第6章 第2話「主語の不在」
居間の空気は、変わらないままだった。
修二は新聞をめくり、俺はその向かいに座っている。
いつも通りの光景。
それなのに、
何かが決定的に欠けている。
理由は、わかっている。
――名前。
それが、この空間から抜け落ちている。
誰もそれを使わない。
必要としていないみたいに。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「……ちょっと外行ってくる」
「どこ」
「近く」
曖昧に答える。
修二は特に気にした様子もなく、「ああ」とだけ言った。
止めない。
理由も聞かない。
その態度が、逆に不自然だった。
*
外に出ると、空気がやけに軽く感じられた。
家の中だけが、重い。
そう錯覚するくらいには。
庭を抜ける。
雑草が足に触れる。
その感触が、やけに鮮明だった。
意識が、過剰に研ぎ澄まされている。
そんな感覚がある。
裏手に回ると、物置が見えた。
昨日、話に出たやつ。
木製の扉。
少し傾いている。
昔はここで遊んでいた、という記憶。
ぼんやりとだが、確かにある。
俺は扉に手をかけた。
ぎ、と鈍い音を立てて開く。
中は暗い。
埃っぽい空気が、ゆっくりと流れ出てくる。
しばらく目を慣らす。
やがて、輪郭が見えてくる。
古い道具。
段ボール。
使われなくなった家具。
どこにでもある物置の中身。
そのはずなのに、
妙に“懐かしい”。
見覚えがある、というよりも、
“ここにいたことがある”という感覚。
それが強い。
俺は中に入った。
床が軋む。
音が、やけに響く。
奥の方に、小さな机があった。
子供用の、低いやつ。
その上に、
ノートが一冊、置かれている。
妙に綺麗だった。
他のものは埃をかぶっているのに、
それだけが、最近触られたみたいに。
俺はそれに手を伸ばした。
表紙は無地。
開く。
中には、
文字が書かれていた。
子供の字。
拙い、ひらがな。
何ページか、びっしりと。
内容は、他愛もないものだった。
日記のような。
遊んだこと。
食べたもの。
誰と何をしたか。
断片的な記録。
俺はページをめくる。
その中に、
ふと、引っかかる一文があった。
――きょうも、こういちとあそんだ
その瞬間、指が止まった。
「……」
今、なんて書いてある。
もう一度、視線を落とす。
間違いない。
“こういち”。
ひらがなで、そう書いてある。
俺の名前。
のはずだ。
なのに、
違和感がある。
これは、
“俺のこと”として書かれている。
つまり、
書いた本人は、
“こういちではない”。
その事実が、
静かに確定する。
喉の奥が、ひどく冷たくなる。
ページをめくる。
別の日。
同じような記述。
――こういちと、しゅうじと、さんにんであそんだ
三人。
ここにも出てくる。
そして、
“こういち”は、
俺ではない。
いや、
俺“でもある”。
だが、
書いている側ではない。
そのズレが、
はっきりと形を持つ。
俺はページをめくる手を止めた。
視線を、下に落とす。
そこに、
名前が書いてある。
日記の最後。
小さく。
誰が書いたのかを示す、署名。
――〇〇
読める。
はずなのに。
そこだけ、
ぼやけている。
焦点が合わない。
文字として認識できない。
さっきのメモと同じだ。
読もうとすると、
ノイズが走る。
拒絶される。
俺は無意識に、息を止めていた。
これを読めば、
全部繋がる。
そうわかる。
だが、
読めない。
読むことができない。
それが、
はっきりとした“制限”として存在している。
「……っ」
思わず、ノートを閉じる。
心臓が、速い。
手が震えている。
今、何を見た。
何が書かれていた。
思い出そうとする。
だが、
やはり思考が止まる。
名前の部分だけ、
綺麗に抜け落ちる。
まるで、
そこだけ最初から存在していないみたいに。
俺はゆっくりと顔を上げた。
物置の中。
暗い空間。
その奥に、
もう一つ、違和感があった。
壁。
木の板。
そこに、
何かが刻まれている。
近づく。
手で触れる。
彫られている。
浅い傷。
文字の形。
子供の手で刻んだような、歪な線。
読める。
今度は、はっきりと。
そこには、
こう書かれていた。
――こういちは、ぼくじゃない
「……は?」
声が漏れる。
理解が、追いつかない。
もう一度見る。
同じだ。
間違いない。
“こういちは、ぼくじゃない”。
その意味を、
ゆっくりと考える。
こういち。
俺の名前。
のはずのもの。
それが、
“ぼくじゃない”。
じゃあ、
“ぼく”は誰だ。
この言葉を書いたのは、
誰だ。
そして、
“こういち”は、
誰を指している。
そのとき、
背後で、床が軋んだ。
ぎ、と低い音。
反射的に振り返る。
誰もいない。
入口は開いたまま。
光が差し込んでいる。
だが、
気配がある。
すぐ後ろに。
近い。
息がかかる距離。
俺はゆっくりと、振り返った。
何もない。
だが、
“立っている位置”だけはわかる。
そこに、
誰かがいる。
見えないだけで。
その位置に、
自分の影が重なる。
同じ形。
同じ高さ。
同じ位置。
理解が、繋がる。
――書いたのは、
“俺”だ。
だが、
“こういちじゃない俺”。
その瞬間、
頭の奥で、何かがはっきりと繋がった。
今までバラバラだった違和感が、
一つの線になる。
名前が、ズレている。
俺は、“こういち”じゃない。
なのに、
“こういちとして存在している”。
その状態。
それが、
この違和感の正体。
俺はゆっくりと、自分の手を見た。
震えている。
だが、
それが自分のものなのか、
一瞬わからなくなる。
そのとき、
背後から、
もう一つの呼吸が重なった。
ぴたりと一致する。
昨日と同じ。
いや、
もっと近い。
完全に、
“内側”から。
俺は動けなかった。
逃げることも、
振り返ることもできない。
ただ、
理解だけが進んでいく。
――俺は、
誰だ。




