第2章 第3話「声の位置」
その夜は、すぐに眠れなかった。
昼間のことが、頭の奥に引っかかったまま離れない。
――こ。
あの一音だけが、やけに鮮明に残っている。
呼ばれた気がした。
そう思った瞬間に、
“自分の名前ではない”とわかった。
その感覚が、妙に気持ち悪い。
じゃあ、誰の名前だったのか。
そこまで考えようとすると、また同じところで止まる。
思考が、そこで切れる。
それ以上先に進めない。
俺は天井を見上げたまま、目を閉じた。
暗闇の中で、音だけが残る。
呼吸の音。
わずかな衣擦れ。
――それと、
もう一つ。
自分のものじゃない“間”が、混じっている。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
だが、
聞こえていないはずのものが、
どこかで鳴っている。
そんな確信だけがある。
――呼ばれた。
その感覚をなぞる。
今度は、少し違う。
呼ばれた、ではなく、
“呼んでいる”。
そんな向きに、わずかに傾く。
俺は目を開けた。
暗闇は変わらない。
だが、
部屋の奥の距離が、わずかにずれている。
本来あるはずの壁が、
ほんの少しだけ遠い。
その分だけ、
余白が増えている。
俺はゆっくりと体を起こした。
音を立てないように。
理由はない。
ただ、
音を立てると“気づかれる”気がした。
足を床に下ろす。
冷たい。
その感触だけが、現実に触れている。
一歩、踏み出す。
床が軋む。
その音に、
わずかに遅れて、
もう一つ、同じ音が重なった。
――後ろから。
俺は止まる。
振り返らない。
振り返ったら、
“そっち側になる”気がした。
耳を澄ます。
静かだ。
だが、
さっき確かに、
“もう一歩”があった。
そのとき、
名前が浮かんだ。
――こ。
そこまでは同じ。
だが、違う。
続きがある。
曖昧な形。
“う”にも、“じ”にも見える。
確定しない。
それでも、
確実に“そこにある”。
俺は無意識に口を開いた。
「……こ」
その瞬間、
喉の奥が強く締まった。
息が詰まる。
内側から、掴まれる。
俺は反射的に喉を押さえた。
触れているのは自分の皮膚だけ。
それなのに、
確かに“指”が重なっている。
「……っ」
声が出ない。
空気だけが漏れる。
その状態で、
はっきりと理解する。
今、自分は――
“前を見ている”。
何かを。
そこに“いる前提”で、立っている。
視界には何もない。
暗闇だけ。
それでも、
そこに“いる”。
わかってしまう。
俺はゆっくりと視線を上げた。
何もない空間。
その中に、
“輪郭”だけがある。
光も影もないのに、
そこだけが形を持っている。
歪な存在。
それが、
こちらを見ている。
目はない。
顔も曖昧だ。
それでも、
視線だけが先にある。
――見られている。
その認識の直後、
違和感が反転した。
いや、
違う。
“見ている”。
そっちだ。
俺の視線の位置が、
一瞬だけ、
そこに“重なった”。
その瞬間、
喉の圧迫が消えた。
空気が一気に流れ込む。
同時に、
輪郭が消える。
最初から何もなかったみたいに。
俺はその場に立ち尽くした。
呼吸だけがやけに大きい。
手はまだ喉にある。
何も残っていない。
それなのに、
“触れていた側の感覚”だけが残っている。
俺は一歩、後ろに下がる。
そのとき、
はっきりと理解した。
さっきのは、
“呼ばれた”んじゃない。
違う。
あれは――
“呼ぶ側の位置”だった。
その認識が浮かんだ瞬間、
頭の奥で、強く音がした。
軋む。
何かが、無理にずらされる音。
思考が止まる。
それ以上先に進めない。
進もうとすると、
同じ場所で弾かれる。
俺は考えるのをやめた。
やめるしかなかった。
これ以上進めば、
何かが決定的に壊れる。
そうわかったからだ。
布団に戻る。
横になる。
目を閉じる。
だが、
さっきの感覚は消えない。
喉の奥。
目の前にあった輪郭。
そして、
“自分が呼んでいた”という認識。
それらが混ざったまま、残っている。
意識が沈んでいく。
その直前、
今度は、はっきりと聞こえた。
小さな声。
曖昧な音。
だが、
これはもう、わかる。
その声は――
“自分の喉から出ている音じゃない”。
それなのに、
間違いなく、
“自分が出している声”だった。




