第9章 第3話「呼べない名前」
紙は、ただの白い塊になっていた。
さっきまで確かに、何かが書かれていたはずなのに、
今は痕跡すらない。
滲んで消えた、という感じじゃない。
最初からそこに“文字という概念が存在しなかった”みたいな、
そんな不自然な白さだった。
「……今の、見えたよな」
修二が言う。
その声が、少し遠い。
俺は頷こうとして、止まる。
見えた。
確かに見えた。
だが、それが何だったのかが、
もう思い出せない。
「見えたはずなんだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「でも、何も残ってない」
「消えたってことか?」
「いや……違う」
俺は紙を見る。
白い。
ただの紙。
そこには、“何かがあった痕跡”すら感じられない。
消えた、じゃない。
“成立していなかった”。
その方が近い。
「おかしいだろ」
修二が言う。
「見えてたんだろ」
「ああ」
「じゃあ、消えたんじゃなくて――」
一度、言葉を切る。
その間がやけに長い。
「……見えてなかったことになる」
背中が冷える。
「意味わからん」
「俺もだよ」
修二がそう言った。
その一言で、逆に現実味が増す。
こいつが“わからない”と言う。
それ自体が異常だ。
俺は紙を机に置いた。
もう触れていたくなかった。
だが、手を離した瞬間、
指先に“文字の感触”だけが残る。
インクでも紙でもない。
もっと曖昧な、
情報そのものみたいな感触。
「なあ」
修二が言う。
「お前、それ読もうとしたか?」
「……した」
「途中で止めた?」
「ああ」
修二はわずかに目を細めた。
「正解だと思う」
「何が」
「読めない方がいい」
その言葉に、違和感が強くなる。
「なんでだよ」
「理由はない」
即答。
根拠はない。
ただの直感。
あるいは、経験みたいなもの。
「お前、なんか知ってるだろ」
俺は言った。
修二は少しだけ視線を外す。
「知らない」
「嘘つけ」
「本当に知らない」
沈黙。
その沈黙が、重い。
「ただ」
修二が続ける。
「これ、前にもあった気がする」
空気が変わる。
「前って?」
「わからん」
「は?」
「でも、“これと似たこと”はあった」
曖昧すぎる。
だが、その曖昧さが妙にリアルだ。
「いつだよ」
「わからない」
「どこで」
「それも」
修二は首を振る。
何も特定できない。
なのに、“確かにあった”と言う。
それが一番厄介だった。
「……記憶、混ざってないか」
俺は言う。
「お前も」
「混ざってるなら、お前もだろ」
その返しで、言葉が止まる。
確かにそうだ。
俺だけが正常とは言えない。
むしろ逆だ。
俺の方が、危うい。
そのとき、気づく。
部屋の“音”が消えている。
時計の針の音も、
外の気配もない。
静かすぎる。
まるで、この空間だけ切り取られているみたいに。
「……なあ」
俺は言う。
「外、音してるか?」
修二は耳を澄ます。
数秒。
「してないな」
即答。
嫌な予感が強くなる。
俺は窓に近づき、
カーテンを少しだけ開ける。
外を見る。
そこには――
“見えているのに理解できない景色”があった。
道はある。
家もある。
だが、距離感が狂っている。
遠いのか近いのか、
奥行きが成立していない。
「……なんだこれ」
思わず声が漏れる。
修二が後ろから覗く。
「見えるか」
「ああ」
「でも変だろ」
「変だな」
即答。
その冷静さが怖い。
俺は窓を閉めた。
視界を遮る。
少しだけ安心する。
だがその分、
今度は“部屋の中”の違和感が増す。
机。
缶。
紙。
全部が、ほんの少しずつ
位置を変えている気がする。
「……動いてる」
俺は呟く。
「何が」
「全部」
修二は机を見る。
「いや」
少し間を置いて、
「動いてない」
その言葉に、視線を凝らす。
確かに動いていない。
だが、
“さっきと同じ状態ではない”。
微妙なズレ。
位置。
角度。
関係。
全部が少しだけ違う。
「これさ」
修二が言う。
「俺たち、同じ場所にいないのかもな」
「は?」
「同じ部屋にはいるけど」
修二は続ける。
「見てる“基準”が違う」
「基準ってなんだよ」
「わからん」
曖昧なまま。
だが、さっきより確信がある。
「じゃあ今の俺たちって何だよ」
俺は聞く。
修二は少し考えてから言う。
「同じ記録を見てる別の人間」
背中が冷える。
俺は机を見る。
缶。
紙。
確かにそこにある。
なのに、
全部が“共有されていない気がする”。
同じものを見ているのに、
意味だけがズレていく。
そのとき、
紙の上に“何か”が浮かび始めた。
文字ではない。
だが、形はある。
修二は気づいていない。
俺だけが見ている。
「……出てきてる」
俺は呟く。
「何が」
修二は見ていない。
「さっきのやつ」
紙を指す。
修二が顔を向けた瞬間――
それは消えた。
何もなかったみたいに。
「何もないぞ」
「……今、あった」
「見えない」
そこで確信する。
これは“同じ現実”じゃない。
重なっている。
だが、一致していない。
ズレが広がっている。
俺は紙から目を離せない。
その白さが、
妙に“正しくない”。
そのとき、
耳の奥で、何かが鳴った。
音じゃない。
呼ばれた感覚。
名前を。
誰かが。
その瞬間、意識が揺れる。
視界が歪む。
修二の声が遠くなる。
「……おい」
聞こえているのに、
意味が入ってこない。
ただ一つだけ、
確かなことがある。
――名前が、呼ばれた。
なのに、
その名前が、
思い出せない。




