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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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13/51

第13章 安定という名の分かれ道

火曜日の朝、紡はいつもより早く会社に着いた。

前日の夜、あまり深く眠れなかった。

眠る前に上司の言葉を何度も思い出していたからだ。

来期から、もう少し後輩の育成にも入ってもらいたい。

藤沢さんも、そろそろ次の段階を考えていい時期だと思う。

次の段階。

その言葉が、夜の間ずっと胸の中で小さく光っていた。

明るい光ではない。

かといって、暗い影でもない。

そこにあることを無視できない、静かな光だった。

会社の中で期待されている。

それは本来、喜ぶべきことなのだと思う。

入社してから五年。

失敗もした。

泣きそうになった日もあった。

先輩の言葉に落ち込んだこともある。

自分には向いていないのではないかと、帰りの電車で何度も思った。

それでも続けてきた。

資料の作り方を覚え、取引先との話し方を覚え、後輩への伝え方を覚え、会議で言葉を選ぶ力も少しずつ身についた。

その積み重ねを、誰かが見てくれている。

そう思えば、嬉しくないはずがなかった。

けれど、胸の奥にある別の場所が、静かにざわつく。

もしここで次の役割を引き受けたら。

紡はエレベーターの中で、ぼんやりと階数表示を見つめた。

責任が増える。

仕事にかける時間が増える。

後輩の育成、チームの調整、上司との会議。

今よりも、会社の中で求められる自分が大きくなる。

それは、悪いことではない。

むしろ、安定した会社員としては自然な流れだ。

周りから見れば、順調なのだと思う。

二十七歳。

仕事に慣れ、任されることが増え、次の役割へ進む。

ちゃんとした大人の道。

その道の上に、紡は今、立たされている。

エレベーターの扉が開いた。

オフィスの白い光が目に入る。

紡は軽く息を吸って、席へ向かった。

いつもの机。

いつもの椅子。

いつものパソコン。

けれど、今日はその机が少しだけ重く見えた。

ここに座り続ける未来。

その未来が、急に具体的な形を持って見えたからだ。

紡はパソコンを立ち上げ、メールを確認した。

週明けほどではないが、返信すべきものがいくつかある。

今日の会議資料も確認しなければならない。

真帆からは、昨日の資料修正について質問が来ていた。

紡はいつものように手を動かし始めた。

仕事は、待ってくれない。

悩んでいる日も、迷っている朝も、メールは届く。

会議は始まる。

資料には締め切りがある。

その現実に、少しだけ救われることもあった。

考えすぎる心を、目の前の作業へ戻してくれるからだ。

「藤沢さん、おはようございます」

真帆が少し緊張した顔で声をかけてきた。

「おはよう」

「昨日見ていただいた資料なんですけど、修正してみました。あとで確認お願いしてもいいですか?」

「もちろん。十時の会議が終わったら見るね」

「ありがとうございます」

真帆はほっとしたように笑った。

その表情を見たとき、紡の胸に小さな温かさが生まれた。

誰かを支えられること。

それは、悪くない。

仕事の中にも、確かに自分が大切にしているものはある。

真帆が困っているとき、どう説明すれば伝わるか考える。

取引先に、わかりやすい言葉で資料を届ける。

会議で、散らばった意見を整理する。

誰かが見落としそうな小さな引っかかりに気づく。

それらは、紡が旅で大切にしたいと思ったものと、まったく無関係ではないのかもしれない。

人の言葉を受け取り、整理し、残す。

相手に届く形を考える。

それは会社でも、旅でも、同じ根っこにつながっているような気がした。

けれど、だからこそ難しかった。

仕事が完全に嫌いなら、もっと簡単だった。

ここではない場所へ行きたい、と言えたかもしれない。

でも紡は、今の仕事をまるごと嫌っているわけではない。

できることもある。

大切に思える瞬間もある。

評価されると嬉しい。

真帆の役に立てると、少し誇らしい。

その一方で、胸の奥では別の場所へ向かう足音が消えない。

小田原の海。

市場の女性の言葉。

青いノート。

「景色だけではなく、人の言葉を持ち帰りたい」

あの一文は、まだ紡の中で静かに光っていた。

午前中の会議は、予定より長引いた。

新しい案件の進行について、上司と各担当者の意見が少しずつずれた。

スケジュールを優先する人。

品質を重視する人。

クライアントの要望を気にする人。

社内の工数を心配する人。

いくつもの声が重なって、会議室の空気が少し硬くなる。

紡は手元のメモを見ながら、発言のタイミングを待った。

「一度、優先順位を整理してもいいですか」

そう言うと、会議室の視線が集まった。

以前なら、その視線だけで少し緊張していた。

今も緊張はする。

でも、言葉が出ないほどではない。

紡は資料を画面に映しながら、一つずつ確認した。

「まず、クライアントが最も重視しているのは公開日の厳守です。ただ、そのために品質確認を削ると、公開後の修正対応が増える可能性があります。なので、今週中に決めるべきことと、来週以降でも調整できることを分けた方がいいと思います」

話しながら、紡は小田原の市場を少しだけ思い出していた。

箱が運ばれ、声が飛び交い、人の手が動いていた市場。

あの場所では、それぞれの人が自分の役割をわかって動いていた。

ここも、形は違うけれど同じかもしれない。

たくさんの人の動きを、どうすれば滞らせずに進められるか。

そう考えると、仕事の会議も少し違って見えた。

紡の説明を聞いて、上司が頷いた。

「そうだね。藤沢さんの言う通り、一度分けよう」

会議の空気が少し落ち着いた。

ホワイトボードに項目を書き出し、決めることを整理する。

紡はその作業を淡々と進めた。

会議が終わったあと、上司が声をかけてきた。

「さっきの整理、助かったよ」

「ありがとうございます」

「やっぱり藤沢さんは、こういう調整が向いてるね」

向いている。

その言葉は、朝から何度も紡の胸に触れていた。

向いていること。

できること。

期待されること。

それらは、紡を会社の中へ引き留める柔らかな手のようだった。

強く掴まれているわけではない。

けれど、温かいからこそ振りほどきにくい。

昼休み、紡は美咲と外へ出た。

会社の近くの定食屋に入る。

いつもの昼時の賑わい。

スーツ姿の人たちがテーブルを埋め、店員が忙しそうに注文を運んでいる。

紡は焼き魚定食を頼んだ。

小田原で食べた干物定食のことを思い出したからだ。

運ばれてきた焼き魚は、もちろん小田原の食堂のものとは違う。

都会の昼休みの、忙しい定食。

でも湯気が立つ味噌汁と、白いごはんと、焼かれた魚を前にすると、胸の奥が少し落ち着いた。

美咲が箸を取りながら言った。

「昨日の話、考えてたんだけどさ」

「昨日?」

「小田原の話。市場で人の言葉が残ったって言ってたやつ」

紡は少し驚いて、美咲を見た。

「考えてくれてたの?」

「うん。なんか、いいなと思って」

美咲は味噌汁を一口飲んでから続けた。

「旅行って、どこ行ったかとか、何食べたかとか、写真撮ったかとかで終わりがちだけど、人の言葉が残るっていいよね」

「うん」

「私、旅行行っても、たぶんそこまで覚えてないなって思った。映える写真は撮るけど、誰と何話したかとか、あんまり気にしてなかったかも」

紡は焼き魚を少しほぐしながら、静かに聞いていた。

「でも、紡の話聞いてたら、そういうのも旅なんだなって思った」

その言葉に、紡の胸が温かくなった。

自分が持ち帰ったものが、美咲の中でも少し形を変えて残っている。

それが嬉しかった。

「私も、今回初めてそう思ったんだと思う」

紡は言った。

「今までは、旅したいって思ってても、どこか景色ばかり想像してた。海とか、古い町並みとか、市場とか。でも実際に行ったら、残ったのは人の言葉だった」

「紡、文章書いたら?」

美咲が何気なく言った。

箸を持つ手が、止まった。

「え?」

「小田原のこと。写真だけじゃなくて、文章でまとめたらいいのに」

紡はすぐに返事ができなかった。

心臓が、少し速くなる。

文章なら、もう書いている。

青いノートに。

そして、少しだけSNSにも投稿した。

でも、それを美咲に言っていいのかどうか、まだわからなかった。

「日記みたいに?」

紡は探るように言った。

「うん。日記でもいいし、なんか、エッセイみたいな感じで。紡の話、聞いてると見えるんだよね。市場の感じとか、紙袋とか」

見える。

その言葉が、胸に残った。

「そんな大げさなものじゃないよ」

紡は笑おうとした。

でも、美咲は真面目な顔をしていた。

「大げさじゃなくてもいいんじゃない?そういう小さいことを書くの、紡は向いてる気がする」

また、向いている。

でも今度の言葉は、会社の中へ紡を引き戻すものではなかった。

別の方向に、小さく扉を開いてくれるような言葉だった。

小さいことを書くのに向いている。

紡はその言葉を、そっと受け取った。

「ありがとう」

それだけ言うのが精一杯だった。

「書いたら読ませて」

美咲が軽く言った。

紡は、少しだけ笑った。

「いつかね」

いつか。

その言葉を使った瞬間、少し引っかかった。

けれど、以前ほど遠い「いつか」ではなかった。

もしかしたら本当に、美咲に読んでもらえる日が来るかもしれない。

午後、紡は真帆の資料を確認した。

赤字で直すだけではなく、なぜその修正が必要なのかをコメントで添える。

「この表現だと、受け手によって解釈が分かれるかもしれません。数字の変化だけでなく、なぜ変わったのかを一文足すと伝わりやすくなります」

書きながら、紡はふと気づいた。

伝わりやすくする。

相手が迷わないように、言葉を整える。

これは、会社の仕事でずっとやってきたことだ。

自分の夢とは関係ないと思っていた日々の中で、実は言葉の筋肉を少しずつ鍛えていたのかもしれない。

そう考えると、これまでの時間を否定しなくていい気がした。

会社員として働いてきた五年。

その時間は、夢から遠ざかっていた時間ではないのかもしれない。

人に伝える力を身につけていた時間。

相手の立場を考える力を育てていた時間。

何かを整理して言葉にする力を積み重ねていた時間。

そう思いたかった。

そう思うことで、少し救われた。

けれど同時に、問いは消えない。

では、これからも同じ場所で続けるのか。

それとも、その力を別の場所へ持っていくのか。

仕事が終わる頃、上司からチャットが届いた。

『来期の役割の件、今週中に一度話せる?急がせるつもりはないけど、藤沢さんの考えを聞いておきたいです』

紡は画面を見つめた。

今週中。

急ではない。

でも、逃げるほど先でもない。

返信を打つ。

『承知しました。金曜日の午後でお時間いただけますでしょうか』

送信する。

すぐに返事が来た。

『了解。金曜15時で入れておきます』

カレンダーに予定が入った。

金曜日十五時。

来期の役割についての面談。

紡は、その予定を見つめた。

小田原の予定がカレンダーに入ったときのような高鳴りとは違う。

もっと重く、現実的な予定。

でも、これも自分の人生に関わる予定だった。

会社に残る未来。

役割を引き受ける未来。

その先にある安定。

そして、旅を続けたい自分。

どちらか一方を、すぐに選べるわけではない。

けれど、もう何も考えずに流されることはできない。

紡はパソコンを閉じ、深く息を吐いた。

帰り道、紡はいつもの駅とは反対側へ少しだけ歩いた。

遠回りになる。

けれど、すぐに電車に乗る気になれなかった。

夕方の街には、仕事帰りの人たちが溢れている。

ビルの明かりが灯り始め、飲食店の看板が少しずつ夜の色を帯びる。

紡は歩きながら、スマートフォンを取り出した。

「足音を聴く」のアカウントを開く。

小田原の投稿には、また新しいコメントがついていた。

『私も、地元の市場をちゃんと歩いてみたくなりました』

紡は立ち止まった。

地元の市場。

遠くではない。

旅先でもない。

その人の日常の近くにある場所。

紡の投稿が、誰かに遠くへ行かせたわけではない。

でも、近くにあるものをもう一度見ようと思わせた。

それが嬉しかった。

自分が小田原で感じたことが、誰かの日常の見え方を少しだけ変えたのかもしれない。

紡は返信した。

『地元の市場、きっとその場所だけの朝がありますね。私もいつか、近くの市場を歩いてみたいです』

送信したあと、ふと笑った。

旅は遠くへ行くことだけではない。

その言葉を何度も書いてきた。

でも、今それをまた別の形で受け取っている。

遠くの小田原へ行ったことで、近くの市場も見たくなる。

旅は、場所を増やすだけではなく、目を増やすことなのかもしれない。

紡は近くの小さな公園に入った。

ビルの間にある、少し窮屈な公園だった。

ベンチが二つ。

小さな木が数本。

滑り台。

砂場。

街灯。

昼間なら子どもがいるのかもしれないが、夕方のこの時間は人が少なかった。

紡はベンチに座り、バッグから青いノートを取り出した。

会社帰りに、公園でノートを開く。

以前の紡なら、少し恥ずかしかったかもしれない。

でも今は、そうしたかった。

ページを開き、今日の日付を書く。

「安定という言葉が、今日は重かった」

最初にそう書いた。

続けて、

「会社で期待されている。ありがたい。嬉しい。できることもある。けれど、その道を進むほど、旅へ向かう自分が遠ざかる気がして怖い」

書いた瞬間、胸の奥にあったものが少し形を持った。

紡はさらに書く。

「でも、会社で身につけたものが、夢と無関係だったわけではないのかもしれない。伝える力。整理する力。相手の立場を考える力。私はここで、言葉を扱う力を少しずつ覚えてきた」

ペン先が止まる。

風が少し吹き、ページの端が揺れた。

紡は手で押さえながら、次の言葉を探した。

「それでも、ここに残り続けることと、ここで得た力を持って別の場所へ行くことは違う」

書いたあと、しばらくその一文を見つめた。

そうだ。

会社で過ごした時間を否定する必要はない。

でも、感謝しているからといって、ずっと残らなければならないわけでもない。

向いているからといって、それを一生の場所にしなければならないわけでもない。

できることと、選びたいことは、重なることもあれば、ずれることもある。

そのずれに気づいてしまったから、苦しいのだ。

紡は目を閉じた。

小田原の海の風を思い出す。

市場の女性の言葉を思い出す。

探しているうちは、いろいろ見えるよ。

今、自分は探している。

会社の中での自分。

旅へ向かう自分。

母に安心してほしい自分。

誰かの言葉を持ち帰りたい自分。

どれか一つを選ぶには、まだ怖い。

でも、探しているから見えるものがある。

今の揺れも、きっと無駄ではない。

紡はノートの端に、小さく書いた。

「金曜日、上司と話す」

その文字を見て、少し緊張した。

まだ答えは出ていない。

けれど、金曜日には何かを言わなければならない。

引き受けます。

少し考えさせてください。

今の自分には、別にやりたいことがあります。

どの言葉を選ぶのか、まだわからない。

家に帰ると、母からメッセージが来ていた。

『かまぼこ、今週末に持って帰る?無理しなくていいけど』

紡は画面を見つめた。

今週末。

実家に帰る。

小田原のかまぼこを渡す。

市場の話をする。

母に、ほんの少しだけ旅のことを話す。

それは、会社の面談とは別の緊張を連れてきた。

紡は返信を打った。

『うん。土曜日、少し帰ろうかな。かまぼこ持って行くね』

送信する。

すぐに母から返事が来た。

『楽しみにしてる。夕飯食べていく?』

紡は少し迷って、

『食べていく』

と返した。

実家で夕飯を食べる。

母の作った料理を食べる。

きっと、仕事のことも聞かれる。

旅のことも聞かれる。

もしかしたら、結婚のことも少し言われるかもしれない。

紡は小さく息を吐いた。

今週は、いくつかの現実が待っている。

金曜日には上司との面談。

土曜日には実家。

会社に残る未来。

母に見せている自分。

旅へ向かう自分。

それらが、少しずつ近づいている。

夜、紡は小田原の写真をもう一度見返した。

波の光。

みかん。

干物定食。

市場の紙袋。

どの写真も、今見ると少し遠い。

でも、遠くなったからこそ、言葉にできるものもある気がした。

紡はパソコンを開いた。

新しい文書ファイルを作る。

タイトルをつけずに、空白のページを見つめる。

美咲の言葉がよみがえる。

文章書いたら?

紡は指をキーボードに置いた。

何を書くかは決めていない。

でも、まず一文だけ打ってみる。

「小田原の朝、市場には魚の匂いと、人の声が満ちていた。」

画面に文字が表示される。

紡はそれを見つめた。

青いノートに書くのとは違う。

投稿画面に打つのとも違う。

少しだけ、外へ出す前の文章。

誰かに見せるかどうかもわからない文章。

でも、書き始めた。

それだけで、胸の奥が静かに震えた。

続けて打つ。

「私はそこで、名前を聞きそびれた揚げ物を食べた。魚のすり身に生姜を少し入れて丸めた、昔からその家で作られてきた味だった。」

指が止まる。

市場の女性の顔が浮かぶ。

白いエプロン。

明るい目。

「味って、残そうと思って残るものじゃないのかもしれないね」

紡はその言葉を、丁寧に打ち込んだ。

一文字ずつ。

消えないように。

雑にならないように。

気づけば、画面には少しずつ文章が増えていた。

上手いかどうかはわからない。

人に読ませられるものかもわからない。

でも、紡は書いていた。

小田原で持ち帰った言葉を、もう一度自分の中で温め直すように。

一時間ほど経った頃、紡はようやく手を止めた。

文字数は多くない。

けれど、ひとまとまりの文章になっていた。

タイトルをつける。

「市場の朝、名前を聞きそびれた味」

少し長い。

でも、今はこれでいい。

保存する。

フォルダ名は迷った末に、

「旅の記録」

とした。

保存ボタンを押した瞬間、胸の奥が静かに鳴った。

また一つ、形になった。

投稿ではなく、ノートでもなく、ひとつの文章として。

紡は椅子にもたれ、深く息を吐いた。

仕事で疲れているはずなのに、不思議と心は軽かった。

会社の中で期待されていること。

金曜日に返事をしなければならないこと。

母にかまぼこを持って帰ること。

それらの現実は何も消えていない。

でも、自分には今夜、書いた文章がある。

それが小さな支えになっていた。

ベッドに入る前、紡は青いノートを開いた。

今日の最後に、こう書いた。

「安定は、私を守ってくれた。でも、守られている場所から一歩も出ない理由にしてしまったら、いつかその優しさを恨んでしまうかもしれない」

書いてから、少し胸が痛んだ。

会社も、母も、今の暮らしも。

紡を傷つけるためにあるわけではない。

むしろ、守ってくれている。

だからこそ、その守りを言い訳にして夢を閉じ込めたくなかった。

紡はペンを置いた。

灯りを消す。

暗い部屋の中で、パソコンの画面は閉じられている。

その中に、小田原の朝を書いた文章が保存されている。

冷蔵庫には、母に渡すかまぼこがある。

カレンダーには、金曜日の面談と、土曜日の実家の予定が入っている。

現実は、少しずつ紡に近づいている。

もう、夢をノートの中だけにしまっておくことはできないのかもしれない。

心の中で、小さな声が迷っていた。

右へ行くのか、左へ行くのか。

立ち止まるのか、進むのか。

まだわからない。

けれど、確かにそこにある。

紡はその声を聞きながら、目を閉じた。

安定という名の道は、優しく、まっすぐ続いている。

その脇に、まだ細くて、足元もよく見えない別の道がある。

どちらかを今すぐ選べるわけではない。

でも紡はもう、その細い道が存在することを知らないふりはできなかった。


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