第3章 第4話「位置」
押し入れを閉めたあとも、しばらくその場から動けなかった。
襖の向こうに、まだ何かがある気がする。
さっき一瞬だけ見えた“もう一冊”。
あれを確かめれば、何かがわかる。
そんな予感がある。
だが、
同時に、強い拒否感もあった。
あれに触れたら、戻れなくなる。
何に、とは言えない。
だが、“今の状態”には戻れない。
その感覚だけが、はっきりしていた。
「……どうした」
修二の声で、意識が戻る。
気づけば、襖に手をかけたまま止まっていた。
「いや……」
ゆっくりと手を離す。
それ以上、開ける気にはなれなかった。
理由は説明できない。
だが、
説明できないことばかりが増えている。
それ自体が、もうおかしい。
*
居間に戻る。
同じ場所のはずなのに、少しだけ遠い。
空気の密度が違う。
椅子に座る。
テーブルの上の紙が、視界に入る。
『ぼくは いなくなる』
その文字。
変わっていないはずなのに、
なぜか、位置だけがずれて見える。
ほんのわずかに。
見直すと、元に戻る。
俺は紙から目を逸らした。
「……なあ」
「ん」
「これ、前からあったか?」
修二は一瞬だけ視線を向けて、
すぐに逸らした。
「知らない」
短い。
それ以上触れない、という感じだった。
「俺、書いてないよな」
「だろうな」
間を置かない返答。
早すぎる。
だが、それ以上は何も言わない。
俺も、続けなかった。
続けると、何かが決まってしまう気がした。
*
時間が、進んでいるのか止まっているのか、よくわからない。
ただ、静かだった。
静かすぎる。
外の音がしない。
風も、車も、人も。
何もない。
「……こんな静かだったか?」
修二は窓の方を見てから、言う。
「こんなもんだろ」
その答えに、違和感が残る。
だが、言い返せない。
比較ができないからだ。
そのとき、
視界の端で、何かが動いた。
反射的に見る。
廊下の奥。
誰もいない。
だが、
“今、いた”という感覚だけが残る。
俺は立ち上がった。
「どこ行く」
「ちょっと」
それ以上は言わない。
自分でも、理由が曖昧だった。
廊下に出る。
空気が、少しだけ冷たい。
歩く。
足音が、遅れて返ってくる。
一歩ごとに、わずかにズレる。
奥まで行く。
何もない。
振り返る。
居間。
修二がいる。
座っている。
こちらを見ている。
その位置に、違和感があった。
ほんのわずか。
だが、確実にズレている。
距離ではない。
配置。
“そこにいる理由”が、少しだけ合っていない。
俺は一歩、後ろに下がった。
その瞬間、気づく。
修二の後ろ。
壁までの空間。
そこに、
“もう一人分の余白”がある。
自然な空きじゃない。
最初から何かがあって、
そこだけ抜け落ちたような空間。
「……おい」
声が小さくなる。
「そこ」
指を向ける。
「何もないぞ」
即答。
迷いがない。
「違う」
言葉がうまく出てこない。
「そういう空き方じゃない」
修二は黙る。
ただ見ている。
少しだけ、目が冷たい。
「……何が言いたい」
「そこに、いたはずだ」
言葉にする。
「誰かが」
沈黙。
空気が止まる。
修二は、しばらく何も言わなかった。
やがて、
「……それ」
低く言う。
「いつからだ」
質問。
だが、確かめているような響き。
いつから。
昨日か。
もっと前か。
思い出そうとした瞬間、
頭の奥が軋んだ。
考えるな、と言われているみたいに。
俺は一歩下がった。
そのとき、
足元に違和感を覚えた。
影。
自分の影。
床に落ちている。
細長く伸びている。
……二つある。
「……は?」
見直す。
確かに、二つ。
一つは自分と同じ動き。
もう一つは、
わずかに遅れて動く。
完全には重ならない。
俺はゆっくりと手を上げた。
影も上がる。
二つとも。
だが、
片方が、ほんの少し遅れる。
まるで、
誰かが後ろから真似しているみたいに。
息が止まる。
視線を上げる。
修二が、こちらを見ていた。
その目が、変わっている。
迷いがない。
「……やっとか」
小さく言う。
その一言が、静かに落ちる。
俺は動けなかった。
足元の影から、
目を離せなかった。




