第5章 第1話「位置の誤差」
朝、目が覚めたとき、最初に確認したのは首だった。
指で触れる。
残っている。
昨日の痕跡が。
はっきりと。
夢ではない。
あれは現実だった。
そう認識した瞬間、
何かが一段階だけ深く沈む。
戻れない、という感覚。
俺はゆっくりと体を起こした。
喉の奥が、まだ軋む。
飲み込むたびに、
身体が“昨日の続きを覚えている”ことを思い出させる。
*
居間に入ると、修二はすでにいた。
昨日と同じ位置。
同じ姿勢。
同じ角度で、カップを持っている。
まるで、
そこから一度も動いていないみたいに。
「……早いな」
声をかける。
「ああ」
短い返答。
それだけ。
だが、
何かが微妙に合わない。
視線の戻り方。
間。
呼吸。
ほんのわずかに、“遅れている”。
いや、
“ずれている”。
俺は向かいに座った。
何も言わず、観察する。
修二はコーヒーを飲む。
自然な動き。
だが、
どこか“完成されすぎている”。
無駄がない。
揺らぎがない。
人間らしいブレが、ない。
その違和感が、静かに積もる。
「……なあ」
口が勝手に動いた。
「昨日、何してたっけ」
修二の手が、ほんの一瞬止まる。
それから、何事もなかったように動き出す。
「遺品整理だろ」
「それはいい」
「じゃあ何だよ」
「……その中で」
言葉を探す。
「あの写真、覚えてるか」
「どの写真」
「三人のやつ」
言った瞬間、
空気が“引っかかった”。
音にならない抵抗。
何かが、そこを通さない。
「……三人?」
修二がゆっくり言う。
確認するように。
「そんなのあったか?」
背筋が冷える。
「……あっただろ」
「いや」
修二は首を振る。
「二人の写真しか見てない」
断定。
昨日とは違う。
あのときは“曖昧”だった。
今は、“確定している”。
存在しなかったことに。
「お前も見ただろ」
「何を」
「真ん中に誰かいたやつ」
「……」
沈黙。
短いはずなのに、長い。
「……知らないな」
あまりにも自然に言う。
違和感がないことが、逆に異常だった。
「名前、出てこなかったって言ってたじゃねえか」
「誰の名前」
「だから――」
止まる。
出てこない。
やはり同じだ。
思い出そうとすると、
“そこだけ途切れる”。
記憶がないんじゃない。
“触れられない”。
「……何の話だよ」
修二の声。
わずかに苛立ちが混じる。
だがそれすら、
“用意された反応”みたいに聞こえる。
俺は口を閉じた。
理解する。
これは食い違いじゃない。
修正だ。
現実の側が、
辻褄を合わせてきている。
*
会話はそれ以上続かなかった。
成立しない。
同じ時間を共有しているはずなのに、
前提が一致しない。
それが、何よりも不気味だった。
「今日はどうする」
無理に話題を変える。
「物置だろ」
即答。
迷いがない。
それもまた、違和感だった。
*
裏手の物置へ向かう。
記憶の中と同じ場所。
同じ形。
だが、
どこか“寸法が違う”。
扉に手をかける。
冷たい。
金具の温度が、異様に低い。
「開けるぞ」
修二が言う。
頷く。
扉が開く。
ぎ、と軋む音。
中は暗い。
一歩、踏み入れる。
その瞬間、
理解が追いつかない違和感が来た。
広い。
明らかに。
外から見た寸法と、合っていない。
「……こんな広かったか」
「こんなもんだろ」
また、それだ。
“最初からそうだった”という処理。
俺は黙って中へ進む。
床が軋む。
音が遅れて返る。
距離が、合っていない。
視界の奥行きも、わずかにズレている。
そして、
それはあった。
奥の一角。
何も置かれていない空間。
不自然な余白。
人一人分。
ぴたりと収まる大きさ。
見た瞬間、わかる。
これは“空いている”んじゃない。
“抜けている”。
そこにあったはずのものが。
俺は近づいた。
一歩。
また一歩。
空気が重くなる。
呼吸が浅くなる。
目の前に立つ。
何もない。
だが、
“いる”。
確実に。
「おい」
修二の声。
遠い。
「何やってんだ」
振り返る。
距離が伸びている。
さっきよりも、明らかに。
数歩しか動いていないはずなのに。
「……ここ、変だ」
「何が」
「広さが……」
言葉にした瞬間、
それが崩れそうになる。
「気のせいだろ」
即答。
だが、
今回は違う。
これは認識の問題じゃない。
構造そのものが、ズレている。
俺は足元を見た。
床。
その空間だけ、色が違う。
擦れた跡。
円に近い形。
“立っていた痕”。
俺は、その中に足を踏み入れた。
瞬間、
呼吸が止まる。
意思じゃない。
強制的に。
そして、
背後でも、同時に止まる。
完全な一致。
もう疑いようがない。
重なっている。
ここに。
俺は、動けない。
足が固定される。
そこが、
“本来の位置”みたいに。
そのとき、
空間が歪んだ。
水面みたいに揺れる。
その中に、
人影が浮かぶ。
立っている。
こちらを見ている。
輪郭が合う。
重なる。
理解する。
――俺だ。
視界が二重になる。
ズレた二つの視点。
わずかに一致しない。
その中で、
“もう一つの自分”が、
同じ場所に立っている。
目が合う。
瞬間、
弾かれる。
身体が後ろに吹き飛ぶ。
床に倒れる。
「おい、大丈夫か」
修二の声。
遅れて届く。
時間すら、ズレている。
俺は答えられなかった。
ただ、
さっきの場所を見る。
何もない。
ただの空間。
だが、
もうわかっている。
あそこは、
“空いていた場所”じゃない。
――あれは、
“俺がずれていた位置”だ。




