第6章 第1話「未定義」
朝、目が覚めたとき、最初に浮かんだのは“違和感”だった。
理由はわからない。
だが、何かが決定的におかしい。
そんな確信だけが、はっきりとあった。
俺はしばらく天井を見つめたまま、動かなかった。
昨日のことを思い出そうとする。
夜。
部屋。
呼吸。
重なり。
――もう一人の自分。
そこまでは、はっきりしている。
だが、その先が曖昧だった。
“どっちが残ったのか”。
その結論に至る直前で、記憶が止まっている。
まるで、そこだけ切り取られたみたいに。
「……」
喉が、少しだけ乾いていた。
体を起こす。
布団の沈み方に、一瞬だけ意識が向く。
ひとつ分。
それだけだ。
当たり前のはずのそれに、わずかな安堵を覚える。
その感情自体が、気持ち悪かった。
*
居間に行くと、修二はすでに起きていた。
昨日と同じ位置。
同じ姿勢。
同じ表情。
まるで、そこだけ時間が固定されているみたいに。
「早いな」
声をかけると、修二は顔を上げた。
「お前もな」
いつも通りのやり取り。
だが、その“いつも通り”が、やけに作り物じみて感じられる。
俺はそのまま、向かいに座った。
しばらく、何も言わない時間が続く。
その沈黙の中で、
ふと、思う。
――こいつは、俺を認識しているのか?
視線が合う。
修二は、特に違和感もなくこちらを見ている。
普通だ。
いつも通り。
それなのに、
“確認したくなる”。
「……なあ」
「ん?」
「俺の名前、言ってみてくれ」
口に出した瞬間、自分でも違和感を覚えた。
なぜそんなことを聞くのか。
理由は説明できない。
だが、確かめなければいけない気がした。
修二は一瞬だけ眉をひそめた。
「は?」
「いいから」
少しだけ強く言う。
修二は肩をすくめた。
「真鍋だろ」
「下の名前は」
「……こういち」
ほんのわずかに、間があった。
気のせいかもしれない。
だが、その“間”がやけに引っかかる。
「漢字は」
「は?」
「漢字」
修二は少し考える素振りを見せた。
そして、
「……さあな」
と、言った。
「知らねえよ、そこまで」
軽い口調。
いつも通りの返し。
だが、その言葉が、妙に重く感じられた。
――知らない。
それは、本当にそうなのか。
それとも、
“思い出せない”のか。
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いても意味がない気がした。
それよりも、
自分で確かめる方が早い。
*
俺は居間の棚から、古い書類の束を取り出した。
祖母のもの。
保険証、年金関係、手紙。
その中に、
家族の名前が書かれているものがあるはずだ。
ページをめくる。
紙の音が、やけに大きく響く。
一枚一枚、確認していく。
祖母の名前。
母の名前。
父の名前。
そして――
「……」
自分の名前を探す。
あるはずだ。
どこかに。
だが、
見つからない。
ページをめくる手が、少しずつ速くなる。
雑になっていく。
それでも、見つからない。
あるはずのものが、
どこにもない。
その感覚が、じわじわと広がる。
――おかしい。
ここにないはずがない。
何かの書類に、必ず載っているはずだ。
それなのに、
“避けられている”。
そんな感じがする。
意図的に。
俺は手を止めた。
深く息を吸う。
落ち着け。
順番に確認しろ。
そう自分に言い聞かせる。
そのとき、
ふと、机の上のメモ帳が目に入った。
昨日、自分が書こうとして失敗したやつ。
ゆっくりと、それを開く。
ページには、
あの“線”が残っている。
意味のないはずの線。
だが、今は違って見えた。
それは、
“文字になりかけている”。
読める。
いや、
読めてしまう。
俺は無意識に、息を止めていた。
視線を近づける。
線をなぞる。
その瞬間、
頭の奥で、強いノイズが走った。
思考が、弾かれる。
拒絶される。
これ以上見るな、と。
「……っ」
思わずメモ帳を閉じる。
心臓が、やけに速い。
手が震えている。
今、何を見た。
何を“読もうとした”。
それを思い出そうとすると、
また、同じノイズが走る。
思考が止まる。
まるで、
そこに触れること自体が禁じられているみたいに。
俺はゆっくりと顔を上げた。
修二が、こちらを見ている。
無言で。
じっと。
「……どうした」
聞くと、修二は少しだけ首を傾げた。
「いや」
「何かあったか」
「別に」
短い返答。
だが、その視線が、妙に長く感じられる。
まるで、
何かを“確認している”みたいに。
俺は視線を逸らした。
それ以上見られていると、
何かが露呈する気がしたからだ。
そのとき、
ふと気づく。
さっきから、
自分の名前を、
一度も思い出していない。
頭の中で、
呼んでいない。
意識的に避けているわけじゃない。
なのに、
そこだけ、
綺麗に空白になっている。
「……」
試しに、口に出そうとする。
自分の名前。
当たり前に言えるはずのそれ。
だが、
声が出ない。
喉の奥で、止まる。
音にならない。
まるで、
最初から存在していない言葉みたいに。
その感覚に、
はっきりとした恐怖が生まれた。
――俺は、
なんて名前だった。
わかっているはずだ。
ずっと使ってきた。
何百回、何千回と呼ばれてきた。
それなのに、
今は、
完全に抜け落ちている。
思い出そうとすると、
ノイズが走る。
拒絶される。
まるで、
“その名前は定義されていない”とでも言うみたいに。
俺はゆっくりと、手を握った。
自分の手。
自分の体。
それは確かに、ここにある。
感覚もある。
意識もある。
なのに、
“名前だけがない”。
その状態が、
ひどく現実を歪める。
俺はもう一度、修二を見た。
「なあ」
「ん?」
「俺のこと、なんて呼んでたっけ」
自分でも、少し震えた声だと思った。
修二は、ほんのわずかに目を細めた。
考えている。
あるいは、
探っている。
「……お前は、お前だろ」
そう言った。
当たり前みたいに。
それが、
ひどく気持ち悪かった。
“名前”の代わりに、
“存在”だけが残っている。
その状態。
俺は何も言えなかった。
言葉が、続かない。
そのまま、沈黙が落ちる。
部屋の中に、
名前のないままの空気が、
静かに広がっていった。




