第12章 現実に戻った月曜日
月曜日の朝は、何も知らない顔をしてやって来た。
目覚ましの音。
カーテンの隙間から差し込む白い光。
まだ少し重い体。
テーブルの上に置かれた深い青色のノート。
床の端に置いたままの、青いボストンバッグ。
紡はベッドの中で、しばらく天井を見つめていた。
小田原から帰ってきたのは、昨日の夕方だった。
帰宅してすぐ、洗濯機を回し、買ってきたかまぼこを冷蔵庫に入れ、母へ送る写真を選び、ノートを読み返した。
市場の女性の言葉。
八百屋の女性の「またおいで」。
食堂の女性の「今日はいい干物だったから」。
波の先にあった白い光。
紙袋の中の、魚のすり身を揚げたもの。
どれも、まだ体のどこかに残っていた。
けれど朝になれば、会社へ行かなければならない。
旅は終わった。
今日は月曜日。
いつもの服を着て、いつもの電車に乗り、いつもの席でパソコンを開く日。
その事実が、思ったよりも重かった。
紡はゆっくり起き上がった。
部屋の中には、旅の名残がいくつか残っていた。
ボストンバッグの口は開いたまま。
中には、まだ片付けきれていない充電器や、折り畳み傘、使わなかった薬の袋が入っている。
椅子の背には、小田原で着ていたカーディガンがかかっていた。
テーブルの端には、かまぼこの入った紙袋をたたんだものが置かれている。
紡はそれらを見て、小さく息を吐いた。
片付けなければ。
でも、少しだけ片付けたくなかった。
バッグをしまってしまえば、旅が本当に終わってしまう気がした。
昨日までの二日間が、ただの週末の出来事として、日常の中へ吸い込まれていく気がした。
紡は洗面所へ向かい、顔を洗った。
鏡の中の自分は、少し疲れていた。
歩き回ったせいで、足にもまだ軽いだるさがある。
けれど、目の奥だけは少し違って見えた。
はっきり何が変わったのかはわからない。
でも、何かを見てきた人の目をしている気がした。
紡はその顔を見ながら、小さく呟いた。
「戻ってきたんだ」
会社へ行くための服を選ぶ。
白いブラウス。
黒いパンツ。
薄いグレーのジャケット。
いつもの自分に戻るための服。
でも、袖を通しても、完全に昨日までの自分へ戻るわけではなかった。
胸の奥に、小田原の朝が残っている。
市場の水の匂いが残っている。
海の風が残っている。
人の言葉が残っている。
それらは、会社用の服の下にそっと隠れていた。
朝食は、簡単に済ませた。
トーストとコーヒー。
冷蔵庫を開けると、昨日買ってきたかまぼこが目に入った。
きれいに包装された白と紅。
母に渡すつもりで買ったものだった。
でも、少しだけ切って食べてみたくなった。
紡は小さく包みを開け、薄く一切れ切った。
口に入れると、弾力があって、ほんのり甘い。
昨日、小田原の店先で見たかまぼこ。
場所を持ち帰る食べもの。
そう思ったことを思い出す。
本当に、そうかもしれない。
東京の小さな台所で食べているのに、口の中には昨日の商店街の気配が少し戻ってくる。
紡はもう一切れ切りたい気持ちを抑えて、包みを戻した。
これは、母にも渡したい。
全部を話せなくても、味なら渡せる。
そう思った。
駅へ向かう道は、いつも通りだった。
月曜日の朝の空気は、土曜日の旅の朝とはまったく違う。
歩道には、急いでいる人が多い。
スーツ姿の人。
スマートフォンを見ながら歩く人。
自転車で駅へ向かう人。
コンビニの前でコーヒーを買う人。
紡も、その流れの中に入った。
青いボストンバッグではなく、いつもの通勤バッグを肩にかけている。
バッグの中には、会社用のノート、社員証、ポーチ、財布、スマートフォン。
そして、深い青色のノート。
今日は、迷った末に持ってきた。
いつもは家に置いていたノート。
けれど今日は、どうしても置いていけなかった。
会社へ行っても、小田原で受け取った言葉を近くに置いておきたかった。
電車に乗ると、いつもの混雑があった。
肩が触れる距離。
誰かのバッグが腕に当たる感覚。
吊り革につかまる手。
眠そうな顔。
イヤホン。
ニュースを読む画面。
昨日の帰りの電車とは違う。
同じ線路の上を走っていても、行き先が違うだけで、こんなにも空気が変わる。
紡はつり革につかまりながら、窓の外を見た。
街が流れていく。
昨日、小田原から東京へ戻る電車の中で、自分は小田原を少しだけ持ち帰っていると書いた。
今朝、その言葉が本当かどうかを試されている気がした。
旅先では、感じることができた。
立ち止まることができた。
人の言葉に耳を澄ませることができた。
では、日常に戻ったらどうなるのだろう。
会社へ行き、会議に出て、資料を作り、メールに追われる日々の中で、自分はまだその感覚を持っていられるのだろうか。
紡はバッグの中の青いノートに、そっと手を触れた。
ある。
それだけで少し安心した。
会社に着くと、エントランスの空気が一気に現実を連れてきた。
磨かれた床。
自動ドア。
エレベーターの前に並ぶ人たち。
社員証をかざす音。
「おはようございます」と交わされる声。
小田原の市場の声とは違う。
ここには、ここで動いている人たちの朝があった。
紡は社員証をかざし、エレベーターに乗った。
鏡のような壁に、自分の姿が映る。
きちんとした会社員。
昨日、海の前で紙袋を膝に置いていた自分と、同じ人には見えない。
でも、同じ人なのだ。
そのことが、不思議だった。
席に着くと、美咲がすぐに顔を上げた。
「おはよう。週末どうだった?」
紡はバッグを置きながら、一瞬だけ止まった。
週末どうだった。
よくある質問。
いつもなら「ゆっくりしたよ」と答える。
もしくは「少し出かけた」とだけ言う。
でも、今日は少し違う答えをしたかった。
「小田原に行ってきた」
美咲の目が少し丸くなった。
「え、旅行?」
「うん。一泊だけ」
「ひとりで?」
「うん」
言ってしまった。
紡は自分の声が少しだけ震えたような気がした。
けれど、美咲は驚いたあと、すぐに笑った。
「いいじゃん。急にどうしたの?」
急に。
そう聞かれると、答えるのが少し難しい。
本当は、急ではない。
何年も前からノートに書いていた夢があって、セリという旅人の言葉に出会って、怖いままDMを送って、一泊二日のお試し旅を予約して、小田原へ行った。
でも、それを朝のオフィスで一気に話すことはできなかった。
紡は少し考えて言った。
「行きたいなって思ってた場所を、ずっと後回しにしてたから。まずは近いところから行ってみようと思って」
美咲は、少しだけ静かに紡を見た。
「そっか」
その声は、茶化すものではなかった。
「どうだった?」
紡は、すぐには答えられなかった。
どうだった。
楽しかった。
おいしかった。
海がきれいだった。
そう言うこともできる。
でも、それだけでは足りない気がした。
「よかった」
紡はゆっくり言った。
「すごく派手なことをしたわけじゃないんだけど、市場に行って、地元の人と少し話して、海を見て......なんか、ちゃんと行ってよかったって思った」
言葉にすると、また胸の奥が少し温かくなった。
美咲は頷いた。
「紡っぽい旅だね」
また、その言葉。
紡っぽい。
以前なら、少し曖昧でどう受け取ればいいかわからなかったかもしれない。
でも今日は、嬉しかった。
「そうかな」
「うん。観光地を詰め込むより、商店街とか市場とか見てそう」
紡は笑った。
「実際、そうだった」
「写真見たい」
その言葉に、紡は少しだけためらった。
見せたい。
でも、写真を見せた瞬間、説明が必要になる。
みかんの写真。
干物定食の写真。
紙袋と海の写真。
波の光。
人から見れば、地味な写真かもしれない。
「あとで見せるね」
紡はそう言った。
「楽しみにしてる」
美咲は軽く言って、パソコンに向き直った。
そのやり取りだけで、紡は少し心が軽くなった。
全部話せなくてもいい。
少し話せた。
ひとりで小田原へ行ったこと。
よかったと思ったこと。
それだけでも、昨日までよりは外へ出せた。
午前中は、慌ただしく過ぎた。
週明けのメールは多かった。
取引先からの確認。
上司からの指示。
真帆からの相談。
共有フォルダに入った資料の確認。
次々と仕事が流れ込んでくる。
旅の余韻は、仕事の通知音に少しずつ押し流されそうになった。
紡はキーボードを打ちながら、時々自分が小田原にいたことが嘘のように感じた。
昨日の朝、市場で魚の匂いを感じていた。
昨日の昼、喫茶店でコーヒーを飲みながらノートを書いていた。
それなのに今は、オフィスの白い照明の下で、数値の表を直している。
その落差に、少しだけ寂しくなる。
でも、ふと思った。
市場の人たちも、きっと今日も働いている。
八百屋の女性も、店先にみかんを並べているかもしれない。
食堂の女性も、魚を焼いているかもしれない。
昨日出会った場所は、紡が帰ってきたあとも続いている。
旅人が去っても、町の一日は続く。
そのことが、少し不思議で、少し嬉しかった。
自分だけが夢のような二日間を持ち帰ったのではない。
あの町は、今日も今日の朝を始めている。
その続いていく時間の一部を、ほんの少し分けてもらったのだ。
昼休み、紡はひとりで休憩スペースへ向かった。
美咲は別の打ち合わせが長引いていた。
紡はコンビニで買ったおにぎりと味噌汁をテーブルに置いた。
梅のおにぎり。
見慣れた包装。
見慣れた味。
それでも今日は、少しだけ違って見えた。
小田原で食べた干物定食。
市場で買った揚げ物。
海辺で食べた朝の味。
それらを思い出すと、コンビニのおにぎりまで、ただの昼食ではなく、今日の自分を支える食べものに見えた。
食べものには、日付がある。
市場で書いた言葉を思い出す。
今日、この昼休みに、会社の休憩スペースで食べるおにぎり。
それにも、今日の日付がある。
紡はバッグから青いノートを取り出した。
周りに人はいたが、誰も紡の手元など気にしていない。
ページを開く。
小田原で書いた言葉の続きに、今日の日付を書いた。
「会社に戻った」
それだけ書いて、しばらくペンを止めた。
何を書けばいいのかわからなかった。
旅のあと、現実に戻る。
当たり前のこと。
でも、当たり前なのに少し苦しい。
紡はペンを持ち直した。
「小田原の朝は、もう遠い。でも、消えたわけではない。市場の女性の言葉も、波の光も、私の中に残っている。日常に戻ると、旅が夢だったように感じる。でも、夢ではない。ノートに書いた文字と、冷蔵庫のかまぼこと、足の疲れが、それを教えてくれる」
書きながら、少しだけ呼吸が整った。
旅を日常の外に置きっぱなしにするのではなく、日常の中へ持ち帰る。
それが必要なのかもしれない。
そうしなければ、旅はただの非日常で終わってしまう。
楽しかった。
よかった。
また行きたい。
それだけでも十分かもしれない。
けれど紡がしたいのは、もう少し違うことだった。
持ち帰った言葉を、自分の生活の中で育てること。
それをまた、誰かに届く形にすること。
昼休みが終わる前、紡は「足音を聴く」のアカウントを開いた。
昨日投稿した市場の写真には、いいねが少し増えていた。
コメントも二つ届いている。
『こういう旅の記録、好きです。写真だけじゃなくて言葉が残る感じがしました』
『食べものの話なのに、その町の人の顔が見える気がしました』
紡は、そのコメントを何度も読んだ。
言葉が残る感じ。
町の人の顔が見える気がする。
自分が書きたかったものが、ほんの少しだけ届いたのかもしれない。
胸の奥が温かくなる。
同時に、少し怖くもなった。
もっとちゃんと書きたい。
もっと丁寧に届けたい。
でも、ちゃんとしようとしすぎると、また書けなくなりそうだった。
紡は返信を書いた。
『読んでくださってありがとうございます。私も、景色だけではなく、その場所で出会った言葉を残したいと思いました』
送信する。
その文章を見て、紡は静かに頷いた。
これは、今の自分の芯だ。
景色だけではなく、その場所で出会った言葉を残したい。
午後、上司に呼ばれた。
「藤沢さん、少しいい?」
「はい」
小さな打ち合わせスペースに入る。
上司はノートパソコンを開きながら、来期の体制について話し始めた。
「まだ正式ではないんだけど、来期からチーム内で役割を少し見直そうと思っていて」
紡は静かに聞いていた。
「藤沢さんには、もう少し後輩の育成にも入ってもらいたいんだよね。真帆さんのフォローも上手くやってくれているし、資料のまとめ方も安定しているから」
安定している。
その言葉が、また胸に触れた。
以前なら、その言葉にただ息苦しさを感じていた。
安定していると言われるたび、自分がそこに固定されていくようで怖かった。
でも今日は、少し違った。
安定していることは、悪いことではない。
真帆を助けられること。
資料を整えられること。
誰かの仕事を支えられること。
それも、自分が積み重ねてきた力だ。
ただ、それだけが自分のすべてではない。
そう思えた。
上司は続けた。
「もちろん、負担が増える分、評価にも反映できるようにしたい。藤沢さんも、そろそろ次の段階を考えていい時期だと思うし」
次の段階。
紡は、その言葉を心の中で繰り返した。
会社の中での次の段階。
役割が増えること。
責任が増えること。
評価されること。
それはありがたい話だった。
真面目に働いてきたことを見てもらえているのだから。
でも、胸の奥では別の問いが静かに立ち上がっていた。
私にとっての次の段階は、本当にここだけなのだろうか。
「どうかな?」
上司が尋ねる。
紡はすぐには答えなかった。
断る理由はない。
まだ会社を辞めると決めたわけではない。
むしろ、今すぐ辞める予定など何もない。
引き受けるのが自然だ。
でも、何も考えずに頷くのは違う気がした。
「ありがとうございます」
紡はゆっくり言った。
「評価していただけるのは嬉しいです。ただ、役割が増えるなら、自分の中でも一度整理したいので、少し考えてもいいでしょうか」
上司は少し意外そうな顔をした。
以前の紡なら、きっとその場で「はい、頑張ります」と答えていた。
期待に応えたい気持ちが先に立って、自分の本音を後回しにしていた。
けれど今日は、少し待ちたかった。
「もちろん。急ぎで返事がほしいわけじゃないから」
「ありがとうございます」
「前向きに考えてもらえると嬉しいよ」
「はい」
打ち合わせスペースを出ると、紡は静かに息を吐いた。
断ったわけではない。
ただ、考えたいと言っただけ。
それだけなのに、胸が少し速く鳴っていた。
でも、不思議と嫌な緊張ではなかった。
自分の時間を、自分の手に少し取り戻したような感覚があった。
何でもすぐに引き受けることが、ちゃんとしていることではない。
自分の本音を確認する時間を持つことも、きっと必要なのだ。
席に戻ると、美咲が小声で聞いた。
「何の話?」
「来期の役割の話」
「ああ、リーダー補佐みたいな?」
「たぶん、そんな感じ」
「紡なら向いてそうだけど」
美咲は自然に言った。
その言葉は嬉しかった。
でも、紡の中にまた小さな揺れが生まれる。
向いている。
できる。
期待されている。
だから進む。
それも一つの道だ。
けれど、向いていることと、本当に選びたいことは同じとは限らない。
紡はその言葉を、心の中でそっと持った。
退勤時間になっても、紡は少しだけ残業した。
週明けの作業を片付け、明日の準備をする。
オフィスの窓の外には、夕方の空が広がっていた。
薄い橙色が、ビルの隙間に滲んでいる。
以前なら、その空を見ても、ただ疲れたと思っていたかもしれない。
でも今は、少しだけ立ち止まりたくなった。
紡はパソコンを閉じ、窓の方へ目を向けた。
小田原の海とは違う。
市場の朝とも違う。
けれど、これはこれで今日の光だった。
会社の中にいる自分が見る、月曜日の夕方の光。
旅先で見たものだけが特別なのではない。
日常の中にも、ちゃんと見れば残したいものはあるのかもしれない。
紡はスマートフォンで写真を撮ろうとして、やめた。
今日は、見るだけにした。
写真にしなくても、心に残せるものがある。
そのまま少しのあいだ、空を見ていた。
帰り道、美咲と駅まで歩いた。
「写真、見せてよ」
美咲が言った。
紡は少し迷ってから、スマートフォンを開いた。
最初に見せたのは、海の写真ではなく、みかんの写真だった。
ビニール袋に入った小田原産のみかん。
商店街の床。
少しだけ差し込んだ朝の光。
美咲は画面を覗き込んで、少し笑った。
「みかん?」
「うん。商店街で買った」
「いいね。なんか、紡っぽい」
次に、干物定食の写真。
「おいしそう」
「おいしかった。お店の人が、『今日はいい干物だったから』って言ってくれて」
「そういう言葉、いいね」
美咲が何気なく言った。
紡は顔を上げた。
「うん。すごく残った」
次に、市場で買った揚げ物と海の写真を見せた。
紙袋が少し写っていて、背景には朝の海がある。
美咲はしばらくその写真を見ていた。
「これ、なんかいいね」
「ほんと?」
「うん。派手じゃないけど、ちゃんとそのときの空気がある感じ」
紡は胸が温かくなった。
派手じゃないけど、空気がある。
その言葉が嬉しかった。
「市場で会った人がね、味って残そうと思って残るものじゃなくて、誰かがおいしいって言って、また食べたいって思って、それで続いていくんだと思うって話してくれたの」
美咲は歩く足を少し緩めた。
「いい言葉だね」
「うん」
「紡、そういうの好きだよね」
「そうかも」
今度は、ちゃんとそう言えた。
そうかも。
自分はそういうものが好きなのだ。
人の言葉。
続いてきた味。
暮らしの中にある温度。
それを好きだと言えることが、少し嬉しかった。
駅に着くと、美咲が言った。
「また行くの?」
紡は少し考えた。
「うん。行きたい」
今度は、迷わず言えた。
「いいじゃん。次どこ行くの?」
「まだ決めてない。でも、また一泊くらいでどこか」
「楽しそう」
美咲はそう言って笑った。
その笑顔は、紡を急かさなかった。
比べもしなかった。
ただ、楽しそうと言ってくれた。
それだけで、紡は少し救われた。
帰宅すると、部屋は朝のままだった。
青いボストンバッグがまだ床にある。
紡はジャケットを脱ぎ、バッグの前にしゃがんだ。
片付ける。
今度は、そう思えた。
旅が終わるからではない。
次の旅のために、片付ける。
中身を一つずつ取り出す。
充電器。
折り畳み傘。
ポーチ。
使わなかった薬。
残ったみかん。
かまぼこ。
そして、深い青色のノート。
紡はノートをテーブルに置いた。
ボストンバッグを空にして、クローゼットの下段へしまう。
空っぽになったバッグを見て、寂しさはあまりなかった。
また使う。
そう思えたからだ。
夕飯は簡単に済ませた。
かまぼこを少し切り、味噌汁を温め、ごはんをよそう。
食卓に小田原のかまぼこがあるだけで、いつもの夕飯が少し違って見えた。
紡は食べながら、母へメッセージを送った。
『週末、小田原に行ってきたよ。かまぼこ買ったから、今度持って帰るね』
すぐに返事が来た。
『急に?ひとりで?』
その文字を見た瞬間、紡の胸が少し固くなった。
やっぱり、そう聞かれる。
『うん。一泊だけ。海を見て、市場に行ってきた』
母からの返信は少し間が空いた。
紡はその間、スマートフォンを見つめていた。
怒られるようなことではない。
でも、母に自分の行動を知られると、いつも少し緊張する。
やがて、返信が来た。
『いいじゃない。気分転換になった?』
紡はその文字を見て、ほっとした。
気分転換。
母の中では、たぶんそういうことになるのだろう。
娘が週末に一泊で小田原へ行った。
仕事の疲れを癒やすため。
気分転換のため。
それでいい。
今はそれでいい。
『うん。すごくよかった』
そう返す。
少し考えて、もう一文足した。
『市場で食べたものがおいしくて、話してくれた人の言葉がすごく残った』
送信したあと、紡は少しだけ緊張した。
母に、自分が何に惹かれているのかを少しだけ見せた気がした。
母からの返事は短かった。
『そういう出会いがあるのはいいね。今度聞かせて』
紡はその文章を見て、しばらく動けなかった。
今度聞かせて。
母がそう言った。
夢の全部ではない。
会社を辞めたい話でもない。
日本中を旅して発信したいという話でもない。
でも、小田原で出会った言葉なら、聞いてくれるかもしれない。
紡は胸の奥が温かくなるのを感じた。
一度に話さなくていい。
少しずつでいい。
旅先で受け取ったものを、一つずつ渡していけばいい。
夜、紡は青いノートを開いた。
今日のページに、たくさんのことを書いた。
会社に戻ったこと。
美咲に小田原の話をしたこと。
上司から来期の役割について話されたこと。
すぐに頷かず、少し考えたいと言えたこと。
母に小田原へ行ったと伝えられたこと。
どれも、海辺の町で受け取ったものとは違う場所で起きた出来事だった。
けれど、全部がどこかでつながっている気がした。
旅から帰ってきたから、少し言えた。
旅で人の言葉を受け取ったから、自分の言葉も少し外へ出せた。
知らない町で一人で歩けたから、会社の中でも少しだけ自分の歩幅を守れた。
紡はペンを止め、しばらく考えた。
そして、こう書いた。
「旅は、非日常へ逃げることではないのかもしれない。日常へ戻ったとき、自分の足元を少し違う目で見られるようになることなのかもしれない」
書いたあと、紡はページを見つめた。
小田原へ行く前の自分なら、こんなふうには書かなかったかもしれない。
旅は遠くへ行くことだと思っていた。
今いる場所から離れること。
会社や母や友人たちの視線から、少し自由になること。
それも間違いではない。
でも、それだけではなかった。
戻ってきた日常の中で、自分がどう変わっているかに気づくこと。
いつものおにぎりを、少し違う味として受け取れること。
会社の夕方の空を、今日の光として見ること。
母に少しだけ旅の話を送れること。
上司の期待に、すぐに自分を差し出さず、考える時間を持てること。
それらも、旅の続きなのだと思った。
紡は、昨日投稿した市場の写真をもう一度見た。
いいねは少し増えていた。
セリからも、いいねがついていた。
それを見た瞬間、紡の胸が静かに揺れた。
返信はない。
でも、読んでくれたのだと思った。
紡はセリに新しいメッセージを送ろうか迷った。
小田原へ行ってきました。
市場でこんな言葉を聞きました。
景色だけでなく、人の言葉を持ち帰りたいと気づきました。
書きたいことはたくさんあった。
でも今夜は、送らなかった。
すぐに誰かに報告するより、自分の中で少し寝かせたかった。
この気づきは、もう少し自分のものにしたい。
紡はスマートフォンを伏せ、ノートに戻った。
最後に、一行を書く。
「日常に戻っても、足音は消えなかった」
その言葉を見て、静かに息を吐く。
小田原で聞いた足音。
市場の床を歩く長靴の音。
商店街で止まった自分の足音。
海へ向かった道の音。
それらは、東京の部屋へ戻っても消えていなかった。
むしろ、いつもの日常の中で、前より少しはっきり聞こえる気がした。
灯りを消す前に、紡はクローゼットの下段を見た。
青いボストンバッグは、きちんとしまわれている。
でも、もう引き出しの奥に閉じ込められた夢ではない。
次に使う日を待っているバッグだった。
テーブルの上には、深い青色のノートがある。
今日もそこに、新しい言葉が増えた。
紡はベッドに入った。
明日も会社だ。
メールも来る。
会議もある。
真帆の相談にも乗るだろう。
来期の役割についても考えなければならない。
現実は、何も消えていない。
でも、紡の中には小田原の朝がある。
市場の女性の言葉がある。
海の光がある。
自分が景色だけでなく、人の言葉を持ち帰りたいのだと知った夜がある。
そのすべてを抱えて、また明日を始める。
紡は目を閉じた。
胸の奥に、小さな温かさが残っていた。
それはもう、旅先だけで感じるものではなかった。
会社へ向かう朝にも。
休憩スペースでおにぎりを食べる昼にも。
母にメッセージを送る夜にも。
小さく、確かに残っている。
紡はその温かさを感じながら、静かに眠りに落ちていった。




