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3人目のわたし  作者: 無記名
第9章
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第9章 第4話「呼び返されるもの」



 その瞬間だけ、世界が一度途切れた気がした。


 音も、視界も、思考も。


 全部が、一拍遅れて戻ってくる。


「……おい」


 修二の声が、遠くから追いついてくる。


 目の前には机。

 紙。

 缶。


 すべては“元の位置”にある。


 何も起きていないように見える。


 だが、さっきまで確かにあった――

 “呼ばれた”感覚だけが残っている。


「今、何か言ったか?」


 修二が聞く。


「……いや」


 反射で答えてしまう。


 だが違う。


 何かがあった。


 言葉じゃない。


 でも、“意味”だけが残っている。


 それを思い出そうとした瞬間、


 頭の奥が軋む。


 痛みじゃない。


 拒否だ。


 思考がそこに触れることを、

 明確に拒んでいる。


「顔色悪いぞ」


「大丈夫だ」


 そう返すしかない。


 本当は、大丈夫かどうかもわからない。


 ただ立っている。


 それだけだ。


 俺は紙を見る。


 白い。


 さっきの“文字の気配”は完全に消えている。


 なのに、


 まだ“見られている感じ”だけが残っている。


「なあ」


 修二が言う。


「今、お前の名前って何だっけ」


 思考が止まる。


「は?」


「名前」


「真鍋 恒一だろ」


 反射で答える。


 だが――


 言った瞬間に違和感が走る。


 ――本当にそうか?


 そんな疑問が、唐突に浮かぶ。


「そうだよな」


 修二は頷く。


 だが、その頷きに確信がない。


「でもさ」


 修二が続ける。


「今、一瞬わからなかった」


「何が」


「お前の名前」


 喉が詰まる。


「冗談だろ」


「冗談じゃない」


 真顔だった。


 ふざけていない。


 それが一番怖い。


「言われるまで出てこなかった」


 沈黙。


 空気が、じわじわと重くなる。


「……おかしいだろ」


「名前だぞ」


「普通はな」


 修二はあっさり言う。


 その“普通”という言葉が引っかかる。


 まるで、それが成立しない前提で話しているみたいだ。


「じゃあ何だよ」


「今のこれは」


 修二は少し考えてから言う。


「削れてる」


「何が」


「情報」


 背中が冷える。


「記憶じゃなくて?」


「記憶も含めて」


 修二は机を見たまま続ける。


「必要なものから消えてる気がする」


「何のために」


「知らない」


 即答。


 その正直さが逆に怖い。


 俺はゆっくりと座る。


 頭が重い。


 だが、一つだけはっきりしている。


 さっき、“呼ばれた”。


 確実に。


「なあ」


 俺は言う。


「さっき、何か聞こえなかったか」


「聞こえた」


 修二は即答した。


「お前も?」


「ああ」


「声だった?」


「いや」


 修二は首を振る。


「声じゃない」


「じゃあ何だよ」


「……“意味”だけ」


 息が詰まる。


 同じだ。


「呼ばれた感じじゃない」


 修二は続ける。


「呼ばれた“あと”だけが残ってる」


 その表現が、異様に正確だった。


 俺は立ち上がる。


「確認する」


「何を」


「名前」


 紙を見る。


 白紙。


 だが、


 そこに“まだ何かある気がする”。


 俺は無意識に指を置いた。


 その瞬間、


 頭の奥で“音”がした。


 ぎ、と。


 何かが擦れるような音。


 紙じゃない。


 もっと内側。


「……っ」


 思わず手を引く。


「またか」


 修二が言う。


「今、何かあった」


「何も見えない」


 即答。


 その差が、はっきりする。


 ――俺だけが触れている。


 あるいは、


 修二だけが外れている。


 どちらかだ。


 そのとき、


 玄関の方で音がした。


 今度ははっきりと。


 ぎ、と扉が開く音。


「……またか」


 修二が立つ。


 俺も続く。


 廊下を進む。


 距離が合っていない。


 歩いているのに、近づかない。


 違和感のまま玄関に出る。


 誰もいない。


 鍵も閉まっている。


 だが、


 そこに“ある”。


 土間の上。


 影。


 人の形。


 だが、輪郭が揺れている。


 見ようとすると崩れる。


「……何だこれ」


「見えるか」


「ああ」


「形、あるか」


「……ある」


 だが、一致しない。


 頭の中の“人の形”と。


 影が、


 ゆっくりとこちらを向いた気がした。


 顔はない。


 なのに、


 見られているとわかる。


 その瞬間、


 頭の中に“言葉”が浮かぶ。


 名前。


 出かかる。


 だが――


 途中で切れる。


 強制的に。


「これ……」


 修二が言いかけて止まる。


 視線の先。


 影の輪郭が、少しずつ濃くなっている。


 近づいていない。


 なのに、“存在だけが強くなる”。


 そのとき、


 俺の口が勝手に動く。


「……お前」


 その瞬間、


 影が“反応”した。


 空気がずれる。


「今、何て言った」


 修二が言う。


「……いや」


 言葉が続かない。


 今のは俺の声だったか?


 それとも、


 向こうに向けたものか?


 わからない。


 ただ一つだけ確かなのは、


 “あれ”がこちらを認識しているということだ。


 影が一歩、動いた。


 距離は変わらない。


 だが、“位置だけが変わる”。


 そのズレが決定的になる。


「これ、来てるな」


 修二が言う。


 何が、とは言わない。


 だが、理解できる。


 これは“来ている”。


 その瞬間、


 頭の奥で再び音が鳴る。


 今度ははっきりと。


 名前。


 呼ばれる。


 だが、


 また途中で切れる。


 思い出せない。


 思い出させてもらえない。


 影が、さらに濃くなる。


 そして、


 そこで理解する。


 これは“何かが来ている”んじゃない。


 “何かを呼び返している”。


 そしてその対象は――


 俺だ。


 その瞬間、


 視界が揺れる。


 修二の声が遠くなる。


 影が崩れる。


 最後に残るのは一つだけ。


 呼ばれた“名前の欠片”。


 それを思い出そうとした瞬間――


 意識が、途切れた。

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