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3人目のわたし  作者: 無記名
第6章
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第6章 第4話「置換」



 夜は、音が薄かった。


 風も、虫も、遠い。


 まるでこの家だけが、世界から切り離されているみたいに。


 俺は布団の上に座ったまま、動かなかった。


 灯りは消している。


 暗闇の中で、目だけがやけに冴えていた。


 眠る気にはなれない。


 かといって、何かをする気も起きない。


 ただ、


 “自分が誰なのか”


 それだけが、頭の中に居座っている。


 ――こういちじゃない。


 その確信は、もう揺らがない。


 だが、


 じゃあ何なのか。


 それがわからない。


 名前はある。


 確かにある。


 だが、


 触れた瞬間に消える。


 思い出そうとすると、


 形を保てない。


 まるで、


 掴んだ途端に崩れる砂みたいに。


 ――保持できない。


 その言葉が、自然に浮かぶ。


 誰に教わったわけでもないのに、


 妙にしっくりくる。


 名前はある。


 だが、保持できない。


 つまり――


 定着していない。


 その瞬間、


 胸の奥に冷たいものが落ちた。


 定着していないなら、


 そこには“空き”がある。


 埋められる余地がある。


 誰に。


 考えるまでもない。


 もう一人の“俺”だ。


 *


 廊下で、音がした。


 ぎ、と床が軋む。


 一歩。


 止まる。


 また、一歩。


 近づいてくる。


 ゆっくりと。


 だが、


 どこか不自然だった。


 歩き慣れていない足取り。


 ほんのわずかに、リズムが狂っている。


 俺は動かなかった。


 耳だけが、その音を追う。


 足音は、


 俺の部屋の前で止まった。


 沈黙。


 長い。


 時間の感覚が曖昧になる。


 やがて、


 襖の向こうで、


 かすかな擦れる音がした。


 指先が、紙に触れている。


 なぞるように。


 確かめるように。


 開けない。


 ただ、


 そこにいる。


 それだけが、はっきりと伝わってくる。


 俺は、ゆっくり息を吸った。


 逃げる、という選択肢は最初からない。


 ここで目を逸らしたら、


 終わる。


 理由はない。


 だが、


 確信だけがあった。


「……誰だ」


 声に出す。


 思ったよりも、平坦な声だった。


 震えていない。


 それが逆に、気持ち悪い。


 返事はない。


 だが、


 気配が近づく。


 ほんのわずかに。


 襖一枚分。


 その向こうに、


 “何か”がいる。


 俺は立ち上がった。


 音を立てないように、一歩ずつ近づく。


 距離が縮まる。


 その途中で、


 ふと、違和感に気づく。


 ――この距離。


 どこかで体験している。


 庭で。


 あのときも、


 一歩で、やけに近づいた。


 距離が、正しくない。


 現実の縮尺じゃない。


 俺は襖の前で止まった。


 すぐ向こうにいる。


 わかる。


 位置も、高さも、呼吸のリズムも。


 すべて一致している。


 他人じゃない。


 完全に、同じだ。


 俺は手を伸ばした。


 襖に触れる。


 紙の感触。


 その奥に、


 わずかな熱。


 同じ体温。


 同じ生の感覚。


 その瞬間、


 頭の奥で何かが弾けた。


 映像が流れ込む。


 庭。


 三人。


 笑い声。


 そして――


 首。


 指。


 締める。


 締まる。


 呼吸が途切れる。


 視界が白くなる。


 どちらがどちらかわからない。


 境界が崩れる。


「……っ」


 反射的に手を離す。


 呼吸が乱れる。


 今のは、


 記憶か。


 それとも、


 共有されたものか。


 そのとき、


 襖の向こうで、声がした。


 かすれた声。


 ほとんど空気みたいな音。


 だが、


 確かに言葉だった。


 俺は息を止める。


 もう一度。


 今度は、はっきり聞こえた。


「……お前のじゃない」


 低い声。


 感情が削ぎ落とされた響き。


 背筋が冷える。


 意味はすぐにわかった。


 名前のことだ。


「それは……」


 続く。


「……俺のだ」


 その瞬間、


 頭の中に何かが流れ込んできた。


 強引に。


 拒否する隙もなく。


 知らないはずの記憶。


 知らないはずの感覚。


 だが、


 どれも“自分のもの”として馴染んでいく。


 拒否できない。


 拒否する前に、


 溶けていく。


 ――置換。


 俺の中身が、


 書き換わっていく。


 境界がなくなる。


 どこまでが自分で、


 どこからが“あいつ”なのか、


 わからなくなる。


 ただ、


 ひとつだけ、はっきりしている。


 主導権は、


 俺にない。


 選ばれているのは、


 向こうだ。


 俺は、


 消える側。


 その理解に至った瞬間、


 すべてが止まった。


 音も、


 思考も、


 感覚も。


 完全な無音。


 その中で、


 ひとつだけ残る。


 ――これ、何回もやってる。


 理由はない。


 証拠もない。


 だが、


 確信だけがある。


 初めてじゃない。


 繰り返している。


 何度も。


 同じことを。


 そこで、


 意識が落ちた。


 唐突に。


 切れるみたいに。


 *


 朝。


 目が覚めたとき、


 何もおかしくなかった。


 頭は軽い。


 体も軽い。


 昨日までの違和感が、


 きれいに消えている。


 天井を見上げる。


 いつも通りだ。


 問題ない。


 自然にそう思えた。


 俺は起き上がる。


 迷いなく、部屋を出る。


 廊下を歩く。


 足音は、ひとつだけ。


 居間に入る。


 修二がいる。


「おはよう」


「ああ、おはよう」


 何もおかしくない。


 会話も、呼吸も、


 全部自然だ。


 修二は少しだけこちらを見て、


 ふっと笑った。


 ほんのわずかに。


「……やっと、普通に呼べるな」


 その意味を、


 俺は考えなかった。


 必要がないと思った。


「なあ」


「ん?」


「今日、物置もう一回見るか」


 自然に言葉が出る。


 昨日の続き。


 当たり前の流れ。


「……いいけど」


 修二は短く答えた。


 それで十分だった。


 俺は頷く。


 台所へ向かう。


 その途中で、


 ほんの一瞬、足が止まる。


 何かを忘れている気がした。


 大事な何か。


 決定的な何か。


 だが、


 思い出せない。


 考えようとして、


 やめる。


 必要ない。


 そう判断する。


 困ることは何もない。


 今のままで、問題ない。


 俺は歩き出す。


 何事もなかったように。


 ――その背中を、


 修二が、名前で呼んだ。


 俺は、迷わず振り返った。

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