第3章 第3話「消えているはずの痕跡」
昼を過ぎても、空気は重いままだった。
時間は進んでいるはずなのに、
どこかで引っかかっている。
前に進んでいない。
そんな感覚がある。
時計を見る。
秒針は動いている。
規則正しく。
だが、
それが“正しく進んでいる”という確信が持てない。
俺は視線を外した。
今、そこを考えるべきじゃない。
テーブルの上の紙を見る。
『ぼくは いなくなる』
あの文字。
さっきよりも、はっきりしている。
気のせいじゃない。
見ようとして見えているんじゃない。
向こうから、浮かび上がってくる。
そんな感覚。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……なあ」
声はまだ掠れている。
だが、さっきよりは出る。
「昔の写真、他にもあるよな」
修二は少しだけ間を置いた。
「あるにはある」
「見せてくれ」
「今?」
「ああ」
理由は説明できない。
ただ、
“残っているもの”を確認しないといけない気がした。
残っていないものばかり見ていると、
基準が壊れる。
何が普通なのか、わからなくなる。
修二は小さく息を吐いた。
「いいけど」
立ち上がる。
「押し入れにある」
俺はその後ろをついていく。
廊下を歩く。
足音が響く。
昨日と同じはずなのに、
一歩ごとの距離が、わずかに長い気がした。
その違和感を理解するまでに、少し時間がかかる。
押し入れの前で止まる。
修二が襖を開ける。
中は暗い。
布団と箱、その奥にアルバム。
何冊か重なっている。
「これだな」
取り出す。
埃が舞う。
俺は一冊を受け取った。
重い。
中身がある重さ。
それだけで、少しだけ安心する。
“あるもの”の重さ。
今は、それが必要だった。
その場でページを開く。
写真が並ぶ。
家族、親戚、行事。
見慣れた光景。
――のはずだった。
違う。
何かが違う。
すぐにはわからない。
だが、
見ているうちに、じわじわと気づく。
「……二人だな」
呟く。
修二と、俺。
どのページも、基本はその二人。
時々、大人が入る。
祖母、親。
だが、
“子供が三人”の写真が、一枚もない。
昨日見たはずなのに。
あの一枚だけが例外だったはずなのに。
今は、それすらない。
「最初からこうだったか?」
聞く。
修二は肩をすくめる。
「さあな」
否定しない。
それが、余計に気持ち悪い。
俺はページをめくる。
一枚ずつ、確認する。
同じだ。
どれも、同じ構図。
二人。
どこかが欠けている。
その欠け方が、
不自然だ。
最初からいなかった空き方じゃない。
“消えた後”みたいな空き方。
「……おかしいだろ」
思わず言う。
「何が」
「全部二人だ」
「そういうもんだろ」
「昨日は三人だった」
「昨日はな」
あっさり返される。
まるで、
“今は違うのが当然”みたいに。
言葉が詰まる。
そのとき、
一枚の写真で手が止まった。
庭。
俺と修二。
見覚えがある。
だが、
何かが引っかかる。
視線を落とす。
自分の隣。
本来なら、何もない場所。
そこに、
わずかな違和感。
色が違う。
ほんの少しだけ薄い。
輪郭はない。
だが、
“削られている”ような痕跡。
「……これ」
修二に見せる。
「ここ、変じゃないか」
修二は覗き込む。
数秒、何も言わない。
「……どうだろうな」
曖昧な返答。
だが、
目が一瞬だけ止まった。
見えている。
そう思った。
俺はさらに目を凝らす。
角度を変える。
光が滑る。
その瞬間――
見えた。
確実に。
“人の形”。
俺の隣に、立っている。
顔までは見えない。
だが、
肩の高さ、体の幅、
そこに“誰かがいた”形が、はっきりとある。
次の瞬間、
消えた。
何もない色に戻る。
「……今、見えた」
声が低くなる。
「何が」
「いた」
言い切る。
「ここに」
指で示す。
「今、確かに」
修二は黙る。
写真を見ている。
その沈黙が、長い。
「……そう見えたなら、そうなんだろ」
やがて言う。
否定しない。
肯定もしない。
だが、
“間違いとは言わない”。
それが一番重い。
俺は写真から目を離せない。
もう一度見ようとする。
だが、
見えない。
ただの空白。
どれだけ見ても、何もない。
それなのに、
“さっき見た”という確信だけが残る。
記憶と現実が噛み合わない。
どちらが正しいのか、わからない。
そのとき、
違和感に気づく。
写真の裏。
昨日は何もなかった場所。
裏返す。
白い面。
――違う。
「……またか」
うっすらと、跡が浮かんでいる。
昨日と同じ。
だが、少しだけ濃い。
文字の形。
読める。
今度こそ。
顔を近づける。
その瞬間、
背後で音がした。
ぎ、と床が軋む。
振り返る。
誰もいない。
修二は動いていない。
視線を戻す。
白紙。
跡は消えている。
完全に。
「……消えた」
呟く。
修二は答えない。
ただ、こちらを見ている。
その視線が、
少しだけ強い。
「……なあ」
喉が引っかかる。
「これ、消えてるのか」
一拍。
「それとも……最初からなかったのか」
修二は目を細めた。
「どっちでも同じだろ」
静かな声。
だが、
重い。
「お前が見たなら、それはあった」
「でも、今はない」
「今はな」
当たり前みたいに言う。
その言い方が、
現実の輪郭を削る。
“ある”と“ない”の境界が、
崩れる。
俺は何も言えなくなった。
写真を持つ手が震える。
確かに見た。
さっき、そこにいた。
なのに、今はいない。
消えたのか。
最初からなかったのか。
それとも――
見てはいけないものを、見ているのか。
その可能性が浮かぶ。
背筋が冷える。
俺は写真を戻した。
アルバムを閉じる。
さっきより軽い気がする。
中身は変わっていないはずなのに。
それが、ひどく不安だった。
押し入れに戻す。
襖を閉める。
そのとき、
奥に、もう一冊見えた気がした。
さっきはなかったはずのもの。
手を伸ばしかけて、止める。
触れてはいけない。
はっきりと、そう思った。
ゆっくりと手を引く。
これ以上は、確かめない。
ここから先は、
戻れなくなる。




