第15章 かまぼこと、母に渡せなかった言葉
土曜日の午後、紡は紙袋を持って実家へ向かった。
袋の中には、小田原で買ったかまぼこが入っている。
冷蔵庫から出したとき、包装の上に少しだけ冷気が残っていた。白と紅のかまぼこ。きれいに包まれたそれは、紡の部屋の小さな冷蔵庫にあると少しよそよそしく見えたけれど、実家へ向かう電車の中では、不思議と落ち着いて見えた。
母に渡すためのもの。
そう思うと、紙袋の持ち手が少しだけ重く感じられた。
かまぼこそのものの重さではない。
小田原の商店街。
店先に並んでいた白と紅。
市場の朝。
海の風。
紙袋に入った揚げ物。
それから、母にまだ話していないたくさんのこと。
それらを少しだけ一緒に持っているような気がした。
電車の窓の外には、見慣れた街が流れていた。
東京の中心から少し離れるにつれて、建物の高さが変わり、空が少し広くなる。
紡が育った町は、特別な場所ではない。
駅前に小さな商店街があり、少し歩くと住宅街が広がり、昔からあるスーパーと、新しくできたドラッグストアが並んでいる。
子どもの頃は、そこが世界のほとんどだった。
自転車で通った道。
学校帰りに友人と寄ったコンビニ。
母と一緒に買い物をしたスーパー。
父が休日に車で連れて行ってくれたファミリーレストラン。
それらは、紡の中で遠くなったようで、まだ近い。
小田原の町を歩いたとき、紡は「知らない町」に耳を澄ませていた。
でも今日は、知っているはずの町へ戻っている。
知っている場所ほど、何も見なくなる。
そう思った。
実家の最寄り駅に着くと、紡は改札を出て、少しだけ立ち止まった。
駅前の風景は、昔と大きく変わってはいない。
けれど、細かいところは少しずつ違っていた。
以前あったパン屋が、別のカフェになっている。
古い本屋のシャッターが下りたままになっている。
駅前の花壇には、誰かが手入れしたらしい小さな花が咲いている。
バス停のベンチには、買い物袋を足元に置いた年配の女性が座っている。
何度も見たはずの景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。
小田原へ行く前なら、きっと気づかなかった。
紡はゆっくり歩き出した。
実家までは、駅から十五分ほどだった。
昔は長い道だと思っていた。
学校から帰るとき、ランドセルが重くて、途中の電柱までを目印にして歩いた。
今歩くと、意外なほど短い。
けれど、その道のあちこちに、自分の時間が残っている。
角の小さな公園。
小学生の頃、友人たちとブランコに乗った場所。
今は遊具が新しくなっていて、昔の面影は少し薄い。
古い八百屋。
母と一緒に夕飯の材料を買った場所。
今も店先に野菜が並んでいて、手書きの値札が揺れている。
その値札を見て、小田原の商店街を思い出した。
小田原産みかん。
太いペンで書かれた、少し滲んだ文字。
今朝入ったやつ。
そう言った女性の声。
紡は足を止め、実家近くの八百屋の値札を見つめた。
「新玉ねぎ」
手書きの文字。
少し丸みがある。
ここにも、誰かが朝に書いた文字がある。
ここにも、暮らしの手がある。
実家の近くに、こんなふうに見られるものがあったのだと思うと、少し不思議だった。
旅は遠くへ行くことだけではない。
何度も心の中で繰り返してきた言葉が、今度は自分の育った町の中で静かに響いた。
実家の玄関の前に立つと、紡は少し緊張した。
鍵は持っている。
けれど、チャイムを鳴らした。
すぐに中から足音がして、母がドアを開けた。
「おかえり」
その言葉に、紡の胸が少しだけ緩んだ。
「ただいま」
そう返す。
一人暮らしの部屋では、誰にも言わない言葉。
実家の玄関でだけ、自然に出てくる言葉。
母は紡の持っている紙袋に目を向けた。
「それ、かまぼこ?」
「うん。小田原で買ってきた」
「わざわざありがとう。重かったでしょう」
「そんなに重くないよ」
母は紙袋を受け取り、嬉しそうに台所へ向かった。
「お茶淹れるね」
「うん」
紡は靴を脱いで、家に上がった。
実家の匂いがした。
洗剤の匂い。
煮物の匂い。
木の家具の匂い。
どれも懐かしい。
けれど、少しだけ自分の部屋とは違う距離を感じる。
もうここは、自分が毎日暮らす場所ではない。
でも、完全に他人の家でもない。
その曖昧さが、いつも少しだけ胸をくすぐる。
リビングに入ると、テーブルの上には母が用意した湯呑みと、小さな皿が並んでいた。
「切ってみる?」
母がかまぼこを手にして言った。
「うん。食べよう」
母は包みを開け、包丁でかまぼこを薄く切った。
その手つきは慣れていた。
子どもの頃、正月になると、母は同じようにかまぼこを切っていた。
白と紅を交互に並べ、皿にのせる。
その景色を見ながら、紡はふと思った。
かまぼこは、小田原の食べものでもあるけれど、自分の家の記憶にも繋がっている。
食べものは、場所を持ち帰るだけではなく、場所と場所を繋ぐのかもしれない。
小田原の商店街と、実家の台所。
旅先の味と、母の手。
その二つが、今、同じ皿の上に並んでいる。
母が皿をテーブルに置いた。
「いただこうか」
「うん」
紡は一切れを口に運んだ。
朝、自分の部屋で食べたときと同じ味のはずなのに、実家で食べると少し違う気がした。
母も一切れ食べて、頷いた。
「おいしいね。やっぱりしっかりしてる」
「うん」
「小田原って、かまぼこ有名だものね」
「駅前にもたくさんお店があったよ」
母はお茶を飲みながら、紡を見た。
「急に行ったの?」
その質問は、やわらかかった。
責めるような口調ではない。
でも紡の胸は少しだけ固くなった。
「うん。前から少し気になってて。近いし、一泊で行ってみようかなって」
「ひとりで?」
「うん」
「寂しくなかった?」
紡は少し考えた。
「少しだけ。でも、ひとりだから見えたものもあった気がする」
母は不思議そうな顔をした。
「見えたもの?」
「うん」
紡は湯呑みを両手で包んだ。
温かさが手のひらに広がる。
何から話せばいいのかわからなかった。
小田原城のこと。
海のこと。
みかんのこと。
干物定食のこと。
市場で会った女性のこと。
話したいことはたくさんある。
けれど、どこまで話せば、母に伝わるのだろう。
紡はまず、いちばん話したいことを選んだ。
「朝、市場に行ったの」
「市場?」
「うん。魚がたくさん並んでて、働いてる人たちの声がすごくて。観光地っていうより、町の朝がそのまま動いてる感じだった」
母は少し驚いたように聞いていた。
「そんな早く起きたの?」
「うん。せっかくだから」
「紡、昔から朝弱かったのに」
母は笑った。
紡も少し笑った。
「そうだね。でも起きられた」
そう言ってから、紡は続けた。
「そこでね、魚のすり身を丸めて揚げたものを売ってる人がいて」
「さつま揚げみたいな?」
「うん、そんな感じ。でも生姜が少し入ってて、すごくおいしかった」
「へえ」
「その人がね、昔は余った魚を残さず食べるために作ってたんだと思うって話してくれて。味って、残そうと思って残るものじゃなくて、誰かがおいしいって言って、また食べたいって思って、それで続いていくんだと思うって」
話しながら、紡の声が少しゆっくりになった。
あの市場の朝が、少しずつリビングに戻ってくるようだった。
母は、黙って聞いていた。
テレビもついていない。
外からは、近所の子どもの声が少し聞こえている。
その中で、紡の話だけが静かに続いた。
「なんか、その言葉がすごく残って」
紡は言った。
「料理って、ただおいしいだけじゃなくて、誰かの暮らしとか、工夫とか、時間が入ってるんだなって思った」
母は湯呑みを置いた。
「いい話ね」
その一言に、紡の胸が少し温かくなった。
母は興味を持ってくれた。
少なくとも、笑わなかった。
「そういう話を聞けるのは、ひとり旅だからかもしれないね」
母が言った。
紡は少し驚いた。
「そう思う?」
「誰かと一緒だと、どうしてもその人と話すでしょう。ひとりだと、周りの声が聞こえるのかもしれない」
紡はその言葉を、静かに受け取った。
周りの声が聞こえる。
母は何気なく言ったのだろう。
でもそれは、紡が今いちばん大切にしたいと思っていることに近かった。
耳を澄ませること。
人の言葉を持ち帰ること。
「うん。そうかもしれない」
紡は頷いた。
母は、かまぼこをもう一切れ食べた。
「紡、そういうの好きだったものね」
「そういうの?」
「人の話を聞くの。小さい頃から、近所のおばあちゃんとか、店の人とか、よく話しかけられてたじゃない」
紡は少し笑った。
「そうだった?」
「そうよ。スーパーで並んでると、知らない人に話しかけられて、そのまま聞いてたじゃない。お母さんが早く帰りたいのに、紡はずっと頷いてて」
母が懐かしそうに言った。
紡は、その記憶をぼんやりと思い出した。
夕方のスーパー。
買い物かご。
見知らぬ年配の女性。
「今日は大根が安いわね」と話しかけられ、子どもの紡はよくわからないまま頷いていた。
母はそれを少し困ったように、でも笑いながら待っていた。
「人の話を聞くの、昔から嫌いじゃなかったのかも」
紡が言うと、母は頷いた。
「嫌いじゃないどころか、聞きすぎるくらいだったわよ」
その言葉に、紡は胸の奥がくすぐられるような気持ちになった。
自分の芯だと思い始めたものが、急に昔の自分へ繋がった。
旅先で人の言葉を持ち帰りたいと思ったこと。
それは、まったく新しく生まれたものではなく、ずっと自分の中にあったものなのかもしれない。
ただ、大人になるにつれて忘れていただけで。
仕事や生活や、ちゃんとして見えることに追われて、見えなくなっていただけで。
紡は湯呑みの中のお茶を見つめた。
「お母さんはさ」
声に出してから、少し迷った。
でも、続けた。
「若い頃、やりたかったこととかあった?」
母は少し驚いた顔をした。
「急にどうしたの」
「なんとなく」
紡はそう言った。
本当は、なんとなくではない。
自分の夢を話す前に、母にも夢があったのか知りたかった。
母はしばらく考えた。
「やりたかったことねえ」
湯呑みを両手で包みながら、少し遠くを見る。
「旅行は好きだったわね」
「旅行?」
「うん。若い頃、友達と京都とか金沢とか行ったことがあって。楽しかった。もっといろいろ行きたいなと思ってたけど、結婚して、あなたが生まれて、仕事も家のこともあって、だんだん行かなくなった」
紡は母の横顔を見た。
母にも、行きたい場所があった。
それは当たり前のことなのに、紡はあまり考えたことがなかった。
母はずっと母だった。
ごはんを作り、洗濯をし、心配し、時々うるさいことを言う人。
その母にも、友人と旅行をして、もっといろいろ行きたいと思っていた頃がある。
紡はそのことに、静かに胸を打たれた。
「後悔してる?」
そう聞いてしまってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
でも母は怒らなかった。
少しだけ笑って、首を振った。
「後悔とは違うかな。選んできたことも大事だったし。ただ、たまに思うわよ。あのときもっと行っておけばよかったなって」
紡は何も言えなかった。
あのときもっと行っておけばよかった。
その言葉が、胸に刺さった。
母の声は穏やかだった。
でも、その穏やかさの奥に、少しだけ取り戻せない時間の匂いがした。
「だから、紡が小田原に行ったって聞いて、いいなと思ったのよ」
母は言った。
「え?」
「ひとりで一泊なんて、心配は心配だけどね。でも、行きたいと思ったときに行けるなら、行った方がいいと思う」
紡は、母の顔を見つめた。
心配は心配だけど。
その言葉が、母らしかった。
でも、そのあとに続いた言葉は、紡が思っていたよりずっとやわらかかった。
行きたいと思ったときに行けるなら、行った方がいい。
母は、そんなふうに思ってくれるのだろうか。
紡の胸の奥で、言葉が揺れた。
今なら、少し言えるかもしれない。
小田原だけではなく、これからも旅をしたいこと。
土地の歴史や文化や食を、発信したいこと。
三十歳までに、今の働き方を変えたいと思っていること。
そこまで言葉が浮かんだ。
けれど、喉の手前で止まった。
まだ怖い。
母の顔が曇るのを見るのが怖い。
心配されるのが怖い。
反対されるのが怖い。
そして何より、母の「行った方がいい」というやさしい言葉に、自分がもっと大きなものを乗せてしまうのが怖かった。
紡は湯呑みを握り直した。
「また、行きたいと思ってる」
それだけ言った。
母は頷いた。
「いいんじゃない」
「一泊くらいで、いろんな町を少しずつ」
「うん。気をつけて行くなら」
気をつけて行くなら。
母の条件は、やはり母らしい。
でも、その言葉の中には、完全な拒絶はなかった。
紡は少しだけ呼吸が楽になった。
「写真、見る?」
紡が聞くと、母は嬉しそうに頷いた。
「見る見る」
紡はスマートフォンを取り出した。
まず、みかんの写真を見せた。
「これ、商店街で買ったみかん。お店の人が、今朝入ったやつって言ってくれて」
「おいしそうね」
「まだ少し残ってるから、持ってくればよかった」
「今度でいいわよ」
次に、干物定食。
「これ、食堂で食べた。お店の人が、今日はいい干物だったからって」
母は画面を覗き込んだ。
「こういう定食、いいわねえ。ちゃんとしてる」
「すごくおいしかった」
そして、市場で買った揚げ物と海の写真。
母は少し長く見ていた。
「これが、そのすり身の?」
「うん。名前、聞きそびれたんだけど」
「聞きそびれたのも、旅っぽいわね」
母がそう言って笑った。
紡も笑った。
本当に、そうかもしれない。
完璧に調べて、名前も由来も全部押さえることだけが旅ではない。
聞きそびれたまま残る味もある。
いつかまた行って、今度は名前を聞けばいい。
続きがあると思えば、その不完全さも悪くなかった。
最後に、波の光の写真を見せた。
曇った空の下、波の先だけが白く光っている一枚。
母は黙ってそれを見た。
「きれいね」
「うん」
「派手じゃないけど、いい写真」
その言葉に、紡の胸が温かくなった。
派手じゃないけど。
美咲も、似たようなことを言ってくれた。
紡が見つけたかったものは、きっとそういう光なのだ。
大きく目立つものではなく、誰かが見過ごしてしまうかもしれない小さな光。
それを、ちゃんと見つけたい。
「この写真、好き」
母が言った。
紡は、少し驚いた。
「本当?」
「うん。紡が何か見つけた感じがする」
その言葉に、紡は胸の奥をそっと押されたような気がした。
母には、夢の全体はまだ話していない。
でも、この写真を見て、母は「何か見つけた感じ」と言った。
もしかしたら、全部を言葉にしなくても、少しは伝わるものがあるのかもしれない。
夕飯の支度を手伝うことになった。
母は台所に立ち、紡は野菜を切った。
メニューは、肉じゃがと焼き魚、味噌汁。
特別な料理ではない。
けれど、実家の台所で母と並んで料理をするのは、久しぶりだった。
じゃがいもの皮をむきながら、紡は母の手を見た。
少し皺が増えた手。
包丁を持つ動きは慣れていて、無駄がない。
市場の女性の手を思い出した。
魚を扱う手。
揚げ物を紙にのせてくれた手。
その手と、母の手が、紡の中で静かにつながった。
味は、誰かの手で続いていく。
市場で聞いた言葉が、実家の台所でまた別の意味を持つ。
「お母さんの肉じゃがって、いつから作ってるの?」
紡が尋ねると、母は少し笑った。
「急にどうしたの」
「なんとなく。昔から食べてたなと思って」
「おばあちゃんがよく作ってたからね。ちゃんと教わったわけじゃないけど、見てるうちに覚えたのかな」
「味、変わってない気がする」
「そう?適当よ」
母はそう言った。
でも、その「適当」の中に、長い時間があることを紡は知ったばかりだった。
毎日の料理は、レシピとして残されるより先に、手の感覚で続いていく。
しょうゆの量。
煮る時間。
じゃがいもの大きさ。
火を止めるタイミング。
母はそれを特別なこととは思っていない。
でも、紡にはそれが急に大切なものに見えた。
「今度、作り方教えて」
紡が言うと、母は驚いたように振り返った。
「肉じゃが?」
「うん」
「そんなの、いつでも教えるわよ」
母は少し嬉しそうだった。
紡は、その表情を見て胸が温かくなった。
自分は、遠くの土地の味ばかり見ようとしていたのかもしれない。
でも、いちばん近くにも、受け取りきれていない味がある。
母の肉じゃが。
祖母から直接教わったわけではなく、見ているうちに覚えた味。
それも、誰かが「おいしい」と言って続いてきた味なのだ。
夕飯を食べながら、母は小田原の話を何度も聞きたがった。
市場は何時に行ったのか。
宿はどうだったのか。
ひとりで食堂に入るのは緊張しなかったのか。
海は寒くなかったのか。
紡は一つずつ答えた。
全部を話す必要はなかった。
でも、小田原で見たものを話していると、母との間にいつもよりやわらかい時間が流れている気がした。
仕事の話でも、結婚の話でもない。
誰かと比べる話でも、将来を急かす話でもない。
旅先で食べたもの。
出会った人の言葉。
見た空。
それらは、母と紡の間に、少しだけ新しい会話を作ってくれた。
食後、紡は台所で洗い物を手伝った。
母は食器を拭きながら言った。
「紡、最近少し変わった?」
また、その言葉。
美咲にも言われた。
上司にも、少し違う形で言われた。
紡は皿を洗う手を止めずに聞いた。
「そう見える?」
「うん。何か、前より自分のことを話すようになった気がする」
母の声は穏やかだった。
「前は、仕事はどうって聞いても、普通って言うだけだったし。何かあったのって聞いても、別にって」
紡は少し苦笑した。
「そうだったかも」
「今も全部話してるわけじゃないんでしょうけど」
その言葉に、紡は手を止めた。
母は食器を拭きながら、こちらを見ていなかった。
でも、気づいている。
全部ではないことに。
紡の中に、まだ渡していない言葉があることに。
「うん」
紡は小さく答えた。
「全部は、まだ話せてない」
母は頷いた。
責めるでもなく、悲しむでもなく。
「話せるときでいいわよ」
その一言で、紡の胸がぎゅっとなった。
母は続けた。
「お母さんは心配性だから、聞いたらいろいろ言っちゃうかもしれないけど」
紡は思わず笑った。
「それは知ってる」
「でも、何も聞かないまま、紡が一人で抱えてるのも嫌なのよ」
母は拭いた皿を棚に戻した。
「だから、話せるところからでいいから。小田原の話みたいに」
紡は、洗い終えた皿を水切りかごに置いた。
胸の奥に、いくつもの言葉が浮かぶ。
本当は、日本中を旅したい。
その土地の歴史や文化や食を、自分の言葉で発信したい。
三十歳までに、今の働き方を変えたいと思っている。
でも、まだ怖い。
お母さんに心配されるのも怖い。
反対されるのも怖い。
それらの言葉は、今も喉の奥にある。
でも今日は、まだ全部を出さなくていいと思えた。
母が「話せるところからでいい」と言ってくれたから。
「ありがとう」
紡は言った。
母は少しだけ笑った。
「何よ、急に」
「ううん。なんとなく」
なんとなくではなかった。
でも、今はそれでよかった。
帰る時間になり、母は玄関まで見送ってくれた。
「かまぼこ、ありがとうね」
「うん」
「小田原の話、面白かった。またどこか行ったら聞かせて」
紡は靴を履きながら、顔を上げた。
「うん。また話す」
その言葉は、以前の「また」と少し違っていた。
社交辞令ではない。
自分の中に、次に話したいものがきっと生まれるという予感があった。
母はドアのところで言った。
「気をつけて帰りなさい」
「うん」
「あと、ひとりで行くときは、ちゃんと泊まる場所とか教えてね」
「わかった」
やっぱり心配はする。
でも、それが母なのだ。
紡は玄関を出た。
外は少し冷えていた。
夜の住宅街は静かで、ところどころの家の窓に明かりが灯っている。
駅へ向かう道を歩きながら、紡は胸の奥がいつもより少し軽いことに気づいた。
日本中を旅したいことも、いつか働き方を変えたいことも、まだ言えなかった。
けれど、小田原で聞いた言葉だけは、母に渡すことができた。
会社を辞めたいと言ったわけでもない。
人生の大きな決断を告げたわけでもない。
でも、母に小田原の話をした。
市場の女性の言葉を渡した。
写真を見せた。
母の若い頃の旅行の話を聞いた。
肉じゃがの作り方を今度教えてほしいと言えた。
それだけで、何かが少し動いた気がした。
駅へ着く前に、紡は足を止めた。
実家近くの八百屋は、もうシャッターが下りていた。
昼間見た「新玉ねぎ」の手書きの値札は、店の奥へ片付けられている。
でも、その文字は紡の中に残っていた。
近くの町にも、まだ見ていないものがある。
近くの人にも、まだ聞いていない言葉がある。
母にも。
自分にも。
紡はバッグからスマートフォンを取り出した。
「足音を聴く」の投稿画面を開く。
写真は撮っていなかった。
でも、言葉だけ残したかった。
入力欄に、ゆっくり打つ。
「小田原で買ったかまぼこを、母と食べた。旅先の味を持ち帰ったつもりだったけれど、それは実家の台所や、母の手や、昔から食べてきた味ともつながっていた。遠くの町で受け取った言葉が、いちばん近くにいる人との会話を少しだけ変えてくれることがある。旅は、帰ってからも続いているのだと思った」
読み返す。
少し迷った。
母のことを書くのは、少しだけ照れくさい。
でも、これは今日の自分の大切な気づきだった。
紡は投稿した。
駅のホームで電車を待ちながら、画面を閉じる。
すぐに反応を見る気にはならなかった。
今夜は、母の言葉を少しだけ自分の中で温めておきたかった。
電車に乗り、窓の外を見る。
夜の街の明かりが流れていく。
紡は青いノートを開きたいと思ったが、車内は少し混んでいた。
代わりに、心の中で今日の言葉を繰り返した。
話せるところからでいい。
小田原の話みたいに。
母の声。
その声は、紡が想像していたよりもずっとやわらかかった。
もちろん、これから先もずっとそうとは限らない。
会社を辞めたいと話せば、母はきっと心配する。
旅をしながら発信して生きていきたいと言えば、現実的なことをたくさん聞かれるだろう。
お金はどうするの。
住む場所は。
体調は。
将来は。
結婚は。
そういう問いは、きっと避けられない。
でも、今日の母は、話せるところからでいいと言った。
それは紡にとって、小さな入口のようだった。
一気に扉を開けなくてもいい。
細く開いた隙間から、少しずつ風を通せばいい。
部屋に帰ると、いつもの静けさがあった。
実家の匂いとは違う、自分の部屋の匂い。
テーブルの上には、深い青色のノートが置いてある。
紡はバッグを置き、コートを脱ぐ前にノートを開いた。
今日の日付を書く。
そして、最初にこう書いた。
「母に、小田原の話をした」
それだけで、胸がいっぱいになった。
続ける。
「夢の全部は話せなかった。でも、市場の女性の言葉を話した。かまぼこを一緒に食べた。母の若い頃の旅行の話を聞いた。母にも、もっと行きたかった場所があった」
ペンが止まる。
母にも、もっと行きたかった場所があった。
その一文を見て、紡の胸が少し痛んだ。
母は後悔とは違うと言った。
でも、あのときもっと行っておけばよかったな、とも言った。
その言葉は、紡の中に残り続ける気がした。
自分もいつか、同じように言うのだろうか。
あのとき、もっと行っておけばよかった。
あのとき、もっと書いておけばよかった。
あのとき、もっと自分の気持ちに正直になっておけばよかった。
そう思う未来は、やはり怖かった。
紡はノートに続けた。
「お母さんに心配をかけたくない。でも、いつか私が自分の人生を選ばなかったことを、母の優しさのせいにしてしまうのはもっと嫌だ」
書いたあと、胸が痛んだ。
正直な言葉は、ときどき優しくない。
誰かを責めたいわけではないのに、自分の本音を見つめると、誰かの優しさとぶつかる場所が見えてしまう。
でも、見ないふりをするよりはいい。
紡はさらに書いた。
「全部はまだ話せない。でも、話せるところからでいいと言ってくれた。だから、少しずつ話したい。小田原の話から。かまぼこの話から。母の肉じゃがの話から」
母の肉じゃが。
その言葉を書いたとき、台所で見た母の手を思い出した。
祖母からちゃんと教わったわけではなく、見ているうちに覚えた味。
それも、紡が持ち帰りたい人の言葉と同じ場所にある。
遠くの土地だけではない。
いちばん近い家の中にも、まだ聞いていない物語がある。
紡はノートの最後に書いた。
「次は、母の肉じゃがの作り方を聞く」
書いた瞬間、少し笑った。
日本中を旅したいと思っていた自分が、次に聞きたいこととして母の肉じゃがを書いている。
それは小さくて、生活に近くて、でもとても大切なことに思えた。
旅は、遠くへ向かうだけではない。
自分の足元をもう一度見つめることでもある。
そのことを、今日、母との食卓で少しだけ知った。
寝る前、紡は「足音を聴く」の投稿を確認した。
いくつかのいいねがついていた。
コメントも一つ届いている。
『旅先のお土産を家族と食べる時間、すごくわかります。味が思い出を連れて帰ってくる感じがします』
紡はそのコメントを読んで、静かに頷いた。
味が思い出を連れて帰ってくる。
本当にそうだと思った。
小田原のかまぼこは、母との会話を連れてきた。
母の若い頃の旅行の話を連れてきた。
自分がまだ渡せていない言葉の輪郭を、少しだけ照らしてくれた。
紡は返信した。
『読んでくださってありがとうございます。持ち帰った味が、思っていた以上に会話を連れてきてくれました』
送信する。
その言葉が、今夜の自分にいちばん近かった。
灯りを消す前に、紡は母からもらった小さな保存容器を冷蔵庫に入れた。
中には、夕飯の残りの肉じゃがが入っている。
「明日食べなさい」と渡されたものだった。
小田原のかまぼこを持って行き、母の肉じゃがを持って帰ってきた。
それが少しおかしかった。
旅先の味を渡し、実家の味を持ち帰る。
味は、行ったり来たりする。
人の言葉も、きっとそうなのだろう。
紡は冷蔵庫を閉め、部屋の明かりを消した。
ベッドに入る。
目を閉じると、今日の母の声が浮かんだ。
話せるところからでいいわよ。
小田原の話みたいに。
その声は、紡の胸の奥で静かに残っていた。
まだ全部は言えない。
でも、全部言えないから何も言わない、という場所からは少し離れた。
かまぼこ一つ。
写真一枚。
市場の言葉一つ。
母の肉じゃが一皿。
それらを通して、少しずつ本音に近づいていけるのかもしれない。
胸の奥で、足音がする。
今夜の足音は、実家へ向かう道の音だった。
昔から知っている道を、少し違う自分として歩いた音。
遠くの町から持ち帰ったものを、近くの人へ渡しに行った音。
そして、まだ渡せなかった言葉を、いつか渡すために胸の奥で温め直す音。
紡はその音を聞きながら、静かに眠りに落ちていった。




