第6章 第3話「呼称」
物置を出たとき、外の光がやけに白く見えた。
さっきまでの暗さに目が慣れていたせいかもしれない。
それでも、
どこか“現実味が薄い”。
そんな感覚が残る。
俺はそのまま家の方へ戻った。
足取りは、少しだけ重い。
考えがまとまらない。
いや、
まとまりかけているからこそ、止めたい。
そんな状態だった。
――こういちは、ぼくじゃない。
あの言葉が、頭の中で何度も反芻される。
否定したい。
だが、
否定できる材料がない。
むしろ、
ここまでの違和感すべてが、
あの一文に繋がってしまう。
玄関を開ける。
家の中の空気が、また重くなる。
さっき感じた軽さが、嘘みたいに消える。
やはり、
この家の中だけが、
何かおかしい。
*
居間に入ると、修二がいた。
さっきと同じ位置。
同じ姿勢。
だが、
視線だけがこちらに向いている。
「どこ行ってた」
短い問い。
「物置」
「……ああ」
それだけで、会話が途切れる。
いつもなら気にならない沈黙。
だが、今は違う。
その“言葉の少なさ”が、
妙に意味を持っている気がする。
俺はそのまま座らず、
立ったまま、修二を見た。
「なあ」
「ん?」
「俺のこと、呼んでみてくれ」
また、同じ問い。
だが、今度は意図がはっきりしている。
修二は少しだけ眉をひそめた。
「なんだよ急に」
「いいから」
視線を外さずに言う。
逃がさないように。
修二は一瞬だけ黙って、
それから口を開いた。
「……おい」
それだけだった。
「それじゃなくて」
「じゃあなんだよ」
「名前で」
言った瞬間、
空気がほんのわずかに止まった。
気のせいかもしれない。
だが、
確かに何かが引っかかった。
修二は視線を逸らした。
考えている。
いや、
“探している”。
そんな感じがする。
「……こう――」
そこまで言って、
修二は一瞬だけ言葉を止めた。
喉の奥で、引っかかったみたいに。
ほんのわずかな空白。
だが、
それは明らかに“不自然”だった。
「……こういち」
言い直すように、そう言った。
その瞬間、
違和感が、はっきりと形になった。
それは、
“違う”。
理由は説明できない。
だが、
間違っていると断言できる。
「……違うな」
気づけば、そう言っていた。
修二が顔を上げる。
「は?」
「それ、違う」
「何が」
「今の呼び方」
修二は露骨に困惑した顔をした。
「いや、だってお前――」
「違う」
強く言う。
言い切る。
その瞬間、
自分の中で何かが決定した。
“こういち”じゃない。
少なくとも、
今ここにいる俺は。
修二はしばらく黙っていた。
何かを考えている。
あるいは、
“整合を取ろうとしている”。
「……じゃあ、なんだよ」
低い声で言う。
「お前の名前」
その問いが、静かに落ちる。
俺は答えようとした。
口を開く。
だが、
やはり出てこない。
音にならない。
頭の中には、何も浮かばない。
空白。
完全な空白。
ただ一つ、
“そこにあったはず”という感覚だけが残っている。
「……」
沈黙が伸びる。
修二は、じっとこちらを見ている。
試すように。
見極めるように。
その視線が、やけに重い。
「……言えないのか」
ぽつりと、修二が言った。
責めるでもなく、
ただ事実を確認するみたいに。
俺は何も言えなかった。
言えない。
それが答えだった。
そのとき、
ふと、思う。
――こいつは、知っているのか?
俺の“本当の名前”。
それとも、
こいつも知らないのか。
どちらだ。
どちらなんだ。
*
俺はそのまま居間を出た。
これ以上ここにいると、
何かが崩れる気がした。
廊下を歩く。
足音が響く。
その音が、
ひとつじゃない気がした。
ほんの一拍、
遅れて重なる音。
俺は立ち止まる。
耳を澄ます。
静かだ。
だが、
さっき確かに、
“ズレていた”。
俺はそのまま奥の部屋へ向かった。
段ボール。
写真。
あの空間。
何かがあるとすれば、そこだ。
襖を開ける。
部屋は、昨日と同じ。
変わっていない。
はずなのに、
空気だけが違う。
少しだけ、
“詰まっている”。
そんな感覚。
俺は段ボールの前に座った。
新聞紙をめくる。
写真の束。
一枚ずつ確認する。
二人。
二人。
二人。
やはり、三人の写真はない。
最初から存在しなかったみたいに。
だが、
俺は知っている。
“あった”。
確かに。
その確信だけが残っている。
そのとき、
一枚の写真に手が止まった。
庭。
昼間。
俺と修二。
二人で写っている。
何度も見た構図。
そのはずなのに、
今日は違って見えた。
少しだけ、
“余白”がある。
本来なら、
そこに誰かが立っているはずの位置。
その空間が、
やけにくっきりしている。
俺はその部分を、指でなぞった。
何もない。
ただの紙。
だが、
触れた瞬間、
ほんのわずかに、
“抵抗”がある。
空気ではない。
だが、
形を持たない何か。
昨日と同じ感覚。
「……いる」
無意識に、声が出た。
ここに。
この位置に。
確かに、いた。
いや――
いる。
俺はゆっくりと写真を裏返した。
白い面。
何もない。
はずだった。
だが、
今は違う。
うっすらと、
文字が浮かんでいる。
かすれている。
消えかけている。
それでも、
読める。
今なら、
読めてしまう。
俺は息を止めて、
それを見た。
そこに書かれていたのは、
名前だった。
ひとつ。
はっきりと。
だが、
それは、
“こういち”ではなかった。
見たことのない名前。
聞いたこともない。
なのに、
なぜか、
ひどく馴染みがある。
その矛盾が、
ゆっくりと理解に変わる。
――これが、
“俺の名前”。
そう思った瞬間、
頭の奥で、強いノイズが走った。
視界が歪む。
文字が崩れる。
形を保てなくなる。
読み取れない。
さっきまで読めていたはずなのに、
もう無理だ。
思い出せない。
完全に、消える。
「……っ」
写真を落とす。
息が荒い。
今、
確かに見た。
自分の名前を。
それなのに、
もう思い出せない。
その事実が、
はっきりと恐怖に変わる。
名前はある。
存在している。
だが、
“保持できない”。
それが、
この状態。
俺はゆっくりと顔を上げた。
部屋の中。
誰もいない。
だが、
背後に気配がある。
すぐ近く。
振り返らなくてもわかる。
同じ高さ。
同じ位置。
同じ呼吸。
――ほんの一瞬だけ、
わずかに“先に吸われた”。
俺よりも、
先に。
その違和感が、
静かに、確実に広がる。
完全に一致していたはずのものが、
わずかにズレる。
どちらが先か。
どちらが後か。
考えた瞬間、
嫌な予感がした。
俺は動かなかった。
もう、
確認する必要はない。
わかっている。
“もう一人”がいる。
そして、
そいつは、
俺と同じ名前を持っている。
――いや、
違う。
名前が違うのは、
“俺の方”だ。
その認識に至った瞬間、
全身の感覚が、わずかにずれた。
自分の輪郭が、
ほんの少しだけ、
他人のものに感じられる。
その違和感が、
静かに、
確実に、
広がっていった。




