第5章 第3話「焦点の不一致」
朝、目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
音がない。
いや、
“なさすぎる”。
耳鳴りすら、ない。
完全な無音。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
俺はゆっくりと目を開けた。
天井。
見慣れたはずの模様。
だが、
どこか違う。
木目の流れ。
節の位置。
ほんのわずかに、昨日と違う気がする。
気のせいかもしれない。
だが、
もう“気のせい”という言葉では片付けられない。
その段階は、過ぎている。
俺はゆっくりと起き上がった。
首に触れる。
跡は、まだある。
薄くはなっているが、
確実に残っている。
現実だ。
逃げ場はない。
*
居間に行く。
修二は、やはりそこにいた。
昨日と同じ位置。
同じ姿勢。
同じようにコーヒーを飲んでいる。
その光景に、既視感がある。
いや、
既視感ではない。
“再生されている”感じだ。
同じ場面が、繰り返されている。
「……おはよう」
声をかける。
修二はゆっくりと顔を上げた。
「ああ」
短い返事。
昨日と同じ。
だが、
ほんのわずかに遅れている。
一拍分だけ、反応が遅い。
俺はそのまま座った。
何も言わずに、修二を見る。
観察する。
その動き。
視線。
呼吸。
すべてを。
修二はそれに気づいたのか、
少しだけ眉をひそめた。
「……なんだよ」
「いや」
俺は言う。
「ちょっと見てただけだ」
「気持ち悪いな」
軽く言う。
その言い方も、昨日と似ている。
だが、
完全には一致しない。
ほんのわずかなズレがある。
それが逆に、
“作られた自然さ”に見えた。
俺は一度、視線を落とした。
テーブル。
傷の位置。
……違う。
昨日と、違う。
細かい傷が、一つ増えている。
いや、
増えたのか。
それとも、
“今、見えているだけ”なのか。
「……なあ」
俺は顔を上げる。
「昨日のこと、覚えてるか」
修二は少しだけ考える素振りを見せた。
「昨日?」
「ああ」
「……遺品整理だろ」
想定通りの返答。
「それ以外は?」
「別に」
「物置、行ったよな」
「行ったな」
「中、おかしかっただろ」
一瞬の間。
昨日よりも、長い沈黙。
修二はゆっくりと首をかしげた。
「何が」
“理解していない”否定。
昨日とは違う。
「広さが」
「普通だった」
「いや、違う」
俺が言うと、
修二は黙った。
考えている。
その様子がはっきりわかる。
やがて、
ゆっくりと口を開いた。
「……お前、昨日から変だぞ」
その一言で、
視点が反転する。
「変?」
「ああ」
修二は真っ直ぐこちらを見る。
「同じことばっか言ってる」
心臓が、わずかに跳ねる。
「物置がどうとか、写真がどうとか」
「……何回も言ってるのか」
「言ってる」
即答。
「昨日も言ってたし、さっきも言ってた」
記憶がない。
だが、
否定できない。
「お前、覚えてないのか」
その言葉が、
静かに刺さる。
俺は言葉を失った。
*
しばらく沈黙が続いた。
重い空気。
だが、
これは外のズレじゃない。
内側のズレだ。
「……なあ」
俺は小さく言う。
「俺、変に見えるか」
修二は迷いなく頷いた。
「ああ」
「同じこと繰り返してるし」
「……それ以外は」
「たまに、ぼーっとしてる」
言われて初めて気づく。
視界が、わずかにぼやけている。
焦点が合っていない。
「あと」
修二が続ける。
「変なとこ見てる」
視線が向けられる。
居間の一角。
何もない場所。
だが、
“余白”があった場所。
「そこ」
「……何かあるか」
「何もない」
即答。
だが、
ほんのわずかに続ける。
「でも、なんか変な感じはする」
共有される違和感。
だが、
認識は一致しない。
俺はゆっくりと、その場所を見る。
何もない。
ただの空間。
それなのに、
“そこに何かがあった”という感覚だけが残っている。
そのとき、
気づく。
修二の視線。
それが、
ほんのわずかにズレている。
同じ場所を見ているはずなのに、
焦点が合っていない。
数センチ。
だが、
確実にズレている。
――位置じゃない。
“見ている座標”が違う。
その理解が、
ゆっくりと落ちてくる。
俺は息を吸った。
その瞬間、
耳元で、
同じタイミングの呼吸が重なった。
修二じゃない。
もっと近い。
ほぼ一致する位置。
俺は動けなかった。
視線だけが、
ゆっくり横にずれる。
誰もいない。
何もない。
だが、
確実に、
“同じ座標”に、
何かがいる。
その確信だけが、
はっきりとあった。




