第2章 第6話「覚えている癖」
朝の空気は、やけに静かだった。
窓の外は明るい。
昨日と同じ光のはずなのに、
どこか一枚、膜を挟んだみたいに遠い。
喉の違和感は、消えていなかった。
痛みはない。
腫れている感じもない。
それでも、
“そこにある”。
触れなくてもわかる。
内側に、残っている。
俺は無意識に、首に手を当てていた。
指先で辿る。
皮膚は普通だ。
だが、
ほんの少し力を入れた瞬間、
奥で、鈍い圧が返ってくる。
押されている。
あるいは、
“押されていた動きが、まだ続いている”。
どちらなのか、わからない。
手を離す。
それ以上触れるのは、よくない。
触れていると、
そこに“形が出る”気がした。
*
居間に行くと、修二はすでに座っていた。
昨日と同じ場所。
同じ姿勢。
まるで、時間が止まっているみたいだ。
「……」
声は出ない。
喉が動かない。
俺は軽く手を上げる。
修二はそれを見て、小さく頷いた。
「まだ出ないか」
頷く。
「そうか」
それだけ。
驚きはない。
確認しているだけ。
その反応が、妙に引っかかる。
俺は台所で水を飲む。
通る。
問題ない。
だが、
通るたびに、
“そこをなぞられている”感じがする。
外からじゃない。
中から。
居間に戻ると、修二がこちらを見ていた。
少しだけ目を細めている。
「……なあ」
低い声。
俺は顔を上げる。
「お前、昔からやってたよな」
一瞬、意味がわからない。
何の話だ。
そう聞こうとして、
声が出ないことを思い出す。
眉をひそめる。
修二は少しだけ間を置いた。
「……覚えてないか」
その言い方。
“あるはずのもの”に対する言い方。
俺は首を振る。
「首」
修二が言う。
「触る癖」
背中に、冷たいものが走る。
無意識に手が動く。
首に触れる。
同じ場所。
違和感。
「ほら」
修二が顎で示す。
「今もやってる」
言われて初めて気づく。
自分が、どれだけ繰り返しているか。
意識していなかった。
いや、
“止められていなかった”。
俺はゆっくり手を離す。
だが、
離した瞬間、
逆にその場所がはっきりする。
触れていないのに、
“触られている側”の感覚が残る。
「昔からだよ」
修二が続ける。
「気づいたら触ってる」
淡々としている。
だが、
どこか引っかかる。
「……いつから」
かすれた声が、ようやく出た。
弱い。
自分の声じゃないみたいだ。
修二は一瞬だけ黙る。
「さあな」
視線を逸らす。
「気づいたときには、もうそうだった」
曖昧。
だが、
“知っているやつの濁し方”。
俺は喉に手を当てる。
今度は、少し強く。
押す。
その瞬間、
同じ動きが、
内側から返ってくる。
ぐ、と。
完全に一致する力。
タイミングも、
位置も。
「……っ」
息が詰まる。
手を離す。
だが、
“内側の手”は一瞬遅れてから離れた。
ほんのわずかなズレ。
それが、
はっきりと異常だった。
「やめとけ」
修二が言う。
短く。
強く。
「悪化するぞ」
昨日と同じ言葉。
だが、
今は違う。
“知っている前提”で言っている。
俺は修二を見る。
目が合う。
一瞬だけ、
何か言いかけた顔になる。
だが、やめる。
「……なんだよ」
かすれた声。
修二は視線を外す。
「いや」
「別に」
それで終わる。
沈黙。
重い。
もう、
ごまかしが効かない種類の沈黙。
俺は立ち上がる。
足元が、わずかにずれる。
体の中心が、少し違う場所にある。
洗面所へ向かう。
鏡を見るために。
確かめたい。
“何もない”か、
それとも――
鏡の前に立つ。
自分の顔。
少し青い。
ゆっくり視線を下げる。
首。
何もない。
そのはずだった。
角度を変える。
光がずれる。
その瞬間、
浮かび上がる。
うっすらとした線。
細い。
指の形に似ている。
圧迫の跡。
「……」
声は出ない。
出るはずがない。
ただ、
それが“そこにある”。
確実に。
そのとき、
ふと気づく。
その線が、
ゆっくりと、
“深くなっている”。
さっきよりも。
ほんのわずかに。
だが、確実に。
俺は息を止めた。
見間違いじゃない。
今、
この瞬間も、
“続いている”。
首に、触れていないのに。
触れている。
どこかで。
俺の知らない位置で。
その認識が浮かんだ瞬間、
喉の奥で、
わずかに何かが動いた。
形を作る。
発声の準備。
意思とは関係なく。
――こ。
音にはならない。
だが、
確かにそこにあった。
俺は鏡から目を逸らした。
もう見ていられなかった。
理解してしまうからだ。
これは、
昔の癖なんかじゃない。
違う。
これは――
“まだ終わっていない動き”だ。




