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3人目のわたし  作者: 無記名
第8章
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第8章 第3話「持ち主のないもの」



 納戸の空気が、わずかに濁った気がした。


 変わったのは空気じゃない。


 こっちの認識だ。


 もう、「気のせい」で済ませられる段階は過ぎている。


 証拠が揃いすぎている。


 俺は手の中の紙片を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 ――こういち。


 確かにそう書いてある。


 ひらがなで。


 消えかけた文字。


 祖母の字かどうかはわからない。


 だが、


 “誰かが書いた”ことだけは、確実だ。


「……それ」


 修二が静かに言う。


「戻しとくか?」


 いつも通りの口調。


 だが、その奥にわずかな探る色がある。


 俺は首を振った。


「いや、持っとく」


「そうか」


 それ以上は何も言わない。


 ただ、


 視線だけが外れない。


 俺じゃなく、


 “反応”を見ている。


 俺は紙片をポケットに入れた。


 その瞬間、


 妙な感覚が走る。


 ――これ、本当に俺のものか?


 意味がわからない。


 だが、


 否定しきれない。


 自分の名前のはずなのに、


 どこか“預かっているだけ”みたいな感触がある。


 俺はそれを振り払うように、周囲を見回した。


「……まだあるな」


 納戸の奥。


 未開封の箱がいくつも残っている。


 ここまで来たら、もう止まれない。


「続き、やるぞ」


「ああ」


 修二も短く頷く。


 *


 次に開けたのは、小さな木箱だった。


 鍵はかかっていない。


 蓋を持ち上げると、きい、と軽い音がした。


 中には、雑多なもの。


 ビー玉。


 古い消しゴム。


 錆びたキーホルダー。


 子供の頃の“宝物”。


「……懐かしいな」


 修二が言う。


「こういうの、集めてた気がする」


「俺もだな」


 反射的に返す。


 だが、


 すぐに違和感が生まれる。


 “俺も”。


 本当にそうか?


 記憶が、曖昧だ。


 あるようで、ない。


 ないのに、ある気がする。


 俺は箱の中に手を入れた。


 一つずつ取り出す。


 どれも軽い。


 どれも小さい。


 だが、その中に――


 ひとつだけ、手が止まるものがあった。


 透明なプラスチックケース。


 中が見える。


 蓋を開ける。


 入っているのは、折り畳まれた紙一枚。


 それだけ。


 俺はそれを取り出した。


 ゆっくりと開く。


 折り目が多い。


 何度も開かれていた形跡。


 中には、


 簡単な見取り図。


 庭。


 家。


 物置。


 そして――


 ×印が、三つ。


「……これ」


 思わず声が出る。


「どうした」


 修二が覗き込む。


「覚えてるか、これ」


 指でなぞる。


 位置関係。


 ぼんやりと、記憶が浮かぶ。


「……ああ」


 修二が小さく頷く。


「宝探し、やったな」


「三人で?」


 またその言葉。


 だが、今は止めない。


 修二は一瞬だけ間を置いて、


 はっきりと頷いた。


「……ああ、三人で」


 逃げない肯定。


 それが、重い。


 俺は地図を見下ろす。


 ×が三つ。


 三人。


 対応している。


「これ、それぞれ埋めたんだよな」


「そんな感じだったな」


「誰のやつか決めて」


「ああ」


 修二の声は落ち着いている。


 だが、


 ほんの少し低い。


「……これ、誰のだ」


 地図を持ち上げる。


 誰が描いたか。


 修二は少しだけ考えるように目を細めた。


「……たぶん」


 言いかけて、


 止まる。


 長い間。


「……わからないな」


 結局、そう言った。


「お前じゃないのか」


「かもしれない」


 曖昧。


 だが誤魔化しではない。


 本当に“決められない”。


 そんな響きだった。


 俺は紙を見つめる。


 線の癖。


 丸い字。


 見覚えはある。


 だが、


 “自分のもの”とも言い切れない。


 境界が曖昧だ。


「……確認するか」


 俺は言った。


「何を」


「これ」


 ×印を指す。


「まだ残ってるか」


 修二は少し黙ってから、


 小さく息を吐いた。


「……行くか」


 止めない。


 それが、重い。


 *


 外は冷えていた。


 夕方。


 日が傾きかけている。


 庭は荒れている。


 だが、


 地図と照らせば、位置は合う。


「……ここだな」


 一つ目。


 物置の横。


 土を掘る。


 すぐに、硬い感触。


「……あった」


 小さな缶。


 錆びている。


 開ける。


 紙。


 開く。


 ――しゅうじ


 修二の名前。


 俺はそれを見せる。


 修二は目を伏せ、


 頷いた。


「……俺のだな」


 次へ。


 二つ目。


 同じように掘る。


 同じように出る。


 開く。


 ――こういち


 心臓が強く打つ。


 同じ名前。


 同じ字。


 俺は息を止める。


「……お前のだな」


 修二が言う。


 迷いのない断定。


 俺は答えられない。


 残るは、一つ。


 最後の×。


 庭の端。


 木陰。


 しゃがむ。


 掘る。


 指先に当たる。


 取り出す。


 三つ目の缶。


 手が、わずかに震える。


 これで、決まる。


 全部、繋がる。


 蓋に手をかける。


 止まる。


 開けたくない。


 だが、


 もう遅い。


 開ける。


 紙を取り出す。


 開く。


 ――何もない。


 真っ白。


「……は?」


 声が漏れる。


 おかしい。


 三つあるはずだ。


 対応しているはずだ。


 なのに、


 ここだけが、空白。


「……なんで、ないんだよ」


 修二は何も言わない。


 ただ見ている。


 俺じゃなく、


 その紙を。


 俺は紙を裏返す。


 何もない。


 もう一度見る。


 白い。


 だが――


 完全な白じゃない。


 かすかに、


 何かを書いた跡がある気がする。


 消したような。


 削ったような。


 残骸だけが、薄く残っている。


「……消えてる」


 無意識に言葉が出る。


 最初からじゃない。


 ここには、


 “あった”。


 それが、


 消えている。


 俺はゆっくりと顔を上げた。


 修二を見る。


「……これ」


 声が低くなる。


「誰の分だと思う」


 風が吹く。


 草が揺れる。


 その音だけが、やけに響く。


 修二はしばらく黙っていた。


 そして、


 静かに言う。


「……もう一人の分だろ」


 その言葉が、落ちる。


 俺は何も言えない。


 手の中の紙が、


 やけに重い。


 何も書かれていないはずなのに、


 そこに“名前があった形”だけが残っている。


 まるで、


 持ち主だけが削り取られたみたいに。


 残っているのは、


 空白じゃない。


 “名前があった場所”だ。


 それが、


 完全に消されている。


 その事実が、


 逃げ道を一つずつ潰していった。

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