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3人目のわたし  作者: 無記名
第8章
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第8章 第2話「名前の外側」



 納戸の空気は、さっきよりも確実に重くなっていた。


 理由はわかっている。


 ノートと、あの絵。


 あれで、“三人”はもう揺らがない。


 記録として、残っている。


 それでも――


 名前だけが、どこにもない。


 俺は床に落ちた紙を拾い上げた。


 三人の絵。


 中央だけが、黒く塗り潰されている。


 そこには、最初から何も書かれていなかったのか、


 それとも、消されたのか。


 判断がつかない。


「……名前、ないな」


 呟く。


 わかりきったことを、わざわざ口に出す。


 そうでもしないと、落ち着かなかった。


 修二は壁にもたれたまま、こちらを見ている。


「子供の絵だろ。そんなもんじゃないか」


「そうか?」


「名前まで書く方が珍しい」


 もっともらしい。


 だが、納得はできない。


 俺はノートをもう一度開いた。


 ページをめくる。


 ひらがな。


 簡単な文。


 “しゅうじ”はある。


 “ばあちゃん”もある。


 なのに――


 もう一人の名前だけが、どこにもない。


「……おかしいだろ」


「何が」


「三人で遊んでるのに、そいつの名前が一回も出てこない」


「……そういうもんじゃないか」


「いや、普通書くだろ」


「どうだろうな」


 修二は肩をすくめる。


 曖昧な返事。


 逃げている。


 明らかに。


「お前、覚えてるか」


 俺は聞いた。


「そいつの名前」


 修二は一瞬だけ視線を落とした。


 考えているようで、


 実際には、“選んでいる”ような間。


「……前にも言っただろ」


 やがて言う。


「出てこない」


「でも、知らないわけじゃない」


「ああ」


「じゃあなんで出てこない」


「さあな」


 同じやり取り。


 堂々巡り。


 だが――


 今回は違う。


 “残っている”。


 それだけは、もう否定できない。


 俺はノートを閉じた。


 視線を上げる。


「……探すぞ」


「何を」


「名前」


 短く言う。


 修二は、わずかに眉を動かした。


「どうやって」


「残ってるはずだ」


 ほとんど確信に近い感覚だった。


「全部は消せない」


 言いながら、


 自分でその前提に気づく。


 “消されている”。


 そう思っている時点で、


 もう後戻りはできない。


 修二は少しだけ黙ってから、頷いた。


「……まあ、やってみるか」


 その言い方は、


 どこか他人事みたいだった。


 *


 納戸をさらに探る。


 箱を開ける。


 封筒。


 アルバム。


 古い手帳。


 どれも時間の断片。


 だが、


 “そこ”だけが、不自然に抜けている。


 まるで最初から存在しなかったみたいに。


 俺は祖母の手帳を手に取った。


 丁寧な字。


 細かい記録。


 食事。


 天気。


 来客。


 どれも具体的だ。


 だが、あるページで手が止まる。


 ――孫たちが来た


 それだけ。


 名前はない。


 人数もない。


 ただ、“孫たち”。


「……これ」


 修二に見せる。


「曖昧だな」


「ああ」


「普通、名前くらい書くだろ」


「そういう人じゃなかったんだろ」


 即答。


 だが、それは違う。


 この手帳は、曖昧じゃない。


 ここだけが、曖昧すぎる。


 俺はページをめくる。


 似た記述が並ぶ。


 ――孫たちと夕食

 ――庭で遊んでいた

 ――元気そうだった


 全部、“孫たち”。


 個別の名前が、一度も出てこない。


 区別していないんじゃない。


 “できない”みたいだ。


「……なんでだ」


 呟く。


 答えは出ない。


 だが、これは“ズレ”だ。


 明確な。


 俺は手帳を閉じた。


 そのとき、


 表紙の内側に貼られた小さな紙に気づく。


 端が浮いている。


 剥がされた跡。


 貼り直された痕。


 指をかける。


 一瞬、止まる。


 やめるか。


 めくるか。


 どちらも正しい気がして、


 どちらも間違っている気がした。


 だが、


 手は止まらなかった。


 ぱり、と音がして紙が剥がれる。


 裏に、文字。


 薄い。


 消えかけている。


 ひらがな。


 ゆっくりと読む。


 ――こういち


 心臓が、一瞬だけ止まる。


「……これ」


 声が漏れる。


 修二が覗き込む。


「名前だな」


「……ああ」


 だが、


 違和感がある。


 これは、


 “俺の名前”のはずだ。


 そう思っている。


 そう認識している。


 なのに――


「……変だ」


「何が」


「なんで、隠してある」


 祖母の手帳だ。


 普通に書けばいい。


 わざわざ別に書いて、


 剥がして、


 また貼る理由がない。


「……もう一回、見せろ」


 修二が言う。


 紙を渡す。


 じっと見る。


 裏返す。


 もう一度見る。


「……これ、本当にお前の名前か?」


「は?」


 反射的に返す。


「何言ってんだよ」


「いや」


 修二は視線を上げる。


「“こういち”って書いてあるのは確かだ」


「ああ」


「でも、それがお前の名前だって、どうやって判断した?」


 言葉が、引っかかる。


「どうやってって……」


 当たり前のことだった。


 疑う余地なんてなかった。


 自分の名前だ。


 それだけのはずなのに――


 “確かめた記憶”がない。


 呼ばれた記憶。


 書いた記憶。


 どれも、ぼやけている。


「……何言ってんだ」


 無理やり言う。


「俺の名前は――」


 止まる。


 簡単なはずだ。


 言えるはずだ。


 なのに、


 出てこない。


 喉の奥で、止まる。


 まるで、


 そこに何かが詰まっているみたいに。


「……」


 沈黙。


 空気が重くなる。


 修二は何も言わない。


 ただ、見ている。


 試している。


 確認している。


 俺はもう一度口を開く。


 ――まなべ


 そこまでは出る。


 名字。


 問題ない。


 だが、


 その先が、出ない。


 続かない。


 音が、途切れる。


「……っ」


 焦る。


 頭ではわかっているはずなのに、


 言葉にならない。


 それが、


 異様に気持ち悪い。


「……どうした」


 修二の声。


 静かで、逃げ場がない。


「……出てこない」


 認めるしかなかった。


 自分の名前が、


 出てこない。


 修二は、ゆっくり息を吐いた。


「……そうか」


 それだけ。


 驚きはない。


 最初から知っていたみたいに。


 背筋が冷える。


「……お前」


 思わず言う。


「何か知ってるのか」


 少しの間。


 修二は考える。


 そして、


 静かに答える。


「知ってる、っていうより――」


 一度言葉を切る。


 視線をわずかに外す。


「……覚えてるだけだ」


 その言い方が、


 妙に残った。


 “知っている”じゃない。


 “覚えている”。


 俺は何も言えなかった。


 手の中の紙が、わずかに震える。


 そこには確かに書かれている。


 ――こういち


 それが、


 本当に“自分の名前”なのかどうか、


 もう、


 確信が持てなかった。

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