第5章 第4話「位相差」
その夜は、最初から眠る気がなかった。
布団には入ったが、目は閉じない。
閉じた瞬間に、あれが来る気がしたからだ。
夢か、現実か、もう区別はつかない。
ただ、“重なる感覚”だけが確実にある。
俺は仰向けのまま、天井を見ていた。
暗い。
だが、完全な暗闇ではない。
輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。
その輪郭が、ほんのわずかに揺れている。
気のせいかもしれない。
だが、もうその言葉は使わない。
使ったところで、何も変わらない。
*
呼吸を整える。
意識的に、ゆっくりと。
吸って、吐く。
そのリズムに集中する。
すると、すぐにわかる。
もう一つある。
同じリズム。
同じタイミング。
ほんのわずかもズレない。
完全に一致している。
すぐ隣。
いや、
“同じ場所”。
俺は目を閉じた。
逃げるためじゃない。
確認するためだ。
視覚を遮断する。
その代わりに、他の感覚が際立つ。
呼吸。
体温。
布団の沈み方。
すべてが、
二重になっている。
重なっている。
俺はゆっくりと右手を動かした。
布団の上。
空間をなぞる。
何もない。
そのはずなのに、
ほんのわずかに、
抵抗がある。
空気じゃない。
柔らかい、何か。
触れている。
だが、
触れた瞬間に、
境界が曖昧になる。
自分の手なのか、
相手の体なのか、
判別がつかない。
「……」
息が、少しだけ乱れる。
その乱れも、
同時に、もう一つ起こる。
完全に一致する。
俺はゆっくりと、目を開けた。
暗闇。
何も見えない。
だが、
見えないだけで、
“いる”。
その確信だけがある。
俺は、そのまま声を出した。
「……いるのか」
答えはない。
だが、
呼吸が、ほんのわずかに変わる。
俺の声に反応したように。
その反応が、
俺の内側から来ているのか、
外から来ているのか、
わからない。
「……俺、か」
口に出した瞬間、
喉の奥がひどく乾いた。
その言葉が、
やけにしっくりくる。
拒絶する理由が、見つからない。
むしろ、
それ以外の説明が成立しない。
俺はゆっくりと、上半身を起こした。
布団が沈む。
同時に、
もう一つ、沈む。
完全に一致している。
目の前の空間を見る。
暗い。
だが、
“いる位置”だけはわかる。
輪郭がある。
見えていないのに、
形がわかる。
そこに、
“俺が座っている”。
その感覚。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
目の前へ。
その“位置”に向かって。
触れる。
やはり、ある。
柔らかい感触。
温度。
生きている。
それが、
そのまま自分に返ってくる。
触れているのに、
触れられている。
完全に対称。
その状態に、
一瞬だけ理解が追いつく。
――同じだ。
同じ形。
同じ位置。
同じ動き。
だから、
区別できない。
俺はゆっくりと手を引いた。
同時に、引かれる。
動きが一致する。
ズレがない。
そのとき、
ふと気づく。
ほんのわずかな、
“違い”。
呼吸のタイミング。
完全に一致していたはずのそれが、
ほんの一瞬だけ、
ズレた。
遅れたのは――
どっちだ。
考えた瞬間、
頭の奥で、何かが軋む。
強い拒絶感。
それ以上、考えるな。
そういう感覚。
だが、
もう遅い。
その疑問は、
はっきりと形を持ってしまった。
――どっちが、先だ。
どっちが、
“元”なんだ。
その瞬間、
視界が、ぶれた。
二重に見える。
同じ部屋が、
ほんのわずかにズレて重なる。
片方が、ほんの少しだけ遅れている。
その中で、
“もう一人の自分”が、
同じようにこちらを見ている。
顔は見えない。
だが、
わかる。
完全に同じ。
違いは、
“タイミング”だけ。
ほんの一瞬のズレ。
それだけが、
二つを分けている。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……お前、いつからいる」
その問いは、
同時に、
向こうからも発せられた。
完全に同じ声で。
完全に同じタイミングで。
重なる。
区別がつかない。
どちらが先か、
わからない。
その瞬間、
強い眩暈が襲った。
意識が揺れる。
足場が崩れるみたいに。
俺は思わず目を閉じた。
閉じたまま、
呼吸だけを続ける。
乱れる。
ズレる。
そのズレが、
急に大きくなる。
さっきまで一致していたはずのものが、
合わなくなる。
噛み合わない。
どちらかが、
“後から来ている”。
その感覚が、
はっきりとした瞬間、
理解が形を持った。
――繰り返している。
同じことを、
何度も。
そのたびに、
ほんの少しだけズレている。
だから、
完全には一致しない。
その理解に到達した瞬間、
強い恐怖が湧いた。
理由はない。
だが、
“そこに行ってはいけない”という感覚だけがある。
それ以上進めば、
戻れない。
だが、
もう遅い。
理解してしまった。
俺はゆっくりと目を開けた。
部屋。
暗闇。
何もない。
呼吸は、一つだけ。
ズレは、ない。
すべてが、
元に戻っている。
そのはずなのに、
俺は確信していた。
もう、
“戻っていない”。
さっきまで、
確実に、
“二つあった”。
そして、
今は、
“どちらか一つ”になっている。
問題は――
どっちが残ったのか、
わからないということだった。




