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3人目のわたし  作者: 無記名
第8章
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第8章 第1話「残存」



 目が覚めたとき、しばらく自分がどこにいるのかわからなかった。


 天井。


 木目。


 見慣れているはずの模様。


 だが、それが“どこに属しているものなのか”が曖昧だった。


 ここはどこだ。


 どこで見ている。


 誰が見ている。


 認識が、少し遅れてくる。


 ――祖母の家。


 そこに辿り着くまで、数秒かかった。


 ゆっくりと体を起こす。


 首に手を当てる。


 何もない。


 痕も、痛みもない。


 それでも、


 締められていた感覚だけが残っている。


 消えていない。


 薄れてもいない。


 そこに“あったまま”残っている。


 夢じゃない。


 そう思う。


 だが、それを証明するものは何もない。


 俺はしばらく動かなかった。


 動けば、何かが進む。


 進めば、戻れなくなる。


 そんな予感があった。


 それでも、止まっていられるほど余裕はない。


 立ち上がる。


 足が、わずかに重い。


 *


 居間に入ると、修二がいた。


 昨日と同じ位置。


 同じ姿勢。


 同じ角度。


 まるで、時間ごと固定されているみたいだった。


「早いな」


 いつも通りに言う。


「まあな」


 返事も、同じ。


 温度も同じ。


 違いは、ない。


 ――本当に?


 一瞬だけ疑問が浮かぶ。


 すぐに消す。


 考えるべきじゃない。


 そういう感覚だけが残る。


「今日、どうする」


 修二が聞く。


「昨日の続きか」


「……いや」


 首を振る。


「別のとこ、見る」


「どこ」


「残ってるやつ」


 言いながら、自分でも曖昧だと思う。


 だが方向は決まっている。


 写真じゃない。


 “消せないもの”。


 文字。


 記録。


 意図して残されたもの。


 そこにある。


 消えなかったものが。


 修二は一瞬だけ考えてから頷いた。


「納戸、まだ見てないな」


「ああ」


「書類はあそこにまとめてある」


「行くか」


 それで十分だった。


 *


 納戸は家の奥にあった。


 扉の前に、薄く埃が積もっている。


 最近は開けられていない。


 ――それなのに、


 “中は知っている”気がした。


 取っ手に手をかける。


 一瞬、止まる。


 理由はない。


 ただ、


 ここにも“ある”とわかる。


 俺は扉を引いた。


 ぎ、と鈍い音。


 中は暗い。


 物置よりはましだが、光は弱い。


 紙の匂い。


 古いインク。


 乾いた空気。


 時間が積もった匂い。


 棚。


 箱。


 ファイル。


 雑然としているが、


 完全には崩れていない。


 “残され方”をしている。


「ここだな」


 修二が箱を指す。


「書類系」


 俺はその前にしゃがんだ。


 蓋を開ける。


 封筒。


 ノート。


 紙の束。


 どれも古い。


 どれも、残っている。


 一つずつ取り出す。


 電気料金。


 手紙。


 メモ。


 意味はなさそうに見える。


 だが、


 こういうものの中に、


 “削れなかった部分”がある。


 俺は一冊のノートを取った。


 擦り切れた表紙。


 子供用。


 軽い。


 だが妙に重く感じる。


 開く。


 ひらがな。


 簡単な漢字。


 幼い字。


 息を止めていた。


 無意識に。


 ページをめくる。


 ――きょうはしゅうじとあそんだ


 ――ばあちゃんち


 ――あつい


 見覚えがある。


 というより、


 “自分のものだ”と判断している。


 だが、


 完全には一致しない。


 癖が違う。


 線の引き方が、


 ほんの少しだけズレている。


「……これ」


 声が漏れる。


 修二が覗き込む。


「懐かしいな」


 軽い調子。


「お前、書いてたよな」


「……ああ」


 頷く。


 だが、


 “そういうことになっている”感じがする。


 確信がない。


 俺はページをめくる。


 飛び飛びの日付。


 断片的な記録。


 あるページで止まる。


 短い。


 それだけが書かれている。


 ――きょうは3にんであそんだ


 それだけ。


 他は何もない。


 説明もない。


 補足もない。


 ただ、


 その一行だけが残っている。


 俺は見つめる。


 三人。


 ここにもある。


 写真だけじゃない。


 記録として残っている。


「……ほら」


 ノートを見せる。


「書いてある」


 修二はそれを見て、


 わずかに目を細める。


「……ああ」


 確認。


 驚きはない。


「やっぱり三人だったんだ」


 自分に言う。


 だが軽い。


 まだ確定しない。


 俺はもう一度見る。


 そのとき気づく。


「……これ」


「どうした」


 “3”。


 そこだけ濃い。


 筆圧が強い。


 他と違う。


 書いたというより、


 押し付けている。


 強調。


 あるいは、


 固定。


「なんでここだけ……」


 呟く。


 前後を見る。


 似た日付。


 似た内容。


 だが、


 三人の記述はこれだけ。


 一回だけ。


 はっきりと残っている。


 それ以外は、


 ない。


 書かれていない。


 削られているみたいに。


「……おかしくないか」


「何が」


「これだけ残ってる」


「そういう日だったんだろ」


「じゃあ他は?」


「覚えてないだけじゃないか」


 逃げ道のある答え。


 いつも通り。


 それが逆に引っかかる。


 俺はノートを閉じる。


 そのとき、


 表紙の裏に気づく。


 紙が挟まっている。


 薄い。


 折られている。


 取り出す。


 開く。


 絵。


 三人。


 簡単な線。


 だが構図は明確。


 左右に一人ずつ。


 中央に、


 もう一人。


 その中央だけ、


 顔が塗り潰されている。


 黒く。


 何度も。


 執拗に。


「……なんだこれ」


 声が低くなる。


 自分で描いたはずだ。


 だが覚えていない。


 なぜ消した。


 なぜそこだけ残した。


 意味がわからない。


「お前が描いたんじゃないのか」


 修二が言う。


「……たぶん」


 確信がない。


 俺は見つめる。


 塗り潰し。


 円を描くような線。


 中心へ、


 押し込むような力。


 消しているのに、


 消していない。


 むしろ、


 閉じ込めている。


 そんな形。


 そのとき、


 理解が浮かぶ。


 ――閉じ込めた。


 同時に、


 ――閉じ込められた。


 両方がある。


 どちらも自分の感覚として。


 俺は紙を落とした。


 床に触れる。


 その瞬間、


 塗り潰しの中に、


 “顔”があった気がした。


 目。


 見ている。


 こちらを。


 はっきりと。


 息が止まる。


 動けない。


 次の瞬間、


 消える。


 ただの紙。


 ただの絵。


 それだけ。


「……どうした」


 修二の声。


「……いや」


 言えない。


 言葉にできない。


 だが、


 確実にある。


 残っている。


 消えていない。


 ただ、


 歪められている。


 そして、


 その歪みは――


 外じゃない。


 俺の中にある。


 その事実だけが、


 静かに、


 逃げ場を削っていった。

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