第2章 第2話「呼ばれた音」
物置から戻ったあとも、喉の奥の引っかかりは消えなかった。
何かを言いかけて、途中で止まったときの感覚。
あの一音だけが、妙に残っている。
――こ。
それだけ。
それだけなのに、やけに重い。
続きを思い出そうとすると、頭の奥がざわつく。
考えるな、と押し戻されるような感覚。
それでも、意識はそこに引っ張られる。
名前。
たぶん、名前だった。
あの“もう一人”の。
俺は居間の床に座ったまま、しばらく動かなかった。
向かいで、修二がスマートフォンを見ている。
いつもと同じ光景のはずなのに、どこかだけが噛み合っていない。
そのズレが、はっきりと自覚できるようになってきていた。
「なあ」
自然と声が出た。
修二が顔を上げる。
「ん?」
「俺たち、あいつのこと、なんて呼んでた」
言った瞬間、空気がわずかに沈んだ気がした。
修二はすぐに答えなかった。
考えている、というより、
言葉を探しているような間。
「……呼び方、か」
「ああ。名前じゃなくていい」
名前は出ない。
それはもうわかっている。
だから、別のところから辿るしかない。
あだ名でも、呼び捨てでも、なんでもいい。
何か一つ引っかかれば、そこから繋がる気がした。
修二は視線を落とした。
指先で、スマートフォンの縁をなぞっている。
その動きが、妙に遅い。
「……呼んでたか?」
「呼ぶだろ、普通」
「いや、そうだけど……」
言葉が途切れる。
昨日と同じやり取り。
だが、どこかが違う。
“思い出せない”というより、
“触れたくない”ような、
そんな躊躇いが混じっている気がした。
「下の名前とか」
俺は言った。
「それか、あだ名」
「……あだ名、な」
修二が小さく繰り返す。
その声に、わずかな引っかかりがあった。
「何か思い出したか」
「いや……」
首を振る。
だが、その動きは曖昧だった。
本当に何もないのか、それとも――
「お前は」
修二が逆に聞いてきた。
「何かあるのか」
「……さっき」
言いかけて、止まる。
“こ”の続き。
あれを言おうとした瞬間の感覚が蘇る。
喉の奥に、何かが詰まる。
同じところで、止まる。
「……何でもない」
結局、それしか出てこなかった。
修二はそれ以上聞かなかった。
ただ一瞬だけこちらを見て、
すぐに視線を外す。
その反応が、妙に気にかかった。
聞いてはいけないことを聞いたような、
そんな感覚が残る。
俺は視線を落とした。
床の木目が、やけにくっきり見える。
その中に、線が浮かび上がっている気がした。
意味のないはずの線が、
文字みたいに見える。
読めそうで、読めない。
見ていると、頭の奥がざわつく。
俺は視線を逸らした。
「……書くか」
「は?」
「呼び方」
紙とペンを手に取る。
昨日と同じだと思った。
それでも、やらずにはいられない。
今度は名前じゃない。
もっと軽いもの。
呼び方なら、出てくるかもしれない。
そう思った。
白い紙に、ペン先を落とす。
わずかに手が震える。
息を吸って、
ゆっくりと、線を引く。
一画目。
今度は止まらない。
二画目、三画目。
何かを書いている感覚はある。
だが、
それが何なのか、わからない。
視界の中で、線が歪む。
まっすぐ引いているはずなのに、
途中で形が崩れていく。
まるで、文字になることを拒まれているみたいに。
「……っ」
思わず力が入る。
その瞬間、
び、と紙が裂ける音がした。
ペン先が引っかかった。
俺は手を止める。
紙を見る。
線が残っている。
だが、それは文字じゃない。
意味を持たない、ただの傷。
読めない。
どう見ても、読めない。
それなのに――
一瞬だけ、
“読めた”。
「……今、何書いた」
修二の声。
「……わからない」
本当にわからない。
書いている間は、何かをなぞっていた。
だが、今は思い出せない。
最初から意味なんてなかったみたいに。
俺はペンを置いた。
指先に、違和感が残っている。
紙じゃない、もっと柔らかいものに触れていたような――
そんな感覚。
「……やめとけ」
修二が低く言う。
「無理にやると、余計わからなくなる」
「……そうか」
反論はできなかった。
実際、わからなくなっている。
手を伸ばせば届きそうだったものが、
一気に遠ざかっている。
その距離だけが、やけに現実的だった。
俺は紙を裏返した。
線が見えなくなる。
それだけで、少し楽になる。
見ていると、また何かが浮かび上がりそうだった。
沈黙。
時計の音だけが響く。
そのとき、
不意に、修二が口を開いた。
「……おい」
「ん?」
「今、お前――」
そこで言葉が止まる。
修二が眉を寄せる。
「……何でもない」
「何だよ」
「いや……」
修二は首を振った。
だが、その視線は少しだけこちらに残っている。
「今、一瞬だけ」
言いかけて、やめる。
代わりに、小さく息を吐いた。
「……気のせいだ」
それ以上は続かなかった。
俺は何も言えなかった。
今の間が、妙に引っかかった。
“何かを言いかけた”感覚だけが残る。
俺は紙に目をやった。
裏返したはずなのに、
その下に、
何かが残っている気がする。
見えないはずのものが、
そこに“形”だけあるような。
――こ。
その一音だけが、鮮明に浮かぶ。
続きは出てこない。
出そうとすると、同じところで止まる。
まるで、
そこから先に進むことを禁じられているみたいに。
俺は目を閉じた。
その瞬間、
はっきりと、
呼ばれた気がした。
声ではない。
音ですらない。
それでも、
確かに“呼ばれた”。
目を開ける。
何もない。
修二は、さっきと同じ場所にいる。
部屋も変わっていない。
それなのに、
胸の奥だけが、ざわついている。
呼ばれた。
そう思った瞬間、
なぜか、
それが
“自分の名前ではない”と、はっきりわかった。




