第14章 言えなかった本音の輪郭
金曜日は、朝から雨だった。
窓の外では、細い雨がビルの壁を静かに濡らしていた。
空は白く曇り、街全体が薄い膜をかけられたように見える。傘を差した人たちが、駅へ向かって少し早足で歩いている。
紡はカーテンの隙間からその景色を見ながら、しばらく動けずにいた。
今日は、上司との面談がある。
十五時。
来期の役割について話す時間。
カレンダーに入ったその予定は、この数日ずっと紡の胸の奥にあった。
大きな予定ではない。
会社の中では、よくある面談のひとつだ。
来期の役割。
後輩育成。
チーム内での立ち位置。
評価。
今後のキャリア。
それだけの話。
けれど紡にとっては、ただの業務上の相談では済まなかった。
その席で何を言うかによって、自分のこれからの時間の使い方が少し変わる気がしていた。
引き受けます。
そう言えば、きっと話は早い。
上司は安心するだろう。
評価にもつながるかもしれない。
真帆のフォローも、今まで以上に任される。
会社の中での自分の居場所は、もう少し強くなる。
それは、悪い未来ではない。
むしろ、ちゃんとした未来だ。
でも、その未来を想像すると、胸の奥が少し詰まった。
今よりも、会社の時間が増える。
会社の中で求められる自分が大きくなる。
仕事を中心にした毎日が、さらに自然になっていく。
そして、その自然さに紛れて、旅の方へ向かう足音が小さくなってしまうのではないか。
それが怖かった。
紡は洗面所へ向かい、顔を洗った。
冷たい水が頬に触れる。
鏡の中の自分は、いつも通りの会社員の顔をしていた。
少し疲れていて、少し緊張していて、それでも表面は整っている。
この顔で、今日も会社へ行く。
この顔で、会議に出る。
この顔で、上司の前に座る。
その奥に、小田原の海も、市場の声も、青いノートも隠して。
けれど、完全には隠したくなかった。
紡はそう思った。
すべてを話す勇気は、まだない。
三十歳までに会社を辞めたいこと。
日本中を旅しながら、土地の歴史や文化や食を発信したいこと。
小田原で、人の言葉を持ち帰りたいと気づいたこと。
セリという旅人に出会い、その言葉に救われたこと。
そんなことを、今日の面談でいきなり話せるとは思えない。
でも、何も言わずに頷くことも、もうできない。
紡はクローゼットから服を選んだ。
いつもの白いブラウスではなく、少し柔らかい生成りのブラウスにした。ジャケットは濃いグレー。足元は雨に濡れてもいい黒い靴。
見た目には、普段とほとんど変わらない。
けれど、自分だけが少し違いを知っている。
バッグには、深い青色のノートを入れた。
面談で使うわけではない。
上司に見せるつもりもない。
それでも、持っていきたかった。
雨の駅は、人で混み合っていた。
傘を閉じる人。
濡れた髪を手で払う人。
滑らないように足元を気にする人。
改札前で立ち止まる人。
紡は人の流れに押されるようにしてホームへ向かった。
電車の中は、いつもより湿った空気がこもっている。
窓ガラスには水滴がつき、外の景色が少し滲んで見えた。
紡は吊り革につかまりながら、バッグの中の青いノートを意識した。
そこには、昨日の夜に書いた言葉がある。
安定は、私を守ってくれた。
でも、守られている場所から一歩も出ない理由にしてしまったら、いつかその優しさを恨んでしまうかもしれない。
その一文を書いたとき、胸が痛んだ。
会社を恨みたいわけではない。
母を恨みたいわけでもない。
今の暮らしを否定したいわけでもない。
むしろ、守ってもらっている。
安定した給料。
社会保険。
毎月の家賃を払える安心。
母を大きく心配させずに済む暮らし。
人に説明しやすい肩書き。
それらは紡を支えてきた。
だからこそ、簡単には手放せない。
でも、支えられていることと、そこに縛られ続けることは違う。
その違いを、どう言葉にすればいいのだろう。
電車が大きく揺れた。
紡は足元に力を入れた。
車内アナウンスが流れ、次の駅名が告げられる。
毎日通っている道。
けれど今日は、どこか知らない場所へ向かっているような気がした。
会社に着くと、雨のせいかオフィスの空気は少し重かった。
濡れた傘を傘立てに置き、社員証をかざし、エレベーターに乗る。
フロアに入ると、すでに何人かが席についていた。
パソコンの起動音。
キーボードの音。
誰かがコーヒーを淹れる匂い。
低い声の挨拶。
いつもの朝。
紡は席に着き、パソコンを立ち上げた。
美咲が隣から声をかけてきた。
「おはよう。雨、すごいね」
「おはよう。靴、ちょっと濡れた」
「わかる。今日、外出なくていい日でよかった」
美咲はそう言ってから、ふと紡の顔を見た。
「今日、面談だっけ?」
紡は少し驚いた。
「覚えてたの?」
「うん。来期の役割の話って言ってたじゃん」
「うん。十五時」
美咲は小さく頷いた。
「緊張してる?」
「少し」
本当は、少しではなかった。
でも、そのくらいの言葉しか出てこなかった。
美咲は画面を見ながら、軽い声で言った。
「紡はさ、何でもちゃんと考えてから答えたい人だから、緊張するんだろうね」
紡は手を止めた。
「そうかな」
「うん。私はけっこう流されて返事しちゃうタイプだから、あとで後悔することあるけど」
美咲は苦笑した。
「紡は逆に、ちゃんと考えすぎて疲れるタイプ」
紡は少し笑った。
「当たってる」
「でも、考えたいなら考えたいって言えばいいんじゃない?すぐ決めなくても」
その言葉は、とても普通に差し出された。
けれど紡には、少し大きく聞こえた。
すぐ決めなくてもいい。
この数日、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
けれど誰かに言われると、少しだけ心が楽になる。
「ありがとう」
紡がそう言うと、美咲は肩をすくめた。
「別に。お昼、時間合ったら行こ」
「うん」
午前中は、いつも以上に仕事へ集中しようとした。
メールを返す。
資料を確認する。
真帆の質問に答える。
打ち合わせの議事録をまとめる。
ひとつずつ目の前の作業を片付けていく。
けれど、時計を見るたびに胸が少しだけ固くなった。
十時。
十一時。
十一時四十五分。
十五時まで、少しずつ時間が近づいている。
昼休み、美咲と一緒に会社近くのカフェへ行った。
雨の日のカフェは混んでいた。
窓際の席には座れず、奥の小さなテーブルに向かい合って座る。
紡はスープセットを頼んだ。
温かいものが欲しかった。
白いカップから、湯気が立つ。
その湯気を見た瞬間、小田原の市場で買った揚げ物と海を思い出した。
湯気。
匂い。
人の声。
場所が違っても、温かいものは心を少しほどいてくれる。
美咲がサンドイッチを食べながら言った。
「面談、嫌なの?」
紡はスプーンを持ったまま、少し考えた。
「嫌、ではないと思う」
「うん」
「評価してもらえるのは嬉しいし、仕事も嫌いじゃない。真帆のフォローも、できることならちゃんとしたい」
「紡、面倒見いいもんね」
「でも、役割が増えると、会社の中での自分がもっと大きくなる気がして」
そこまで言って、紡は言葉を止めた。
会社の中での自分が大きくなる。
自分で口にして、少し驚いた。
美咲は急かさずに待ってくれた。
紡はスープの表面を見つめながら続けた。
「それが嫌っていうより、他の自分が小さくなりそうで怖いのかもしれない」
「他の自分?」
紡は小さく頷いた。
「旅に行きたい自分とか、文章を書きたい自分とか」
言った。
美咲の前で、初めて少しだけはっきり言った。
旅に行きたい。
文章を書きたい。
胸の奥が熱くなる。
美咲は、驚いた顔をしなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、静かに言った。
「いいじゃん」
紡は顔を上げた。
「いいのかな」
「いいでしょ。会社の仕事ができることと、それ以外にやりたいことがあることって、別に矛盾しないと思うけど」
その言葉に、紡は少し泣きそうになった。
矛盾しない。
ずっと、矛盾している気がしていた。
会社で期待されるほど、旅をしたい自分が不誠実に思える。
仕事をきちんとするほど、いつか辞めたいと思う気持ちが後ろめたくなる。
でも、美咲はあっさりと言った。
矛盾しない。
「でも、会社の役割が増えたら、時間も気持ちも取られるよね」
紡が言うと、美咲は頷いた。
「それはあると思う。だからこそ、ちゃんと考えたいんじゃない?」
「うん」
「それを上司に言ってもいいんじゃない?今すぐ全部は決められないけど、今後の働き方を考えたいです、みたいな」
紡はスプーンを握り直した。
今後の働き方。
それなら言えるかもしれない。
旅の夢を全部話さなくてもいい。
会社を辞めたいといきなり言わなくてもいい。
でも、今まで通りに何でも引き受けるだけではなく、自分の時間や今後のことを考えたいとは言える。
「美咲、すごいね」
紡が言うと、美咲は笑った。
「何が?」
「言葉にするのが上手い」
「それ、紡に言われると変な感じ」
「そう?」
「紡の方がずっと上手いよ。小田原の話、ちゃんと見えたもん」
また、小田原。
その言葉が、紡の中に静かに戻ってくる。
市場の女性の声。
探してるうちは、いろいろ見えるよ。
今の自分も、きっと探している途中なのだ。
会社での働き方。
旅への向かい方。
本音の伝え方。
その途中にいるから、こんなにいろいろなものが見えている。
昼休みが終わり、オフィスへ戻った。
十五時まで、あと二時間。
紡は午後の作業をしながら、頭の中で何度も言葉を組み立てた。
期待していただけるのは嬉しいです。
ただ、今後の働き方について、自分の中で考えたいことがあります。
役割を増やすことに前向きな部分もありますが、どのくらいの負荷になるのか、どんな関わり方になるのかを確認したいです。
今すぐ何でも引き受けるのではなく、自分の時間の使い方も含めて考えたいです。
それくらいなら言える。
けれど、その先にある本音はまだ言えない。
いつか旅をしながら発信したい。
三十歳までに、今の働き方を変えたい。
会社以外の場所にも、自分の時間を使いたい。
そこまで言う勇気は、まだない。
十四時五十分。
上司からチャットが届いた。
『少し早いですが、会議室空いたので入れますか?』
紡の心臓が、どくんと鳴った。
早まった。
たった十分。
それだけなのに、心の準備が崩れた気がした。
紡は深く息を吸い、返信した。
『はい。向かいます』
パソコンをロックし、ノートとペンを持って立ち上がる。
青いノートは、バッグの中に入れたままにした。
仕事用のノートだけを手に持つ。
会議室へ向かう廊下が、いつもより少し長く感じた。
ガラス張りの会議室の中で、上司がパソコンを開いて待っていた。
「ごめんね、少し早めて」
「大丈夫です」
紡は椅子に座った。
机の上にノートを置く。
手のひらが少し冷たい。
上司は穏やかな声で話し始めた。
「来期の役割の件なんだけど、改めて話しておきたくて」
「はい」
「今のチームで、藤沢さんにはかなり安定して動いてもらっていると思ってる。資料の質もそうだし、クライアント対応も、後輩のフォローも。だから来期は、もう少しチーム全体を見る立場に入ってもらえたらと思ってるんだ」
紡は頷きながら聞いた。
安定。
チーム全体を見る立場。
その言葉が、会社の未来を少しずつ形作っていく。
「具体的には、真帆さんだけじゃなくて、新しく入るメンバーのフォローにも関わってもらう。あとは、会議前の資料確認や、スケジュール調整にも少し入ってもらいたい」
仕事の内容が、頭の中で組み立てられていく。
できないことではない。
むしろ、たぶんできる。
だからこそ、簡単には断れない。
上司は続けた。
「もちろん、いきなり全部任せるわけじゃないし、残業が大きく増えないようには調整するつもり。ただ、藤沢さん自身が今後どうしていきたいかも聞いておきたい」
紡は、膝の上で指を軽く握った。
今後どうしていきたいか。
その問いは、会社の中の話として投げられたものだ。
でも紡の中では、もっと広く響いた。
今後、どうしていきたいか。
本当は、ずっと自分に聞き続けてきた問いだった。
紡はゆっくり口を開いた。
「まず、評価していただけていることは、すごくありがたいです」
声が少しだけ硬かった。
それでも、止まらなかった。
「真帆さんのフォローも、チーム内の調整も、自分にできることがあるなら力になりたい気持ちはあります」
上司は頷いた。
「うん」
紡は少し息を吸った。
ここからだ。
「ただ、今までのように、言われた役割をそのまま引き受けるだけではなくて、自分の働き方を一度きちんと考えたいと思っています」
上司の表情が、少しだけ真剣になった。
「働き方?」
「はい」
紡は言葉を選んだ。
「今の仕事を嫌だと思っているわけではありません。むしろ、ここで身につけたことも多いですし、今のチームにも感謝しています」
これは本当だった。
嘘ではない。
だから言えた。
「でも、役割が増えることで、自分の時間の使い方や、今後の方向性がかなり会社中心になっていくと思っています。それを何も考えずに引き受けてしまうのは、少し違う気がしていて」
上司は黙って聞いていた。
否定も、遮りもしない。
その沈黙に、紡は少し勇気をもらった。
「なので、どのくらいの負担になるのか、何を期待されているのかをもう少し具体的に知ったうえで、考えたいです」
言えた。
とりあえず、そこまでは言えた。
胸の奥で、何かが小さくほどける。
上司は腕を組み、少し考えるように視線を落とした。
「なるほど。正直に言ってくれてありがとう」
その言葉に、紡は少しだけ肩の力を抜いた。
「いえ」
「藤沢さんは、いつも期待されたことをちゃんと返そうとしてくれるから、こちらも頼りすぎていたところはあるかもしれないね」
紡は驚いて上司を見た。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「いえ、そんなことは」
反射的に否定しようとして、言葉を飲み込んだ。
すぐに「大丈夫です」と言ってしまう癖。
それが今、出そうになった。
紡は少しだけ言い換えた。
「そう言っていただけるのは、ありがたいです」
上司は頷いた。
「役割の内容は、もう少し具体的に整理して渡すよ。負担も含めて、現実的に見てもらった方がいいと思う」
「ありがとうございます」
「それと、今後の方向性について何か考えていることがあるなら、すぐじゃなくてもいいけど、話せる範囲で話してくれていいから」
紡の胸が、また小さく鳴った。
話せる範囲で。
その言葉は、強く踏み込んでくるものではなかった。
でも、扉が少し開いたように感じた。
今なら、もう少し言えるだろうか。
旅のこと。
文章のこと。
全部ではなくても。
紡は迷った。
ここで黙れば、面談は無難に終わる。
でも、このまま終わると、また自分の中に本音を持ち帰るだけになる気がした。
紡は、机の上のペンを見つめた。
そして、ゆっくり言った。
「まだ、はっきり決まっているわけではないんですが」
上司が顔を上げる。
「はい」
「会社の仕事とは別に、文章を書いたり、旅先で見たものや聞いたことを記録したりすることに、少しずつ時間を使いたいと思っています」
言った。
心臓が、強く鳴った。
旅をしながら生きていきたい。
会社を辞めたい。
そこまでは言っていない。
でも、会社とは別にやりたいことがあると、初めて上司に伝えた。
上司は少し意外そうな顔をした。
けれど、困った顔ではなかった。
「そうなんだ」
「はい。まだ本当に小さなことなんですが、この前も一泊で小田原へ行って、市場や食堂で聞いた言葉を少し書いてみたりして」
紡は自分でも驚くほど、言葉が続いた。
「そういう時間も、自分の中で大事にしたいと思っています」
上司はしばらく黙っていた。
その沈黙の間、紡の手のひらにじんわり汗が滲んだ。
言いすぎただろうか。
仕事への意欲が低いと思われただろうか。
評価が下がるだろうか。
不安が一気に押し寄せる。
けれど、上司は穏やかに言った。
「いいじゃない」
紡は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「え?」
「文章を書くとか、旅先で記録するとか。藤沢さんらしいと思うよ」
藤沢さんらしい。
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
会社の中の紡しか知らないはずの上司が、そう言った。
「仕事でも、藤沢さんは人の話を拾うのが上手いからね。会議で流れそうな言葉を、ちゃんと拾って整理してくれる。そういうところ、文章にも向いているのかもしれない」
紡は、何も言えなかった。
会社での自分と、旅へ向かう自分。
それらは別々で、引き裂かれているものだと思っていた。
けれど、上司の言葉は、そこに小さな橋をかけてくれた。
人の話を拾うのが上手い。
会議で流れそうな言葉を拾う。
市場で出会った人の言葉を持ち帰りたいと思った自分と、会社で会議の言葉を拾ってきた自分。
確かに、どこかで繋がっているのかもしれない。
上司は続けた。
「もちろん、仕事としてはチームのことも考えたい。ただ、藤沢さん自身のそういう時間も大事にしたいなら、役割の持たせ方は少し考えた方がいいかもしれないね」
「いいんですか」
思わずそう聞いてしまった。
上司は少し笑った。
「会社として全部自由にとは言えないけど、何でも抱え込ませるのがいいわけじゃないから。長く働くにしても、そうじゃないにしても、本人が納得していないと続かないでしょう」
長く働くにしても、そうじゃないにしても。
その言葉が、紡の胸の中で静かに響いた。
上司は、紡がいつか辞めるかもしれない可能性を、完全には否定しなかった。
それは、背中を押す言葉ではない。
でも、閉じ込める言葉でもなかった。
「ありがとうございます」
紡は、声が少し震えないように気をつけながら言った。
「来期の役割については、具体的な内容を見てから、改めて相談させてください」
「うん。そうしよう」
面談は、それから少し実務的な話に移った。
担当範囲。
真帆の育成。
会議への関わり方。
残業時間の調整。
紡はメモを取りながら、心の奥ではまださっきの言葉を抱えていた。
会社とは別に、文章を書いたり、旅先で見たものや聞いたことを記録したりする時間を大事にしたい。
自分の口から出たその言葉。
言ったあとも、世界は壊れなかった。
上司は怒らなかった。
呆れもしなかった。
むしろ、聞いてくれた。
そのことが、紡には信じられないくらい大きかった。
会議室を出ると、オフィスの音が戻ってきた。
キーボードの音。
電話の声。
誰かが笑う声。
雨はまだ降っている。
窓の外のビルは、灰色の雨に濡れていた。
紡は自席に戻り、椅子に座った。
美咲がすぐに小声で聞いた。
「どうだった?」
紡は少しだけ笑った。
「少し、言えた」
「そっか」
美咲は、それ以上詳しく聞かなかった。
その距離がありがたかった。
「よかったじゃん」
「うん」
紡は頷いた。
本当に、よかったと思った。
まだ何も決まっていない。
来期の役割を引き受けるのかどうかも、会社をどうするのかも、旅の夢をどう形にするのかも。
でも、言えた。
自分の中だけに閉じ込めていた本音の輪郭を、少しだけ外に出せた。
それだけで、息が少ししやすくなった。
夕方、雨は弱くなっていた。
退勤するとき、傘を差すか迷うくらいの細い雨だった。
紡は駅へ向かわず、少しだけ遠回りをすることにした。
濡れた歩道に、街の明かりがぼんやり映っている。
車のタイヤが水を跳ねる音。
コンビニの明かり。
傘を閉じる人。
雨上がりの匂い。
紡は歩きながら、今日の面談を思い出していた。
上司の言葉。
いいじゃない。
藤沢さんらしいと思うよ。
人の話を拾うのが上手いからね。
その言葉は、紡の中で何度も静かに繰り返された。
自分で思っていたより、会社での自分と夢へ向かう自分は遠くないのかもしれない。
それでも、選ばなくていいという意味ではない。
いつかは、もっとはっきり決めなければならない時が来る。
でも、今日の紡は、その決断の前に一つ大切なことをした。
本音を少しだけ、人に渡した。
それを受け取ってもらえた。
その事実は、今後の紡をきっと支えてくれる。
帰宅すると、部屋は静かだった。
紡はバッグを置き、ジャケットを脱ぎ、手を洗った。
冷蔵庫を開けると、母に渡す予定のかまぼこがまだそこにある。
明日は実家へ帰る。
母に小田原の話をする。
上司に話すのとは、また違う緊張がある。
母にどこまで話すかは、まだ決めていない。
でも今日、紡は思った。
全部を一度に話さなくてもいい。
本音には、いきなり全体を見せる前に、輪郭だけを渡す方法もある。
上司にそうできたのなら、母にも少しだけできるかもしれない。
夕飯を簡単に済ませたあと、紡は青いノートを開いた。
今日の日付の下に、まずこう書いた。
「少し言えた」
それだけ書いて、しばらくペンを止めた。
そして、ゆっくり続ける。
「会社とは別に、文章を書いたり、旅先で見たものや聞いたことを記録したりする時間を大事にしたいと言った。全部ではない。夢の中心まではまだ言えなかった。でも、少し言えた」
書いているうちに、胸が静かに温かくなる。
紡はさらに書いた。
「言ったら、壊れると思っていた。評価されなくなるかもしれないと思っていた。でも、上司は聞いてくれた。会社で身につけたことと、私がやりたいことは、離れているだけではないのかもしれない」
ペン先が止まる。
雨の音が、窓の外でまだ少しだけ聞こえていた。
紡は、今日の一番大切な言葉を書いた。
「本音は、隠していると怖いまま大きくなる。でも、少し外に出すと、輪郭が見える」
書いた瞬間、深く息を吐いた。
本音の輪郭。
まだ形はぼんやりしている。
でも、確かにそこにある。
旅をしたい。
書きたい。
人の言葉を持ち帰りたい。
今の仕事で得た力も、なかったことにしたくない。
母を心配させたくない。
でも、自分の人生を母の安心だけで決めたくない。
その全部が、紡の本音だった。
どれか一つだけが本物で、他は嘘というわけではない。
だから難しい。
だから時間がかかる。
でも、難しいからといって見ないふりをすることは、もうできない。
紡はノートを閉じる前に、もう一行書いた。
「明日、母に小田原の話をする」
その文字を見て、胸がまた少し緊張した。
母は、どんな顔で聞くだろう。
市場の女性の話を、面白がってくれるだろうか。
一人で旅をしたことを、心配するだろうか。
また結婚や安定の話になるだろうか。
わからない。
でも、かまぼこを持って帰る。
まずは味を渡す。
そして、小田原の朝を少しだけ話す。
それでいい。
紡はノートを閉じた。
スマートフォンを開くと、「足音を聴く」の投稿に新しい通知が来ていた。
セリからのメッセージだった。
紡は少し驚いて、画面を開いた。
『小田原の投稿、読みました。景色だけではなく、人の言葉を持ち帰りたいという気づき、とても大切だと思います。旅は、目で見るだけではなく、耳を澄ませることでもありますね』
短いメッセージだった。
でも、紡には十分だった。
旅は、目で見るだけではなく、耳を澄ませることでもある。
紡はその一文を何度も読んだ。
今日、会社で上司の言葉を聞いた。
美咲の言葉を聞いた。
自分の本音にも、少し耳を澄ませた。
もしかしたら、旅は小田原で終わっていない。
場所が会社でも、家でも、実家でも、耳を澄ませることはできる。
人の言葉を持ち帰ることは、旅先でだけ起きることではないのかもしれない。
紡はセリに返信した。
『ありがとうございます。今日、会社でも少しだけ自分の本音を話しました。まだ全部ではありませんが、言葉にしてみると、自分が何を大事にしたいのか少し見えた気がします。耳を澄ませること、忘れずにいたいです』
送信する。
今夜は、手が震えなかった。
怖くないわけではない。
でも、怖さの中に少しだけ信頼が混ざっていた。
相手を信じるというより、自分の言葉を信じる感覚に近かった。
灯りを消す前、紡は冷蔵庫の中のかまぼこをもう一度確認した。
明日、これを持って実家へ帰る。
母に渡す。
小田原の話をする。
その先に何があるのかは、まだわからない。
けれど今日、上司に少し言えた自分なら、明日も少しだけ言えるかもしれない。
紡はベッドに入り、目を閉じた。
雨の音は、もうほとんど聞こえなかった。
今日、会議室の床を静かに渡った一歩を思い出す。
言葉になる前の本音を抱えたまま、椅子に座り、少しずつ外へ差し出した一歩だった。
それは小さかった。
けれど、確かに前へ進んでいた。
紡はその感触を胸に抱えたまま、静かに眠りに落ちていった。




