第9章 第2話「増えた記録」
朝になっても、缶のことは頭から離れなかった。
眠ったはずなのに、休んだ感じがしない。
むしろ、思考だけが重くなっている。
整理されるどころか、余計に絡まっている。
居間に降りると、修二はすでにいた。
昨日と同じ位置。
同じ姿勢。
同じように、机を見ている。
まるで、一度も動いていないみたいに。
「……おはよう」
「おう」
短い返事。
それで会話は終わる。
自然すぎる沈黙。
何も変わっていない、という形だけが残っている。
だが、
違和感だけは増えている。
「昨日の缶、まだあるか」
俺は聞いた。
修二は一瞬だけ黙る。
「ある」
そう言って立ち上がる。
台所の奥に消えて、すぐに戻ってくる。
手には、小さな缶。
机の上に置く。
カン、と軽い音。
それを見た瞬間、息が詰まる。
「……これ」
俺は言う。
「昨日と違う」
修二は止まらない。
「そう言うと思った」
「違うだろ」
身を乗り出す。
「これ、昨日のやつじゃない」
「どっちの昨日だよ」
その一言で、思考が止まる。
意味が入ってこない。
「昨日は昨日だろ」
「そうか?」
修二は淡々と返す。
「お前の言ってる“昨日”と、俺の言ってる“昨日”、同じか?」
冗談じゃない。
試してる感じでもない。
ただ、事実確認みたいな言い方。
「……意味わかんねえこと言うな」
「じゃあ聞くけど」
修二は缶を指で軽く弾く。
鈍い音。
「これは昨日のか?」
「そうだろ」
「いつの昨日だ」
言葉が詰まる。
“昨日”としか言えない。
それ以上の情報がない。
なのに、目の前の缶は“昨日のもの”だと認識している。
そのはずなのに、
それがいつの昨日かは、説明できない。
「違和感あるだろ」
修二が言う。
「同じに見えるのに」
「……ある」
否定できない。
同じだ。
でも違う。
その差が、どこにあるのかわからない。
「もう一つある」
修二が言った。
「奥の棚」
「は?」
「見てみろ」
言われて、立ち上がる。
台所の奥。
古い戸棚を開ける。
中に、缶。
同じ形。
同じ大きさ。
同じような錆。
「……これも?」
「そう見える」
修二の声。
振り返ると、まだ机の前にいる。
「でも違う」
「どこが」
「わからない」
即答。
その迷いのなさが、一番おかしい。
「数が増えてる」
修二は続ける。
「昨日は一つだった」
「いや」
反射的に言い返す。
「二つだった」
そこで止まる。
一つ?
二つ?
どっちも“正しい気がする”。
その時点で、もうおかしい。
「ほらな」
修二は静かに言う。
「もうズレてる」
「……何が起きてるんだよ」
「さあな」
投げているわけじゃない。
本当にわかっていない言い方。
だが、その“わからなさ”が自然すぎる。
俺は缶を見比べる。
机の上。
棚の中。
視線を動かす。
――床。
そこにも、缶。
「……おい」
声が漏れる。
「これ、さっきなかっただろ」
「あるだろ」
修二は即答する。
「最初から」
「いや、なかった」
「お前が見てなかっただけだ」
視界が揺れる。
見ていなかったのか。
それとも、本当になかったのか。
判断できない。
頭の中の“記録”が一致しない。
そのとき、
玄関の方から音がした。
ぎ、と扉が軋む。
「……誰だ」
修二が立つ。
俺も後を追う。
玄関。
誰もいない。
鍵は閉まっている。
風でもない。
静かだ。
だが、
靴箱の上に、封筒。
白い。
名前はない。
「これ……」
手に取る。
修二が後ろから覗く。
「開けるなよ」
遅い。
もう開けている。
中に紙。
折られている。
開く。
文字。
手書き。
だが――
読めるようで、読めない。
線が歪んでいる。
途中で崩れている。
それでも、“文字の形”はしている。
「……何て書いてある」
修二が言う。
答えようとして、止まる。
読めない。
なのに、
“知っている気がする”。
この崩れ方。
この歪み。
どこかで見た。
昨日の、あの――
「……お前の字か?」
「違う」
即答する。
その瞬間、引っかかる。
本当に?
何を根拠に否定した?
俺は紙を見る。
文字が、
さっきと違う形になっている気がする。
「……動いてる」
思わず言う。
「何が」
「文字」
「バカなこと言うな」
修二が覗き込む。
その瞬間、
紙が“ずれた”。
ほんの少し。
位置が。
現実は動いていない。
だが、認識だけが動く。
「……これ」
修二が言う。
「おかしいな」
初めての、はっきりした違和感。
それで少しだけ安心する。
だが、
すぐに気づく。
修二の声が、わずかに遅れている。
タイミングが、合っていない。
「お前さ」
俺は言う。
「今、何見てる」
「紙だろ」
「いつの」
修二は一瞬黙る。
空気が、ずれる。
「……今のだ」
その“今”が一致していない。
俺は紙を見る。
文字はまだある。
だが、
“読んではいけない”気がする。
その感覚の方が強い。
そのとき、
紙の端が滲む。
インクでもないのに。
じわ、と広がる。
文字が崩れる。
意味を失う。
その崩れ方に、
見覚えがある。
俺の中の何かと、同じだ。
その瞬間、
背後で修二が言う。
「……これ、誰が入れたんだろうな」
振り返る。
修二の顔が、
一瞬だけわからない。
知らない顔に見える。
すぐに戻る。
だが、
そのズレが残る。
俺は紙を握る。
ほんのり温かい。
まるで、生きているみたいに。
そのとき気づく。
文字の中に、
一つだけ、
はっきりした形。
名前。
確かに、読めた。
――瞬間。
文字が崩れる。
完全に。
白紙になる。
最初から何もなかったみたいに。
俺は息を止めたまま、
紙を見続ける。
修二の声が、遠くから聞こえる。
「……今、何が書いてあった?」
答えようとして、
わからないことに気づく。
さっきまで、
確かに“読んでいた”はずなのに。




