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3人目のわたし  作者: 無記名
第3章
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第3章 第1話「残らない記録」


 物置は、家の裏手にあった。


 記憶の中では、もう少し大きかった気がする。


 だが、実際に目の前にあるそれは、

 人が一人入ればいっぱいになるような、古びた小屋だった。


 木製の扉は歪み、蝶番が錆びついている。

 手をかける前から、中の空気が淀んでいるのがわかった。


「開くか?」


 後ろから、修二の声。


 俺は一瞬だけ躊躇ってから、頷いた。


 取っ手に手をかける。


 ざらついた感触。


 ゆっくりと引く。


 ぎ、と嫌な音がして、扉が開いた。


 中は暗い。


 光がほとんど入らない。


 だが、完全な闇ではない。

 外から差し込む細い光が、埃を浮かび上がらせている。


 空気が重い。


 長い間、閉じられていたような匂い。


 だがそれだけじゃない。


 もう少し、別の何かが混じっている。


 言葉にできない。


 ただ、鼻の奥に引っかかる。


「懐かしいな」


 修二が言った。


「ここ、よく入ってたよな」


 その言葉に、引っかかる。


「……そうだっけ」


「覚えてないか」


 あっさりと返される。


 覚えているような気もする。


 だが、具体的な記憶が浮かばない。


 ただ、


 “ここにいたことがある”という感覚だけが残る。


 俺は一歩、中に入った。


 床が軋む。


 足元に何かが転がっている。


 古い箱、錆びた道具、使い道のわからない雑貨。


 どれも埃をかぶっている。


 時間が止まっているみたいだった。


 その中に、


 妙に新しく見えるものが一つあった。


 棚の奥。


 ノート。


 他の物よりも、明らかに状態がいい。


 埃の積もり方も、少し違う。


 まるで、最近触れられたみたいに。


 俺はそれに手を伸ばした。


 指先が、わずかに震えている。


 理由はわからない。


 ただ、触れてはいけない気がした。


 それでも、


 触れた。


 ぱさり、と軽い音。


 ノートは思っていたより軽かった。


 表紙に、何も書かれていない。


 真っ白。


 不自然なほどに。


 俺はゆっくりと開いた。


 最初のページ。


 何もない。


 次のページ。


 何もない。


 その次も、その次も。


 全部、白紙だった。


「……なんだこれ」


 思わず呟く。


 こんな状態で、ここに置かれている意味がわからない。


 書かれていないノート。


 それ自体はおかしくない。


 だが、


 “ここにある理由”が、まったく想像できない。


「何も書いてないのか」


 修二が覗き込む。


「ああ」


「新品か?」


「……いや」


 違う。


 そうじゃない。


 新品なら、こんな場所に置かれているはずがない。


 それに――


 ページの端が、わずかに擦れている。


 めくられた跡がある。


 使われた形跡はある。


 なのに、


 中身だけが“ない”。


 その不自然さに、背筋が冷たくなる。


 俺はページをめくる手を止めた。


 視線を落とす。


 白い紙。


 何も書かれていないはずなのに、


 どこか“濃淡”がある気がする。


 光の加減か。


 そう思って、角度を変える。


 その瞬間、


 見えた。


 うっすらと。


 押し付けられたような、跡。


 文字の形。


 インクではない。


 消えたわけでもない。


 最初から“書かれていない”のに、


 “書かれていた痕跡だけが残っている”。


 そんな不自然な状態。


「……」


 息が止まる。


 目を凝らす。


 読めそうで、読めない。


 だが、


 確実に“文字”だ。


 複数行にわたって、何かが書かれている。


 いや、


 “書かれていた”。


 その中に、


 一つだけ、強く残っている部分があった。


 他よりも深く、紙に刻まれている。


 名前のように見える。


 短い。


 二文字か、三文字。


 俺は無意識に顔を近づけた。


 読める。


 もう少しで読める。


 そのとき、


 指先に、違和感が走った。


 ノートの上に置いたはずの指が、


 わずかに、動く。


 自分の意思とは関係なく。


 なぞるように。


 線を、追う。


「……やめろ」


 思わず、小さく呟く。


 だが、止まらない。


 指先が、


 “そこにあるはずの線”を、


 正確に辿っていく。


 見えていないはずなのに、


 形がわかる。


 書き順まで、


 思い出しているみたいに。


 その瞬間、


 紙の上で、


 ほんの一瞬だけ、


 線が“浮かんだ”。


 淡く。


 薄く。


 だが、確かに。


 俺は息を呑む。


 今、


 出た。


 自分の指がなぞった場所に、


 文字が現れた。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに消える。


 だが、


 確かに“今、書かれた”。


 いや――


 “書き直された”。


 そんな感覚。


「やめとけ」


 修二の声が、すぐ横で落ちた。


 低い。


 はっきりとした制止。


 俺は反射的に手を止めた。


 距離が近い。


 いつの間にか、すぐ後ろに立っている。


 表情が、読めない。


「……なんで」


 かすれた声が出る。


 修二は一瞬だけ視線を落とした。


 ノートを見る。


 それから、俺を見る。


「読めないだろ」


 短く言う。


「無理に触るな」


 “見る”じゃない。


 “触るな”。


 その言い方が、妙に引っかかる。


 俺はノートに視線を戻した。


 さっきまで見えていた跡が、


 もうない。


 完全な白。


 何もなかったみたいに。


 だが、


 指先だけが覚えている。


 さっき辿った形を。


「……今、あったよな」


 確認するように言う。


 修二は少しだけ肩をすくめた。


「さあな」


 曖昧な返答。


 だが、


 否定はしない。


 俺はノートを閉じた。


 手の中で、その軽さがやけに際立つ。


 中身がない。


 内容だけが抜け落ちている。


 そんな感覚。


 それを元の場所に戻す。


 棚の奥。


 さっきと同じ位置。


 そのとき、


 棚の隅に、小さな箱があることに気づいた。


 ノートの影に隠れていた。


 さっきは見えなかったはずだ。


 俺はそれを手に取った。


 木製の箱。


 鍵はかかっていない。


 軽い。


 中身がほとんどないような重さ。


 ゆっくりと開ける。


 中には、


 古い紙切れが一枚だけ入っていた。


 折りたたまれている。


 慎重に開く。


 中に書かれていたのは、


 子供の字だった。


 歪んだ線。


 不揃いな大きさ。


 誰が見ても、子供の書いたものだとわかる。


 その内容を見た瞬間、


 息が止まった。


 そこには、


 こう書かれていた。


 『ぼくは いなくなる』


 それだけ。


 それだけなのに、


 異様に重い。


 俺はしばらく、その文字を見つめていた。


 頭の奥が、じわじわと痛む。


 その字に、見覚えがある。


 “見たことがある”じゃない。


 もっと近い。


 書いたことがある。


 そんな感覚。


 線の震え方。


 はね方。


 ひらがなの崩れ方。


 どこで、じゃない。


 これは――


 昔の俺の字に、似ている。


「……それ」


 修二が、低く言う。


 俺は顔を上げる。


 修二の視線は、紙に向いていた。


 一瞬だけ、表情が崩れる。


 すぐに戻る。


「見つけたのか」


 その言い方。


 まるで、


 “あることを知っていた”みたいに。


「……これ、誰のだ」


 聞く。


 修二は答えない。


 数秒の沈黙。


 そのあと、


「さあな」


 また、同じ返事。


 だが、


 今度は明らかに違う。


 知っている。


 知っていて、言わない。


 その確信が、はっきりと残る。


 俺はもう一度、紙を見る。


 『ぼくは いなくなる』


 その文字が、


 ほんのわずかに、


 “なぞられた”ように見えた。


 さっき触れた指先と、


 同じ動きで。

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