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3人目のわたし  作者: 無記名
第3章
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第3章 第2話「書けない名前」


 居間に戻っても、空気は変わらなかった。


 さっきまでと同じはずなのに、

 どこか一段、深く沈んでいる。


 テーブルの上に紙を置く。


 物置で見つけた、一枚。


 『ぼくは いなくなる』


 歪んだ文字。

 子供の字。


 なのに、

 視線を固定すると、妙に整って見える。


 少し目を逸らすと、

 また崩れる。


 見方によって形が変わるみたいだった。


 ――安定しない。


 それが、妙に気持ち悪い。


 喉の奥に違和感が残っている。


 完全には出ないが、かすれた音なら出る。


 それでも、

 何かが“引っかかっている”感覚だけは消えない。


 俺はペンを手に取った。


 理由ははっきりしている。


 確かめるためだ。


 名前。


 あの写真に写っていた“もう一人”。


 それが誰なのか。


 紙に書けば、出てくるかもしれない。


 そう思った。


 そう思わなければ、

 先に進めない気がした。


 白いページを開く。


 ペン先を落とす。


 ――思い出せ。


 頭の奥で、軋む音がした。


 昨日よりも、はっきりと。


 それでも、止めない。


 一画目。


 線が引かれる。


 歪まない。


 二画目、三画目。


 形が整っていく。


 今度は書ける。


 そう思った。


 だが――


「……なんだこれ」


 出来上がったものは、


 “読めなかった”。


 文字の形はある。


 バランスも整っている。


 だが、


 どの文字にも属していない。


 見たことがない。


 それなのに、


 どこかで“知っている”気がする。


 その曖昧さが、

 強く不快だった。


 俺はもう一度書こうとする。


 今度こそ、名前を。


 だが、


 ペンが止まる。


 進まない。


 進もうとした瞬間、


 喉の奥が締まった。


「……っ」


 息が詰まる。


 反射的に首を押さえる。


 その瞬間、


 同じ力が、内側から返ってきた。


 ぐ、と。


 押し返される。


 外からではない。


 内側から。


 自分の中にある何かが、

 同じ場所を掴んでいる。


 呼吸が乱れる。


 視界が揺れる。


「やめろ」


 すぐ横から、修二の声。


 気づいたときには、

 隣に立っていた。


 俺は手を離す。


 空気が一気に流れ込む。


 咳き込む。


 喉が焼けるように痛い。


「……何やってんだ」


 低い声。


 怒りではない。


 明確に、“止めている”。


「書こうと……」


 かすれた声が出る。


「名前を」


 修二は一瞬黙った。


 それから、小さく息を吐く。


「無理だろ」


 あっさりとした口調。


 だが、断定している。


「なんで」


「出てこないものは、出てこない」


「でも――」


「書けないだろ」


 被せる。


 強い言い方だった。


 俺は黙る。


 否定できない。


 実際、書けていない。


 書いたはずなのに、


 読めない。


 それは、


 “書けていない”のと同じだった。


「……昔も、やってた」


 修二がぽつりと言う。


 反応が遅れる。


「昔?」


「ああ」


「どういう意味だ」


 修二は視線を逸らした。


 少しだけ間を置く。


「名前、書こうとしてた」


「何回も」


 胸の奥がざわつく。


 そんな記憶はない。


 だが、


 完全に否定できない。


 何かが引っかかる。


「でも、書けなかった」


「途中で止まるか、変な字になるか」


 今と同じだ。


 いや、


 “同じことが繰り返されている”。


 そんな感覚。


「……誰の名前だよ」


 絞り出す。


 修二は答えない。


 数秒の沈黙。


 それから、


「さあな」


 また、それだ。


 だが、


 今度ははっきりわかる。


 逃げている。


 俺はテーブルの紙を見る。


 『ぼくは いなくなる』


 その文字。


 違和感がある。


 線をなぞる。


 歪んでいる。


 だが、


 さっき自分が書いた“読めない文字”と、


 似ている。


「……同じだ」


 小さく呟く。


 修二が反応する。


「何が」


「これと……さっきの」


 紙を示す。


 修二は一瞬だけ目を細めた。


 ゆっくりと視線を落とす。


 確認するように。


 数秒。


 やがて、


「似てるな」


 短く言う。


「……似てるで済むか?」


「さあな」


 曖昧なまま。


 だが、


 わずかに表情が硬い。


 俺は紙を見つめる。


 子供の字。


 だが、


 自分の線と重なる。


 その一致が、


 意味を持ち始める。


「……これ」


 喉が引っかかる。


「俺、か?」


 その瞬間、


 空気が止まった。


 音が消える。


 修二は何も言わない。


 否定しない。


 肯定もしない。


 ただ、


 黙っている。


 その沈黙が、


 答えだった。


 俺はゆっくりと首に手を当てる。


 残っている圧迫の跡。


 消えかけた痕。


 それが、


 誰の手なのか。


 考えるまでもないところまで来ている。


 だが、


 まだ、はっきりとはしない。


 しないようにしている。


 俺は手を離した。


 これ以上は考えない。


 ここで繋がったら、


 戻れなくなる気がした。


 テーブルの上の紙。


 そこに書かれた文字が、


 さっきよりも、


 わずかに濃く見えた。

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