第11章 市場のおばあちゃんが教えてくれた味
知らない町の朝は、音から始まった。
まだ目を開ける前に、紡はその音を聞いていた。
遠くで車が走る音。
廊下の向こうで、誰かの部屋のドアが閉まる音。
階下からかすかに聞こえる、人の話し声。
そして、窓の外から流れてくる、まだ眠たそうな街のざわめき。
東京の部屋で聞く朝とは違っていた。
電車の音や、急ぎ足の靴音や、スマートフォンの通知音に追われるような朝ではない。
もっと低くて、少し湿っていて、まだ完全には目覚めきっていない町の呼吸のような音だった。
紡はゆっくり目を開けた。
ホテルの天井が見えた。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れない白い天井。
薄いカーテン。
小さな机。
椅子にかけたカーディガン。
床に置いた青いボストンバッグ。
それらを見て、ようやく思い出す。
小田原にいる。
一泊二日のお試し旅。
その二日目の朝。
紡はベッドの中で、少しだけ息を止めた。
来たのだ。
本当に。
昨日、駅に降りて、商店街を歩き、みかんを買い、干物定食を食べ、海を見た。
そして今、知らない町のホテルで朝を迎えている。
それは大きなことではないのかもしれない。
けれど紡には、胸の奥を静かに満たすほど大きなことだった。
カーテンを少し開けると、外はまだ青みを帯びた朝だった。
夜が完全に去ったばかりの空。
建物の隙間に、淡い光が滲んでいる。
駅の近くの道には、もう何人か人が歩いていた。
仕事へ向かう人。
犬を連れて散歩する人。
自転車で通り過ぎる人。
観光客らしい姿は、まだほとんど見えない。
この時間の町は、訪れた人のためではなく、ここで暮らす人のために動き出している。
紡はそのことに、少し胸を打たれた。
昨日、セリの投稿で読んだ言葉を思い出す。
旅人である自分が、この町の一日を少しだけ分けてもらっている。
本当に、そうだと思った。
紡は顔を洗い、髪を整えた。
歩きやすい服に着替え、薄手の上着を羽織る。
青いノートをバッグに入れ、スマートフォンの充電を確認する。
昨日買った青い歯ブラシケースが洗面台の横に置いてあった。
それを見て、少し笑った。
本当に些細なものなのに、旅の朝にはちゃんと意味を持って見える。
部屋を出る前、紡は小さな机の上に置いたノートを開いた。
昨日の最後に書いた言葉が目に入る。
私のカメラは、今日、波の小さな光を見つけた。
その下に、今日の日付を書いた。
そして一行だけ、書き足す。
「朝の市場へ行く」
たったそれだけで、胸が少し高鳴った。
ホテルを出ると、空気はひんやりしていた。
昨日の昼間とは違う町だった。
同じ道なのに、光が違うだけでまるで別の場所に見える。
店のシャッターはまだ閉まっているところが多い。
歩道には、夜の間に落ちた葉が少し残っている。
コンビニの明かりだけが、妙に白く見える。
遠くから、トラックのエンジン音が聞こえてくる。
紡は地図アプリを開き、市場の方角を確認した。
朝の市場。
昨日、何度も調べた場所。
でも、画面の地図の上で見ていた場所と、実際に朝の道を歩いて向かう場所は、まったく違っていた。
まだ完全には目覚めていない町を、一人で歩く。
それだけで、昨日より少し旅人になった気がした。
駅前を通り過ぎると、少しずつ潮の匂いが近づいてきた。
昨日、海へ向かったときにも感じた匂い。
けれど朝の潮の匂いは、もっと冷たく、鋭かった。
道の先に、いくつかのトラックが見える。
人の声も聞こえ始めた。
紡の足が自然と速くなる。
市場に近づくにつれて、空気の密度が変わった。
魚の匂い。
濡れた床の匂い。
氷の匂い。
潮の匂い。
人の声。
箱を運ぶ音。
水が流れる音。
それらが混ざり合って、町の朝そのもののように紡へ届いた。
市場は、もう動いていた。
観光客向けに整えられた明るい場所というより、働く人たちの時間がそのまま流れている場所だった。
発泡スチロールの箱が積まれている。
長靴を履いた人が通り過ぎる。
店先には魚が並び、氷の上で光っている。
店の奥から、威勢のいい声が飛ぶ。
どこかで、包丁の音がする。
紡は入口のあたりで立ち止まった。
圧倒された。
昨日の商店街とは、また違う。
ここには、朝の勢いがある。
暮らしのために動いている人たちの、迷いのない手の動きがある。
紡は、邪魔にならないように端を歩いた。
写真を撮りたい。
でも、すぐには撮れなかった。
働いている人の場所に、自分がいきなりカメラを向けることが失礼な気がした。
ここは、自分のために用意された景色ではない。
セリの言葉が、また胸の奥で響いた。
ここには、私のために用意されたものは何もない。
だからこそ、そっと立っていたいと思う。
紡はスマートフォンをバッグにしまい、まず目で見ることにした。
魚の名前が書かれた札。
氷の上に並ぶ鯵。
銀色に光る太刀魚。
丸々とした干物。
店の人の濡れた手。
秤の上に置かれる魚。
客と店主の短いやり取り。
「今日はこれがいいよ」
「じゃあ、それ二つ」
「焼くだけでうまいから」
「昨日のより大きいね」
「今朝のはいいよ」
昨日の食堂でも聞いた言葉。
今日はいい干物。
今朝のはいい。
その日、その朝、その魚。
食べものには、日付があるのだと思った。
スーパーで買うパックの魚にも日付はある。
けれどここで聞く「今朝」は、もっと生きている言葉だった。
水の匂いと、人の手と、声の中にある「今朝」。
紡はノートを取り出した。
市場の端に立ち、邪魔にならないようにページを開く。
「食べものには、日付がある」
そう書いた。
続けて、
「市場の『今朝』は、紙に印字された日付よりも生きている」
書いた瞬間、胸が少し震えた。
自分の言葉として、これは残したいと思った。
しばらく歩いていると、小さな店先に人だかりができていた。
魚の切り身や干物だけでなく、惣菜のようなものも並んでいる。
煮魚。
小さな揚げ物。
佃煮。
そして、丸い形をした何かが竹ざるの上に置かれていた。
紡はそれを見つめた。
「それ、気になる?」
声をかけられて、紡は少し驚いた。
店先にいた年配の女性だった。
白いエプロンをして、頭に三角巾を巻いている。
顔には深い皺があるけれど、目がとても明るかった。
「あ、はい。これは何ですか?」
紡が尋ねると、女性は嬉しそうに笑った。
「魚のすり身を丸めて揚げたやつ。うちでは昔から作ってるの」
「さつま揚げみたいなものですか?」
「まあ、そんな感じ。でも家によって味が違うのよ。うちは生姜を少し入れるの」
女性はそう言って、竹ざるの上の揚げ物を一つ、紙にのせてくれた。
「食べてみる?」
「え、いいんですか?」
「いいよ。熱くないけど、まだ朝作ったやつだから」
朝作ったやつ。
その言葉に、紡の心がまた動いた。
「ありがとうございます」
紡は受け取った。
小さく丸い揚げ物は、手のひらに乗るくらいの大きさだった。
表面はきつね色で、少しごつごつしている。
見た目は地味だった。
けれど、近づけると魚の香りと生姜の匂いがふわりとした。
紡は一口かじった。
やわらかい。
魚の旨みがあり、生姜の香りが後から少しだけ広がる。
甘すぎず、塩辛すぎず、朝の体にすっと入ってくる味だった。
「おいしいです」
思わず、そう言った。
女性は嬉しそうに笑った。
「そう?よかった」
「生姜が、すごくいいですね」
「昔はね、魚の匂いを消すために入れてたんだけど、今はこれがないと物足りないって言われるのよ」
女性は手を動かしながら話してくれた。
「おばあちゃんの代から?」
紡が聞くと、女性は少し首を傾げた。
「どうだろうね。私が子どもの頃にはもう食べてたからねえ。家で余った魚をすり身にして、野菜ちょっと混ぜて、丸めて揚げるの。今みたいに何でも買える時代じゃなかったから、残さず食べる工夫だったんだと思うよ」
残さず食べる工夫。
その言葉が、紡の中に静かに沈んだ。
料理は、最初から名物だったわけではない。
誰かの暮らしの中で、必要から生まれたもの。
魚を無駄にしないため。
家族に食べさせるため。
匂いをやわらげるため。
少しでもおいしくするため。
そういう日々の知恵が、時間を重ねて味になっていく。
「今も、家で作るんですか?」
紡が聞くと、女性は笑った。
「私はもう店で作るだけ。でもね、うちの娘はあんまり作らないね。面倒くさいって」
「ああ......」
「わかるよ。今は忙しいもの。揚げ物なんて家でやるの大変だし。だから、こうして店で少しだけ作ってるの。たまに若い人が買っていくと嬉しいね」
女性は、少し遠くを見るような目をした。
「味って、残そうと思って残るものじゃないのかもしれないね。誰かが『おいしい』って言って、また食べたいって思って、それでやっと続いていくんだと思う」
紡は何も言えなかった。
その言葉が、深く胸に入ってきたからだ。
味は、残そうと思って残るものではない。
誰かが、おいしいと言う。
また食べたいと思う。
それで続いていく。
それは料理の話だけではないように思えた。
町も、言葉も、記憶も、人の暮らしも。
大切だと叫ぶだけでは、きっと続かない。
誰かが見つけて、受け取って、また思い出す。
その小さな繰り返しで、残っていくものがある。
紡は、もう一つ買うことにした。
「これ、二つください」
「はいよ。朝ごはん?」
「はい。あとで、海を見ながら食べようかなって」
「いいねえ。海の近くで食べると、何でもおいしいよ」
女性は紙袋に揚げ物を入れてくれた。
「どこから来たの?」
「東京です」
「ひとり?」
「はい。一泊で」
「いいじゃない。ひとりで歩くと、自分の好きなものがわかるからね」
紡は、その言葉に顔を上げた。
自分の好きなものがわかる。
まるで、この旅の目的を言い当てられたようだった。
「そうですね」
紡は静かに頷いた。
「まだ、探しているところです」
女性は、紡の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「探してるうちは、いろいろ見えるよ」
その言い方が、とても自然だった。
励ますでもなく、深刻に受け止めるでもなく、ただ朝の会話の一つとして差し出された言葉。
けれど紡には、その言葉が長く残りそうな気がした。
探しているうちは、いろいろ見える。
紡は紙袋を受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「はい、気をつけてね」
市場を出る頃、空は少し明るくなっていた。
朝の光が、建物の端やトラックの屋根に当たり始めている。
紡は紙袋を手に、海の方へ歩いた。
昨日と同じ海へ向かう道。
でも、朝の海はきっと違う。
歩きながら、手の中の紙袋からほんのり温かさが伝わってきた。
揚げたてではないけれど、まだ少し温度が残っている。
その温度が、さっきの女性の手から渡されたもののように思えた。
海に着くと、昨日よりも風が冷たかった。
空は淡い青に変わり始めている。
波は静かで、砂浜の上に朝の光が薄く伸びていた。
紡は少し離れた場所に腰を下ろした。
紙袋を開ける。
魚のすり身を丸めて揚げたもの。
名前を聞きそびれてしまったことに、今さら気づいた。
でも、それも少しよかった。
名物の名前として覚える前に、味として覚える。
おばあちゃんの代からあったかもしれない味。
残さず食べる工夫から生まれた味。
生姜が少し入った味。
若い人が買っていくと嬉しい、と言われた味。
紡はひとつを手に取り、海を見ながら食べた。
朝の風の中で食べると、市場で味見したときより少し塩気を感じた。
海の匂いのせいかもしれない。
冷たい空気のせいかもしれない。
それとも、自分の心が少し静かになったからかもしれない。
おいしい。
紡は小さく呟いた。
誰に聞かせるわけでもない。
でも、言葉にしたかった。
おいしいものを食べたとき、誰かに伝えたくなる。
それが、味を続かせる最初の小さな力なのかもしれない。
紡はスマートフォンを取り出し、紙袋と海を一緒に写した。
派手な写真にはならなかった。
紙袋は少し皺が寄っている。
揚げ物は茶色くて、見た目は地味だ。
背景の海も、鮮やかな青ではない。
でも、そこには今朝の時間があった。
市場の声。
女性の言葉。
紙袋の温度。
海の風。
朝の匂い。
紡は、その写真を見て、胸の中が静かに満たされていくのを感じた。
青いノートを開く。
風でページがめくれないように、膝で押さえる。
そして、さっき聞いた言葉をひとつずつ書いた。
「残さず食べる工夫だったんだと思うよ」
「味って、残そうと思って残るものじゃないのかもしれないね」
「誰かが『おいしい』って言って、また食べたいって思って、それでやっと続いていく」
「ひとりで歩くと、自分の好きなものがわかるからね」
「探してるうちは、いろいろ見えるよ」
書き終えると、ノートのページが言葉で少し重くなったように見えた。
海で見つけた小さな光とは、また違うものが胸に残っていた。
今朝は、人の声がノートの中にいくつも残っている。
紡はペンを持ったまま、海を見つめた。
自分は、こういうものを書きたいのだと思った。
料理名だけではなく。
店の情報だけではなく。
何時から何時まで営業しているかだけではなく。
そこにいる人の言葉。
その味が生まれた理由。
続いてきた時間。
食べたときに、自分の中で何が動いたのか。
そういうものを書きたい。
紡は、胸の奥にゆっくり広がる確信に気づいた。
昨日までは、まだ少し怖かった。
本当に自分は旅をしたいのか。
何かを感じられるのか。
書きたいものがあるのか。
夢はただの憧れではないのか。
でも今、海の前で紙袋を膝に置き、女性の言葉を書き留めている自分は、確かに感じていた。
書きたい。
ただ写真を撮るだけではなく、書きたい。
誰かが守ってきた味を、言葉にしたい。
見過ごされそうな暮らしの中にある温度を、できるだけ丁寧に残したい。
その気持ちは、思っていたよりも静かで、思っていたよりも強かった。
紡は、残りの一つをゆっくり食べた。
食べ終えるのが少し惜しかった。
けれど、味は消えても、言葉は残せる。
そう思うと、少し救われた。
海から戻る途中、紡は市場の方をもう一度振り返った。
朝の活気は少し落ち着き、人の流れも変わってきている。
同じ場所でも、時間が変われば顔が変わる。
もし少し遅く来ていたら、さっきの女性に出会えなかったかもしれない。
あの揚げ物を食べなかったかもしれない。
あの言葉を聞けなかったかもしれない。
旅は、偶然でできている。
でも、その偶然に気づくには、自分の足でそこに立つ必要がある。
紡はそう思った。
ホテルへ戻る道で、小さな神社を見つけた。
昨日は気づかなかった場所だった。
細い道の奥に、赤い鳥居が立っている。
観光客が立ち寄るような目立つ場所ではない。
でも、鳥居の下にはきれいに掃かれた跡があり、小さな花が供えられていた。
紡は足を止めた。
さっきの市場の言葉を思い出す。
誰かが「おいしい」と言って、また食べたいと思って、それで味が続いていく。
この神社も、誰かが掃き、花を替え、手を合わせるから続いているのだろう。
続くものには、いつも誰かの手がある。
紡は静かに手を合わせた。
何を願うのか、すぐにはわからなかった。
旅がうまくいきますように。
夢が叶いますように。
会社を辞める勇気が出ますように。
いくつかの願いが浮かんだけれど、どれも少し違う気がした。
最後に、紡は心の中でこう言った。
ちゃんと見られますように。
それだけだった。
目の前にあるものを、急いで通り過ぎずに。
誰かの暮らしを、雑に扱わずに。
自分の心の動きも、なかったことにせずに。
ちゃんと見られますように。
手を下ろすと、胸が少しだけ軽くなっていた。
ホテルへ戻り、チェックアウトの準備をした。
部屋に戻ると、昨日より少し自分の匂いがしている気がした。
ベッドの上には、たたんだ寝間着。
机の上には、書きかけのノート。
小さなゴミ箱には、昨日買った飲み物の空き容器。
窓際には、朝の光。
たった一泊しただけなのに、この部屋にも少しだけ自分の時間が残ったように思える。
紡は荷物をバッグに詰めた。
青いノートは、最後に入れる。
昨日より、少しだけ厚みを増した気がした。
もちろん、紙の枚数が増えたわけではない。
でも、そこには波の光と、市場の声と、女性の言葉が入っている。
紡には、それが確かに重みとして感じられた。
チェックアウトを済ませ、ホテルを出る。
駅へ向かうには少し早かった。
紡は、もう一度商店街を歩くことにした。
昨日みかんを買った八百屋の前を通ると、同じ女性が店先を整えていた。
紡に気づいたのか、女性が顔を上げる。
「あら、昨日の」
「昨日はありがとうございました。みかん、おいしかったです」
紡がそう言うと、女性は笑った。
「よかった。もう帰るの?」
「はい。昼過ぎには」
「またおいで」
またおいで。
その言葉が、紡の胸に小さく灯った。
観光地の別れの挨拶かもしれない。
誰にでも言う言葉かもしれない。
でも、紡にはそれが嬉しかった。
また来てもいいのだと思えた。
この町に、たった一泊しただけの自分にも。
「はい。また来ます」
紡はそう答えた。
その言葉が、自然に口から出たことに、自分で少し驚いた。
また来ます。
本当に、また来たいと思っていた。
昨日まで小田原は、最初のお試し旅の候補地だった。
今はもう、みかんを買った店があり、干物を食べた食堂があり、市場で出会った女性がいて、波の光を見た海がある町になっている。
地名が、記憶になった。
紡はそのことに、静かに胸を打たれた。
昼前、紡は駅近くの小さな喫茶店に入った。
電車まで少し時間があった。
店内には、古い木のテーブルと、少し低めの椅子が並んでいた。
観光客よりも、地元の人が多いようだった。
新聞を読む男性。
買い物袋を足元に置いた女性。
カウンターで店主と話す常連らしい人。
紡は窓際の席に座り、コーヒーを注文した。
バッグから青いノートを取り出す。
この旅の最後に、何か書きたかった。
コーヒーが運ばれてくるまで、紡は窓の外を見ていた。
駅へ向かう人たち。
お土産の袋を持つ観光客。
自転車で通り過ぎる学生。
昨日と今日の自分も、あの道を歩いた。
もうすぐ、この町を離れる。
そう思うと、少し寂しかった。
たった一泊なのに。
まだ知らない道もたくさんある。
入らなかった店もある。
見なかった景色もある。
聞けなかった話もある。
けれど、全部を見られなかったことが、今は不思議と残念すぎるわけではなかった。
全部を見なかったから、また来たいと思える。
旅は、終わらせるために来るものではないのかもしれない。
続きを残して帰るものなのかもしれない。
コーヒーが運ばれてきた。
カップから湯気が立つ。
紡は一口飲んだ。
少し苦くて、温かかった。
ノートを開く。
そして、ゆっくり書き始めた。
「小田原で、私はたくさんの有名なものを見たわけではない。けれど、みかんを買った。干物を食べた。海を見た。市場で魚のすり身を揚げたものを食べた。小さな神社で手を合わせた。喫茶店でコーヒーを飲んでいる」
そこまで書いて、手を止める。
何かが足りない気がした。
紡は、さらに続けた。
「旅は、何を見たかだけではなく、誰の言葉が残ったかで覚えていくのかもしれない」
市場の女性の言葉。
八百屋の女性の「またおいで」。
食堂の女性の「今日はいい干物だったから」。
それらは、写真には写らない。
でも、紡の中にははっきり残っている。
紡はノートに、今日の一番大切な気づきを書いた。
「私は、景色だけではなく、人の言葉を持ち帰りたい」
書いた瞬間、胸が静かに震えた。
これだと思った。
自分が発信したいもの。
土地の歴史。
文化。
食。
暮らし。
その中心には、いつも人の言葉がある。
教科書に載るような歴史だけではなく、誰かが「昔からこうだった」と話す言葉。
料理名だけではなく、「残さず食べる工夫だった」と教えてくれる言葉。
観光案内には載らない小さな場所を、「またおいで」と開いてくれる言葉。
それを、持ち帰りたい。
そして、誰かに届けたい。
紡はペンを置き、ノートのページを見つめた。
この旅に来る前、怖かった。
何も感じなかったらどうしようと思っていた。
けれど今は、感じすぎて、どう書けばいいのかわからないくらいだった。
でも、それでいい。
すぐに完璧な文章にしなくていい。
持ち帰って、何度も読み返して、ゆっくり言葉にすればいい。
紡は、スマートフォンを取り出した。
「足音を聴く」の投稿画面を開く。
今朝撮った紙袋と海の写真を選んだ。
文章は、すぐには出てこなかった。
でも、少し待つと、心の奥からゆっくり言葉が上がってきた。
「朝の市場で、魚のすり身を丸めて揚げたものを食べた。名前を聞きそびれてしまったけれど、生姜の香りがして、海のそばで食べると少しだけ塩気が増した気がした。店の方が『味って、残そうと思って残るものじゃないのかもしれないね。誰かが、おいしいって言って、また食べたいって思って、それでやっと続いていくんだと思う』と話してくれた。私は今日、景色だけではなく、人の言葉を持ち帰りたいのだと気づいた」
読み返す。
少し長い。
でも、削りたくなかった。
この言葉は、今朝の自分が受け取ったものだから。
紡は投稿した。
画面に表示された写真と文章を見て、胸の奥が温かくなった。
これが、旅の記録なのだと思った。
誰かに評価されるかどうかは、まだわからない。
たくさん見られるかどうかもわからない。
でも、紡は確かに残した。
あの女性の言葉を、今日の自分の言葉として。
喫茶店を出る頃には、昼に近づいていた。
紡は駅へ向かった。
お土産物店の前を通り、少し迷って、かまぼこを一つ買った。
昨日、店先で見たときに思ったことを思い出す。
食べものは、場所を持ち帰る方法でもあるのかもしれない。
母に送ろうか。
そう思った。
母にはまだ、この旅の本当の意味を話していない。
ただ週末に小田原へ行った、とだけ言えばいい。
それでも、かまぼこを渡すとき、この町のことを少し話せるかもしれない。
市場のこと。
海のこと。
みかんのこと。
干物のこと。
夢の全部は話せなくても、旅先で見たものを一つずつ話すことはできる。
それも、いつか本当の話へ近づくための小さな準備なのかもしれない。
駅の改札前で、紡は一度振り返った。
小田原の駅前。
昨日の朝、初めて立った場所。
今は、ほんの少しだけ見え方が違う。
知らない町ではなくなっていた。
もちろん、知っていると言えるほどではない。
たった一泊しただけだ。
でも、完全な他人ではなくなった気がした。
町の方から名乗ってくれたのではなく、紡が少しだけ耳を澄ませた。
そのぶんだけ、町が近づいてくれた。
紡は改札を通った。
ホームへ上がる。
帰りの電車が来るまで、少し時間があった。
ベンチに座り、青いボストンバッグを足元に置く。
バッグは、来たときより少し重く感じた。
かまぼこが入っている。
みかんの残りも入っている。
使った服も入っている。
でも、それだけではない。
市場の朝。
女性の言葉。
波の光。
食堂の湯気。
神社の静けさ。
喫茶店のコーヒー。
それらを全部、持ち帰るような重さだった。
電車がホームに入ってきた。
紡は立ち上がった。
ドアが開く。
乗り込んで、窓際の席に座る。
電車が動き出す。
小田原のホームが少しずつ後ろへ流れていく。
紡は窓の外を見た。
町が遠ざかる。
けれど、不思議と置いていく気がしなかった。
持ち帰っている。
そう思った。
青いノートを開く。
揺れる車内で、最後に一行だけ書いた。
「私は、小田原を少しだけ持ち帰っている」
書いた文字は、電車の揺れで少し曲がった。
でも、それもこの旅の文字だと思った。
紡はノートを閉じ、窓の外を見つめた。
来たときと同じ線路を戻っている。
でも、同じ自分ではない。
会社を辞めたわけではない。
人生が劇的に変わったわけでもない。
夢が叶ったわけでもない。
それでも、紡の中には確かに増えたものがあった。
一人で知らない町へ行けたこと。
人に話しかけられたこと。
市場の言葉を書き留めたこと。
自分の写真と言葉で投稿できたこと。
そして、自分が景色だけではなく、人の言葉を持ち帰りたいのだと気づいたこと。
それらは、小さな出来事だった。
でも、紡の足元を少しだけ強くしてくれる出来事だった。
胸の奥で、足音がする。
帰り道の足音。
来るときよりも、少し落ち着いた音だった。
遠くへ急ぐ音ではない。
何かを確かめて、もう一度日常へ戻っていく音。
紡は、窓に映る自分の顔を見た。
少し疲れている。
でも、目の奥に昨日までとは違う光がある気がした。
旅は、行って終わりではない。
持ち帰ってから、もう一度始まる。
その予感を抱えながら、紡は東京へ向かう電車に揺られていた。




