電車。

昼休みの定食屋。

誰かに仕事を任せたときの自分の心。

全部を引き受けないと伝えたときの緊張。

それらは書ける。

でも、誰がどんな失敗をしたか。

どの案件で問題が起きたか。

どんな会社と仕事をしているか。

そこまで踏み込めば、誰かの暮らしや仕事を勝手に持ち出すことになる。

紡は、その境界を曖昧にしたくなかった。

「会社員だから書けるものがある。でも、会社員だから書いてはいけないものもある」

そう書いた。

その一文は、少し厳しかった。

でも、紡を守る言葉でもあった。

夢を仕事につなげたい。

そのために、今の仕事を雑に扱いたくない。

会社にいる自分を仮の姿にしないと決めたからこそ、そこにある責任もきちんと持ちたい。

紡はしばらく考えたあと、ノートにもう一つ書いた。

「最初の収入を急がない」

書いた瞬間、胸の奥に小さな抵抗が生まれた。

収入につなげたい。

少しでも早く、文章でお金を得てみたい。

それができれば、自分の夢が現実になったと感じられる気がする。

誰かから依頼を受ければ、自分の文章に価値があると思えるかもしれない。

でも、焦って収入を求めると、何を書くべきかより、何が売れるかを先に考えてしまうかもしれない。

反応が多いもの。

人の目を引くもの。

強い言葉。

きれいな写真。

感動的な話。

そういうものへ、自分の視線が引っ張られる可能性がある。

母の肉じゃがを、もっと泣ける話にしたくなるかもしれない。

三島の水を、人生を変えた奇跡のように書きたくなるかもしれない。

市場で出会った女性を、物語のためにわかりやすい人物にしてしまうかもしれない。

紡は、それが怖かった。

夢に値段がつくこと。

誰かがお金を払ってくれること。

それ自体が悪いわけではない。

書く仕事をしたいのだから、いつかは向き合わなければならない。

でも、値段がつく前に、自分が何を守りたいのかを知っておきたかった。

紡はノートに書いた。

「お金をもらう前に、書き方の約束を作る」

その下に、思いつくまま並べた。

相手を美化しすぎない。

苦しさを勝手に感動へ変えない。

確認できるときは確認する。

書かない選択を持つ。

自分の感動を、相手の人生より大きくしない。

反応のために言葉を強くしすぎない。

誰かの弱さを見せ物にしない。

自分の迷いも隠しすぎない。

書き終えたとき、ページが少し重く見えた。

簡単には守れないことばかりだ。

自分では丁寧に書いたつもりでも、誰かを傷つけるかもしれない。

わかりやすく整えるために、大切な曖昧さを削ってしまうかもしれない。

それでも、約束がないよりはいい。

迷ったときに戻る場所があれば、立ち止まれる。

三十歳までの地図と同じだった。

未来を縛るためではない。

自分が何を大切にしたいのかを、見失わないために書く。

紡はノートを閉じずに、スマートフォンを手に取った。

セリへメッセージを送ろうかと思った。

副業について。

文章で収入を得ることについて。

でも、指が止まった。

何でもセリに答えを求めるのは違う気がした。

セリは紡の道を決める人ではない。

言葉をくれる人ではある。

けれど、選ぶのは紡だ。

まず自分で調べる。

自分で考える。

それでもわからないことが出たときに、聞けばいい。

紡はスマートフォンを置いた。

少し前なら、誰かに答えを教えてほしいと思っていたかもしれない。

間違いたくない。

失敗したくない。

正しい道を選びたい。

けれど今は、自分で考える時間も必要だと思える。

それも、小さな変化だった。

翌朝、会社へ向かう電車の中で、紡は副業という言葉について考えていた。

副業。

本業の横に置く、もう一つの仕事。

その響きには、少し堅さがある。

紡がしたいのは、ただ収入を増やすことではない。

旅と発信を、自分の生き方へ少しずつ近づけること。

でも、会社の規則の中では、それも副業になる。

言葉が変わると、見え方も変わる。

夢だったものが、申請書の項目になる。

暮らしの湯気が、業務内容として説明を求められる。

そう想像すると、少しおかしかった。

同時に、怖くもあった。

もし申請するときが来たら、何と書けばいいのだろう。

地域文化や食、暮らしに関する文章制作。

写真と文章による発信。

取材記事。

そんな言葉になるのだろうか。

まだ一度も仕事として受けたことがないのに、申請書へ書く未来を想像する。

紡はつり革につかまりながら、少しだけ胸が高鳴った。

怖い。

でも、以前の怖さとは少し違う。

何も見えない怖さではない。

遠くに、小さな形が見え始めた怖さだった。

会社に着くと、真帆がすでに席にいた。

新メンバーの受け入れ初日が近づき、真帆も少し緊張しているようだった。

「おはようございます」

「おはよう。早いね」

「今日、全体図をもう一度見直そうと思って」

真帆の机には、印刷した資料が広がっていた。

赤いペンでいくつか書き込みがある。

紡はその姿を見て、少し嬉しくなった。

自分から動いている。

以前は、紡に確認してから進めることが多かった。

今は、自分で見直し、考え、質問を持ってきている。

「見ていて気になったところ、あとで教えて」

紡が言うと、真帆は頷いた。

「はい。九時半頃でもいいですか?」

「大丈夫」

時間まで、真帆が自分から決めた。

その小さな変化に、紡は気づいた。

人は、急には変わらない。

でも、少しずつ任されることで、自分から動けるようになる。

紡自身も同じだった。

誰かの言葉を受け取りながら。

小さな予約をしながら。

少しずつ、自分から動けるようになった。

九時半、真帆と資料を確認した。

「ここなんですけど」

真帆が画面を指した。

「初日の人には、この説明だけだと、誰に質問すればいいかわからないと思いました」

「確かに」

「なので、問い合わせ先を入れようと思ったんですけど、全部藤沢さんにすると負担になりますよね」

紡は少し驚いた。

真帆が、紡の負担まで考えている。

「そうだね。全部私だと、私がいないときに止まっちゃう」

「内容ごとに分けた方がいいですか?」

「うん。システムのことは担当部署。日々の業務はチームの当番。全体の相談だけ私にしようか」

「わかりました」

二人で問い合わせ先を整理する。

誰か一人に集中させず、流れを分ける。

三島で見た水路のように。

紡は、仕事の中にその考えが少しずつ根づいているのを感じた。

打ち合わせが終わると、真帆が言った。

「藤沢さん、私も質問を受ける側になるんですね」

「そうだね」

「ちょっと不安です」

紡はすぐに「大丈夫」とは言わなかった。

不安を消すより、そのまま受け取った方がいいと思った。

「不安になるよね」

紡は言った。

「でも、全部答えられなくてもいいよ。わからなかったら、確認してから返せばいいから」

真帆は少し考えて、頷いた。

「すぐ答えなくてもいいんですね」

「うん。間違ったことを急いで言うより、確認する方がいい」

その言葉を口にしながら、紡は自分にも同じことを言っている気がした。

働き方も。

副業も。

三十歳までの道も。

今すぐ答えを出さなくていい。

確認しながら進めばいい。

昼休み、美咲と定食屋へ行った。

今日は少し混んでいて、二人は店の奥の小さな席に案内された。

湯気の立つ味噌汁を前に、美咲が言った。

「年表、昨日書いてみた」

紡は箸を止めた。

「本当に?」

「うん。途中で嫌になったけど」

「何を書いたの?」

「三十歳までに、転職するかどうか考える。あと、一人暮らしの貯金。資格の勉強。ちゃんと寝る」

最後の一つに、紡は笑った。

「ちゃんと寝る、まだ続いてるんだ」

「大事だから」

美咲も笑った。

「でも書いてみたら、転職しなきゃって思ってたわけじゃなくて、選べるようになりたいんだってわかった」

紡は胸が温かくなった。

自分が書いた言葉が、美咲の中でも少し形を変えている。

「同じだね」

「うん。紡が言ってたこと、ちょっとわかった」

美咲は味噌汁を一口飲んだ。

「で、次は何するの?」

「次?」

「紡の地図」

紡は少し迷ってから、副業の規則を調べたことを話した。

美咲の表情が少し真剣になる。

「もうそこまで調べたんだ」

「予定に入れてたから」

「行動してるね」

その言葉に、紡は少し照れた。

以前なら、調べただけで行動と言っていいのだろうかと思ったかもしれない。

でも今は、調べることも行動だと思える。

「副業は禁止ではなかった。でも、申請が必要みたい」

「じゃあ、できる可能性はあるんだ」

「うん。でも、まだ依頼があるわけじゃないし、すぐ申請する話ではないと思う」

「そうだね」

「ただ、いつか収入を得るなら、会社に言わなきゃいけないってわかった」

口にすると、また少し怖くなった。

美咲はそれを察したのか、静かに言った。

「でも、わからないままよりいいんじゃない?」

「うん」

「閉じてる扉だと思ってたら、確認すれば開く扉だったってことでしょ」

開く扉。

その言葉に、紡は頷いた。

完全に開いているわけではない。

鍵も、手続きも必要かもしれない。

でも、壁ではなかった。

「怖いけどね」

紡が言うと、美咲は笑った。

「紡は、怖いけどやる人になってきたから大丈夫」

「まだそこまでじゃないよ」

「前よりは確実にそう」

美咲の言葉を、紡は否定しきれなかった。

怖いけれど、調べた。

怖いけれど、ノートに書いた。

怖いけれど、今後必要になる手続きを見た。

確かに、以前なら避けていたかもしれない。

午後、上司から一通のメールが届いた。

来月、社内で行われるキャリア面談の案内だった。

希望者は、自分の今後の働き方や業務上の希望について相談できる。

全員必須ではない。

申し込み期限は来週末。

紡は画面を見つめた。

キャリア面談。

今後の働き方。

その言葉が、今朝まで考えていたことと重なった。

受けるべきだろうか。

すぐに副業の話をするつもりはない。

まだ具体的な依頼も収入もない。

でも、今後の働き方について、会社にどんな選択肢があるのか聞くことはできるかもしれない。

在宅勤務。

時差出勤。

業務の調整。

将来的な働き方。

どこまで相談できるのか。

紡はメールを閉じずに、しばらく考えた。

申し込めば、何かを聞かれる。

今後どうしたいのか。

どんな働き方を望んでいるのか。

その質問に、自分の言葉で答えなければならない。

まだ全部は言えない。

でも、全部言う必要もない。

長く働くために、自分の時間も守りたい。

仕事以外に続けたい活動がある。

そのくらいなら話せるかもしれない。

紡は申し込み画面を開いた。

面談希望日。

相談したい内容。

そこまで入力して、指が止まる。

相談内容の欄は、自由記述だった。

何と書けばいいのだろう。

紡は一度画面を閉じ、青いノートを開いた。

仕事中に旅のノートを開くことに、少しだけためらいはあった。

けれど、個人的な予定を書くためではない。

自分の働き方を考えるためだ。

小さく書く。

「仕事を続けながら、自分の時間も守れる働き方について相談したい」

読み返す。

これなら、今の自分に近い。

会社を辞めたいとは書かない。

副業をしたいとも、まだ書かない。

でも、自分の時間を守りたいことは伝える。

紡は申し込み画面へ戻った。

相談内容の欄に入力する。

「今後の役割を担いながら、長く安定して働くための業務配分や時間の使い方について相談したいです」

少し会社向けの言葉になった。

けれど、嘘ではない。

長く安定して働くために、自分の時間が必要だ。

紡は申し込みボタンを見つめた。

すぐには押せなかった。

面談を受けたところで、何かがすぐ変わるわけではない。

希望が通るとも限らない。

余計なことを言ってしまうかもしれない。

でも、聞かなければわからない。

美咲の言葉が戻る。

閉じてる扉だと思ってたら、確認すれば開く扉だった。

紡は申し込みボタンを押した。

受付が完了しました。

画面に表示された文字を見て、胸が大きく鳴った。

やってしまった、という気持ち。

やっと押した、という気持ち。

その二つが一緒にある。

でも、取り消したいとは思わなかった。

紡はノートに短く書いた。

「キャリア面談を申し込んだ」

それだけ。

でも、確かな行動だった。

退勤後、紡は図書館へ寄った。

借りていた本の返却期限はまだ先だったが、今日は別の本を探したかった。

地域文化の棚ではなく、働き方や文章の仕事についての棚。

フリーランス。

副業。

文章を書く仕事。

取材。

写真。

小さな仕事の始め方。

背表紙を見ていると、胸が少しざわついた。

どの本も、今の自分より先を歩いている人のためのものに見える。

実績。

営業。

見積もり。

契約。

請求書。

確定申告。

知らない言葉が並んでいる。

自分にはまだ早い。

そう思いそうになった。

でも、紡は棚の前から離れなかった。

全部読む必要はない。

まず一冊でいい。

知らない言葉を、一つ知るだけでもいい。

紡は初心者向けの、副業で文章を書く仕事についての本を手に取った。

目次を開く。

文章の実績をまとめる。

得意な分野を見つける。

小さな依頼から始める。

契約内容を確認する。

報酬だけで選ばない。

書く範囲を明確にする。

最後の二つに目が止まった。

報酬だけで選ばない。

書く範囲を明確にする。

今日ノートに書いた約束と、少しつながっている気がした。

紡はその本を借りた。

家に帰り、夕飯を済ませてから、最初の数ページを読んだ。

文章で収入を得ることは、投稿にいいねがつくこととは違う。

依頼主がいる。

目的がある。

期限がある。

修正がある。

自分の好きなことだけを書けるわけではない。

当たり前のことなのに、少し胸が重くなった。

自分は、本当にそれをしたいのだろうか。

旅先の言葉を、自分の好きなように書くのではなく、誰かの目的に合わせて整えること。

それは、会社の資料作りと何が違うのだろう。

紡は本を閉じた。

少し混乱していた。

文章で仕事をすることに憧れていた。

でも、仕事になれば自由ではなくなる。

依頼に応える責任が生まれる。

好きなものが、義務になる可能性もある。

夢へ近づいたはずなのに、急に遠ざかったような気がした。

紡は青いノートを開いた。

「文章でお金をもらうことが、少し怖くなった」

正直に書く。

その下に続ける。

「好きなことが仕事になったら、好きなままでいられるのか」

書いたあと、しばらく動けなかった。

これは、以前から心のどこかにあった不安だった。

旅を仕事にしたい。

でも、旅が仕事になったら、休めなくなるかもしれない。

書くことが仕事になったら、書きたくない日にも書かなければならない。

人の言葉を聞くことが仕事になったら、出会いをいつも記事の材料として見てしまうかもしれない。

それは、紡がしたいことなのだろうか。

答えは出なかった。

けれど、すぐに答えを出さなくてもいいと思った。

確認しながら進めばいい。

真帆に言った言葉が、自分へ戻ってくる。

紡はノートに書いた。

「仕事にするかどうかだけではなく、どこまで仕事にするかを選ぶ」

その一文を書いたとき、少し呼吸が戻った。

全部を仕事にしなくてもいいのかもしれない。

旅の記録の一部は、自分のために書く。

依頼を受ける文章は、別の形で丁寧に書く。

自分の核まで、すべて収入に変えなくてもいい。

母の肉じゃがも、三島の水も、値段のために書いたものではない。

その場所は守っていい。

夢を仕事へつなげることと、夢のすべてを売ることは違う。

紡は新しい見出しを書いた。

「仕事にしないもの」

家族の大切な記憶。

自分だけのために残したい旅。

相手が公開を望まない言葉。

まだ自分の中で形になっていない痛み。

反応を気にせず書きたいもの。

ページを見つめる。

仕事にするものを考える前に、仕事にしないものを決める。

それも必要なのだと思った。

すべてを外へ出さなくていい。

すべてに値段をつけなくていい。

守る場所があるから、外へ出せるものもある。

夜、投稿を書くか迷った。

副業の規則を調べたこと。

キャリア面談を申し込んだこと。

文章を仕事にする怖さ。

どこまで書いていいのだろう。

会社のことは、具体的に書かない方がいい。

規則の内容も、外へ出す必要はない。

でも、夢を仕事に近づけると、別の怖さが出てきたことは書けるかもしれない。

紡は写真を撮らなかった。

今日は文字だけの投稿にした。

「好きなことを仕事にしたいと思っていた。でも、少し近づいて考えてみると、好きなものに期限や目的や値段がつくことが怖くなった。夢を仕事につなげることと、夢のすべてを仕事にすることは違うのかもしれない。仕事にするものだけでなく、仕事にしないものも、自分で選びたい。まだ答えは出ていないけれど、怖さを見なかったことにはしたくない」

読み返す。

少し弱い文章に見える。

もっと前向きに書いた方がいいのだろうか。

夢へ進んでいます。

副業を調べました。

キャリア面談を申し込みました。

そう書けば、行動している人に見える。

けれど、それだけでは今夜の自分ではない。

進んだからこそ、怖くなった。

それも残したい。

紡は投稿ボタンを押した。

しばらくして、コメントが届いた。

『好きなものを全部仕事にしなくてもいい、という言葉に少し安心しました』

『私も趣味を仕事にしたいと思いながら、嫌いになりそうで怖いです』

『進むほど怖くなることもありますよね』

紡は一つずつ読んだ。

自分だけではなかった。

夢へ近づくことは、明るさだけではない。

見えなかった責任や迷いも見える。

でも、それは後退ではないのかもしれない。

より本当に近づいたからこそ、見えたものだ。

母からもメッセージが届いた。

『全部仕事にしなくていいんじゃない。好きでやる分も残したら?』

紡は少し笑った。

母の言葉はいつも現実的で、時々驚くほど核心に近い。

『私もそう思い始めた』

そう返す。

母から、

『仕事は仕事で大変だからね』

と返ってきた。

それだけだった。

でも、その短い一文には、母が長く働いてきた時間が入っている気がした。

仕事は仕事で大変。

好きなことでも、仕事になれば大変。

だからこそ、どこまで差し出すかを自分で選ぶ。

紡はノートの最後に書いた。

「夢を守るために、境界を作る」

その言葉は、少し冷たく見えた。

でも、実際には自分の夢を包む手のように思えた。

会社と発信の境界。

自分と他人の言葉の境界。

仕事にするものと、仕事にしないものの境界。

見せるものと、見せないものの境界。

境界があるから、安心して流れられる。

川にも岸がある。

水は、岸があるから町を満たさず、道に沿って流れていける。

紡は三島の水路を思い出した。

細い流れ。

石の縁。

橋の下。

町の中を、静かに続いていた水。

自由に見えて、形があった。

自分の夢にも、そういう形が必要なのかもしれない。

寝る前、キャリア面談の受付メールをもう一度開いた。

日時は来週の木曜日。

午後四時。

予定表の中に、確かに入っている。

まだ何をどこまで話すかは決まっていない。

でも、申し込んだ。

知らない扉の前まで、自分で歩いた。

開くかどうかは、これから確かめる。

紡はスマートフォンを伏せた。

明日も会社へ行く。

仕事をする。

旅のことも考える。

文章を書く。

怖くなる。

また調べる。

その繰り返しでいい。

一度に答えを出さなくても、流れを止めなければいい。

部屋の灯りを消す前に、紡は青いノートへ最後の一行を書いた。

「値段がついても失いたくないものを、先に知っておく」

書いた文字を見つめる。

その言葉は、これから仕事を考えるとき、きっと何度も戻る場所になる。

紡はノートを閉じた。

図書館から借りた本は、まだ途中までしか読んでいない。

キャリア面談も、まだ先にある。

副業の申請も、実際の依頼も、今はまだない。

それでも、夢は少しずつ現実へ近づいている。

近づくほど、簡単ではなくなる。

でも、簡単ではないことを知っても、紡はノートを引き出しへ戻そうとは思わなかった。

怖さと一緒に、テーブルの上へ置いておきたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。