第8章 第4話「一致しない三人」
空白の紙を見つめたまま、しばらく誰も動かなかった。
風だけが、庭の草を揺らしている。
そこに“あったはずのもの”が、綺麗に抜け落ちている。
違和感というより、欠損だった。
最初から、その部分だけ「扱われていない」みたいな感覚。
「……これ」
俺は紙を持ち上げたまま言った。
「おかしいだろ」
修二は答えない。
視線は紙に落ちたまま。
ただ、ほんのわずかに目が細くなっている。
「三つあったんだよな」
続ける。
「埋めたの、三つ」
「ああ」
「二つは名前があった」
「そうだな」
「じゃあ、これ何だよ」
言った瞬間、わかる。
これは質問じゃない。
確認だ。
修二は少しだけ間を置いた。
「……何か入ってたんじゃないのか」
「“入ってたはず”だろ」
「そうだな」
曖昧な返答。
だがその言い方は、
“消えた”じゃなくて、
“確定していない”みたいだった。
「お前」
俺は言った。
「さっきから変だぞ」
「どこが」
「全部だ」
即答する。
修二はゆっくりと顔を上げた。
真正面から、こちらを見る。
その目はいつも通りなのに、
どこか“試している”ように見えた。
「……お前はどう思ってる」
「何を」
「この三つ」
紙を指す。
「三人で埋めたんだろ」
「ああ」
「じゃあ、三つ目は誰のだ」
また戻る。
同じ問い。
同じ場所。
なのに、さっきよりも深い。
俺は口を開きかけて、止まる。
答えはあるはずだ。
なのに出てこない。
思い出せないんじゃない。
“選べない”。
「……わからない」
それだけ言う。
修二は小さく息を吐いた。
「俺もだ」
あっさりと。
その言葉に、一瞬だけ救われる。
だが同時に、不安が増す。
二人ともわからないのは、おかしい。
普通なら、
どちらかは覚えているはずだ。
少なくとも、自分の分くらいは。
「なあ」
修二が言った。
「一回、整理しないか」
「何を」
「事実」
淡々としている。
「俺のはあった。お前のもあった」
「ああ」
「で、残り一つは空白」
「そうなる」
「でも、それっておかしくないか」
空気がわずかに変わる。
「何が」
「三つって前提」
修二は静かに言った。
「最初から二つだった可能性もある」
「……は?」
思わず声が出る。
「だってそうだろ」
「記憶違いってやつだ」
その言い方が、妙に冷たい。
「そんな単純な話じゃない」
即座に否定する。
「缶は三つあった」
「掘っただろ」
「今ここにある」
「だから?」
食い下がる。
「物があるんだよ」
声が強くなる。
「記憶じゃない、現実だ」
修二は少しだけ黙った。
風が止む。
一瞬、庭の音が消える。
「……じゃあ」
修二が言う。
「この空白は何だ」
答えられない。
言葉が出ない。
ただ一つだけ、確かな感覚がある。
これは最初からじゃない。
“ここにあったものが、抜けている”。
なのに――
“最初からなかった気もする”。
両方が同時に成立している。
その矛盾が、頭の中で回り続ける。
「……もういい」
俺は言った。
「家戻る」
「そうだな」
修二はあっさり頷いた。
止めない。
追わない。
それが、逆に気持ち悪い。
*
帰り道は短いはずなのに、やけに長く感じた。
背後の庭が、ゆっくり遠ざかる。
それと同時に、
さっきまでの“確信”が薄れていく。
曖昧になる。
輪郭が崩れる。
修二は隣を歩いている。
何も言わない。
その沈黙が、不自然だった。
「なあ」
俺は言った。
「さっきの話」
「どれ」
「三人じゃなかった可能性」
「……ああ」
「どう思う」
修二は少しだけ間を置いた。
「正直、どっちでもいい」
「は?」
「三人でも二人でも」
その言葉に、違和感が走る。
「それで何か変わるのか」
刺さる。
変わらない。
確かに、今の状況は変わらない。
だが、それで納得できる話じゃない。
俺は何も言えなくなった。
*
夜。
家に入った瞬間、違和感に気づく。
居間の机の上。
さっきまでなかったものがある。
小さな缶。
錆びた、古い缶。
「……これ」
立ち止まる。
「さっきあったか?」
「いや」
修二は即答した。
迷いがない。
俺はゆっくり近づく。
触れる。
冷たい。
中に、何か入っている。
蓋を開ける。
紙が一枚。
それだけ。
取り出して、開く。
白紙。
何も書かれていない。
「……またか」
思わず呟く。
そのとき、
修二が低く言った。
「それ、本当に“また”か?」
体が止まる。
「どういう意味だ」
「これ」
缶を見たまま言う。
「さっきのと同じか?」
ぞくりとする。
俺は缶を見直す。
似ている。
だが――違う。
傷の位置が違う。
錆の色が違う。
重さも、微妙に違う。
「……違う」
俺は言った。
「これは別だ」
「だよな」
修二は頷く。
その瞬間、
頭の中で何かが噛み合う。
別。
さっきのと。
今のと。
別なのに、
中身は同じ“空白”。
同じじゃないのに、同じ。
その矛盾が、静かに崩れる。
俺はゆっくり息を吐いた。
視界の端で、
修二が缶を見つめている。
その横顔が、
ほんのわずかに歪んで見えた。
まるで、
“思い出しかけている”みたいに。




