第11章 第1話「その後」
気づいたときには、奥の部屋の襖は閉まっていた。
開けたはずだった。
確かに、そこに“何か”がいた。
だが今は、何もない。
段ボールも、新聞紙も、いつも通りの配置に戻っている。
まるで、さっきの出来事だけが抜け落ちたみたいに。
「……戻ったな」
修二が言う。
その声は落ち着いている。
いや、落ち着いているというより、“慣れている”。
「今の、見たよな」
「見た」
即答。
だが、その言い方には温度がない。
事実だけを残している。
「じゃあ説明しろよ」
声が少し荒くなる。
「今の、何だったんだ」
「前のお前」
またその言葉。
頭の奥で、何かが軋む。
「それ、何回目だよ」
「さあな」
修二は視線を外す。
「数えてない」
「ふざけてるのか」
「ふざけてない」
短い沈黙。
部屋の中に、“あるはずのものがない感覚”だけが残る。
「……俺は」
言葉が繋がらない。
自分のことなのに、形にならない。
「俺は、どうなってる」
修二は少しだけ考える素振りをして、言う。
「ずれてる」
「どこが」
「全部」
息が詰まる。
「全部って何だよ」
「記憶、時間、位置」
「意味がわからない」
「わかる必要ない」
その返しが、やけに冷たい。
俺は奥の部屋を見る。
襖は閉じている。
だが、“いない”とは思えない。
むしろ、さっきよりも気配だけが濃い。
「なあ」
「何だ」
「さっきのやつ、俺だったって言ったよな」
「ああ」
「でも、顔見えなかった」
「見えない方が正しい」
「どういう意味だ」
修二は少し間を置く。
「今のお前が、“上書きしてる途中”だからだ」
背中が冷える。
「上書き?」
「過去のお前が残ってる」
「それ、さっきも聞いた」
「ああ」
「じゃあ今の俺は何なんだよ」
修二は答えない。
ただ、静かに言う。
「まだ途中」
その瞬間、
廊下の電球が一瞬だけ揺れた。
音はない。
光だけがズレる。
それだけで、現実が崩れかける。
「……もうやめよう」
修二が言う。
「何を」
「掘るの」
「掘るって何をだよ」
「名前とか、写真とか」
その単語で、胸がざわつく。
「それをやめたら何が残るんだ」
修二は少し目を伏せる。
「今のまま」
その答えが、一番怖い。
安定じゃない。
固定でもない。
ただ、“止まる”。
「それは嫌だ」
思わず言う。
「何が嫌なんだ」
「わからないまま終わるのが」
修二は一瞬だけ黙る。
そして言う。
「終わってない」
「は?」
「ずっと途中だ」
その言葉が、遅れて落ちてくる。
終わっていない、じゃない。
“終わりがない”。
そのとき、玄関の方から音がした。
ぎ、と。
扉が開く音。
二人同時に振り返る。
だが、誰もいない。
風でもない。
それでも、確かに開いた。
「……またか」
修二の声に、わずかな疲れが混じる。
「これ、何なんだよ」
修二は少しだけ間を置いて言う。
「戻ってきてる」
「何が」
「お前」
頭が一瞬だけ空白になる。
戻る?
さっきも聞いた気がする。
だが、その“さっき”が曖昧だ。
いつのものか、わからない。
「お前は何回もここに来てる」
「それも聞いた」
「でも覚えてない」
「……覚えてる」
言い切る。
だが、自信はない。
「どこまで」
答えられない。
記憶が繋がっていない。
それでも、“全部ある気がする”だけが残る。
そのとき、頭の奥で音がする。
小さく。
だが確かに。
呼ばれている。
名前。
だが、もう形はない。
“呼ばれた痕跡”だけが残る。
「そろそろ気づけ」
修二が言う。
「何に」
「お前が“分かれてる”ことに」
その瞬間、視界が揺れる。
分かれている。
何が?
俺が?
時間が?
その全部か?
そのとき――
居間の奥の鏡が、わずかに光を返す。
そこに一瞬だけ、
俺が“二人”映った。
同じ姿。
だが、ズレている。
片方は立っている。
もう片方は、ほんの少し遅れて動く。
そのズレが、気持ち悪い。
「……見えたか」
修二の声。
俺は答えられない。
ただ、鏡を見る。
どちらが本物か。
いや、
その問い自体がもう意味を持っていない。
そのとき、
鏡の中の片方が、こちらを見た。
目が合う。
いや、
“先に見られていた”。
その感覚。
そこで意識が途切れる。
次に気づいたとき、
鏡には何も映っていなかった。
ただの部屋。
ただの俺。
ただの修二。
それだけ。
「もう戻るな」
修二が言う。
「どこに」
「考える場所に」
その言葉が重い。
俺は何も言えない。
ただ、奥の部屋の襖を見る。
閉じたまま。
だが、
その向こうに“まだ続きがある”とわかっている。
終わっていない。
ずっと。
その事実だけが残る。
そして――
俺の中で、ひとつだけ確定する。
これは“出来事”じゃない。
これは“状態”だ。
終わらないものの中に、今もいる。




