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3人目のわたし  作者: 無記名
第5章
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第5章 第2話「整合の破綻」


 居間に戻ってから、しばらく何も話せなかった。


 呼吸は落ち着いているはずなのに、

 胸の奥に残った違和感が抜けない。


 さっき見たもの。


 あの空間。

 あの“重なり”。


 思い出そうとすると、輪郭が崩れる。


 だが、

 “見た”という事実だけは、消えない。


 それだけが、残る。


 俺は黙ったまま座り込んだ。


 修二は台所に立ち、

 何事もなかったかのように水を飲んでいる。


 その背中が、妙に遠い。


 同じ家の中にいるはずなのに、

 距離がある。


 物理じゃない。


 埋まらない種類のズレ。


「……大丈夫か」


 振り返らずに、修二が言う。


「ああ」


 短く返す。


 声が少し掠れている。


「さっきの、何だったんだ」


 できるだけ平静に言う。


「何が」


 即答。


 迷いがない。


「物置の中」


「中がどうかしたか」


 成立しない。


 会話が。


 いや、


 最初から“共有されていない”。


「広さ、おかしかっただろ」


「別に」


「奥行きが――」


「普通だった」


 被せるように、断定。


 早い。


 俺が言い終わる前に、答えがある。


 まるで、


 “そう答えるように決まっている”。


「……いや、絶対おかしい」


「おかしくない」


 同じ強さで、同じ温度で否定が返る。


 感情が動かない。


 否定だけが存在している。


 それが、不自然だった。


「じゃあ、あの空間は何だよ」


「どの空間」


「奥の、何もないところ」


「何もなかっただろ」


「……あった」


「なかった」


 言葉が重なる。


 その瞬間、


 ぞくりとした。


 完全に一致した。


 タイミングが。


 声の立ち上がりも、終わりも。


 ズレがない。


 同じ発話を、別の口で再生したみたいに。


 俺は言葉を失う。


 修二は何もなかったようにコップを置く。


 その音だけが、

 現実に固定されているみたいに響いた。


「……なあ」


 もう一度、声を出す。


「俺が転んだの、見てたよな」


「見てた」


「どこで」


「入口のところ」


「……遠かったか?」


「普通」


 またそれだ。


 “普通”。


 基準の固定。


「距離、変じゃなかったか」


「変じゃない」


「近くなったり、遠くなったり――」


「してない」


 即座に否定。


 少しだけ苛立ちが混じる。


 だが、


 内側は動いていない。


 表面だけが反応している。


 そんな違和感。


「……じゃあさ」


 少し間を置く。


 試す。


「俺、どこで転んだ」


 一瞬だけ、修二の視線が泳ぐ。


 ほんのわずか。


 だが、確実に。


「中だろ」


「中のどこだ」


「……真ん中あたり」


 曖昧。


 それで十分だった。


「違う」


 俺は言う。


「奥だ」


「……そうだっけか」


 初めて、揺れた。


 だが、それも一瞬。


「まあ、どっちでもいいだろ」


 すぐに整う。


 修正されるみたいに。


 戻る。


 俺はそこで確信した。


 会話が壊れているんじゃない。


 整えられている。


 辻褄が合うように。


 *


 沈黙が落ちる。


 時計の音だけが響く。


 カチ、カチ、と。


 ……違う。


 わずかにズレている。


 間隔が一定じゃない。


 速くなったり、遅くなったり。


 耳を澄ます。


 確かにズレている。


「……時計、壊れてるか?」


「普通だろ」


 即答。


「ちゃんと動いてる」


 確認すらしない。


 決めつける。


 俺は立ち上がり、時計に近づく。


 針を見る。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 ――正常だ。


 さっきまでのズレが、ない。


 消えている。


 俺は理解する。


 ズレたんじゃない。


 合わせられた。


 今に。


 俺の認識ごと。


 視線を外す。


 そのとき、気づく。


 部屋の配置。


 テーブル。


 椅子。


 棚。


 ほんの数センチずつ、位置が違う。


 さっきと違う。


 昨日とも違う。


 微調整されている。


 整合が取れるように。


 俺は振り返る。


 修二が座っている。


 同じ姿勢。


 同じ位置。


 だが、


 “収まりすぎている”。


 空間に対して。


 ズレがない。


 完全に固定されている。


 だから、


 逆に浮く。


「……なあ」


 声をかける。


「お前、本当に――」


 止まる。


 言葉が続かない。


 何を確認しようとしたのか、

 途中で消える。


 思考が遮断される。


 修二がこちらを見る。


「何だよ」


 視線が合う。


 ぴたりと。


 合いすぎる。


 焦点が一致しすぎている。


 人の目じゃない。


 “合わせられた目”。


 俺は反射的に逸らした。


「……いや、なんでもない」


 踏み込めない。


 踏み込んだ瞬間、

 何かが確定する。


 そんな予感。


 *


 それ以上、会話は続かなかった。


 続けられなかった。


 言葉は途中で切れる。


 思考は途中で止まる。


 まるで、


 “そこから先”が存在しないみたいに。


 夜になっても、その感覚は消えない。


 むしろ強くなる。


 家の中が、少しずつズレていく。


 音。


 距離。


 配置。


 すべてが、わずかに噛み合わない。


 その中で、


 修二だけが安定している。


 変わらない。


 ズレない。


 最初からそうであるかのように。


 それが、一番おかしい。


 俺は布団に入る。


 目を閉じる。


 だが、眠れない。


 思考が止まらない。


 あの空間。


 あの位置。


 あの重なり。


 ――重なった。


 その言葉が浮かぶ。


 俺と、もう一人の俺が。


 同じ場所に。


 同じ形で。


 そのとき、思う。


 もし、


 あのまま立ち続けていたら。


 完全に一致していたら。


 その先を想像した瞬間、


 強い拒絶が走る。


 考えるな。


 そういう感覚。


 だが、


 別の考えが浮かぶ。


 ――もう重なっているんじゃないか。


 完全じゃないだけで。


 わずかにズレたまま、


 同時に存在している。


 だから、記憶が食い違う。


 だから、現実が補正される。


 その仮説が、妙に自然に落ちる。


 納得してしまいそうになる。


 だが、


 納得した瞬間に、


 戻れなくなる。


 俺は思考を止めた。


 目を閉じる。


 沈む。


 そのとき、


 すぐ隣で、呼吸音がした。


 ぴたりと一致する。


 俺の呼吸と。


 止める。


 止まる。


 吸う。


 吸う。


 完全に同期する。


 俺は目を開けた。


 暗闇。


 何も見えない。


 だが、


 確信だけがある。


 すぐ隣に、


 いる。


 同じ位置に。


 同じ姿勢で。


 ――“もう一人の俺”が、

 横になっている。

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