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寒いだろ。座んな― Café Lumen 外伝 / 夏凪のはじまり ―  作者: Noct
第一部 逃げてきた夜 

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第三章 港町の灯りが、なぜか少しだけ怖くなかった。

まっすぐな灯りを、怖くないと思えた夜のこと。


 扉を開けた瞬間、匂いがした。

 コーヒーと、古い木の匂い。

 それから、本の匂い。

 三つが混ざって、独特の空気になっていた。どこかで嗅いだことがある気がした。けれど、どこで嗅いだのかは、思い出せない。ただ、知っている匂いだった。

 夏輝は、敷居をまたいだところで、足を止めた。

 店の中は、思ったより静かだった。

 照明が落ち着いている。明るすぎず、暗すぎず、手のひらの形がちょうどわかるくらいの灯りだった。木のカウンターがあって、数脚の椅子がある。窓際に、小さなテーブルがふたつ。壁の棚には、本が並んでいた。背表紙の色が、少しずつあせて、それがかえって、そこに長く居る本たちの顔に見えた。

 奥に、人がいた。

 カウンターの中で、カップを拭いている人がいる。

 四十代くらいだろうか。白髪が少し混じった髪。エプロン姿。男の人だった。

 その人が、顔を上げた。

 目が合った。

 夏輝の体が、一瞬、固まった。

 気づかれたか、と思った。

 帽子とマスクの隙間から、目だけが出ている。その目を、まっすぐに見られている。心臓が、胸の前の小さな体に聞こえそうなくらい、大きく鳴った。

 けれど、その人は、何も言わなかった。

 カップを拭く手を、ほんの少しだけ止めて、それから、また拭き始めた。

「いらっしゃい」

 それだけだった。

 ゆっくりした声だった。急かさない声。確認しない声。

 夏輝は、少し間を置いてから、「すみません」と言った。声が、思ったより掠れていた。

 それから、中へ入った。

 背後で、扉が静かに閉まった。ベルが、もう一度だけ、小さく鳴った。

 カウンターの前の椅子に座った。

 座った瞬間、体の力が、すうっと抜けた。

 気づかなかったけれど、ずっと張り詰めていたらしかった。肩が下がる。背中が、椅子の背もたれに、そっと触れる。膝のあたりが、ふにゃりと緩んだ。

 まるで、長い間ずっと息を止めていた人間が、ようやく水面から顔を出したみたいに。

 抱っこ紐の中の小さな宇宙人が、もぞりと動いた。

また、起きかけている。

 まずい、と思った。こんな静かな店で、泣かれたら。

 夏輝は、抱っこ紐の上から手を当てた。軽く、揺するみたいに。体ごと、ゆっくり左右に動かす。椅子が、ほんの少しだけ軋んだ。

 小さな宇宙人は、うー、と一度だけ言って、また眠った。

 すぴー。

 夏輝は、ほっと息を吐いた。

 カウンターの向こうの人が、豆の袋を手に取った。

何も聞かなかった。

 ホットかアイスか。何がいいか。そういうことを、何ひとつ聞かなかった。ただ、豆を量って、挽き始めた。

 夏輝は、それを見ていた。

 ごりごり、と、豆を挽く音がした。細かい粒が崩れる音。それから、湯気の立つ薬缶から、お湯が細く注がれる音。

 静かな店の中で、その音だけが、続いた。

 夏輝は、帽子のつばを、少し下げた。

 気づいてるかもしれない。

 そう思った。

 有名人、というほどではないかもしれないけれど、それなりに顔は知られている。テレビドラマに出ている。雑誌にも出ている。二十歳の若い俳優として、名前が出回っている。

 この人も、知っているかもしれない。

 知っていて、気づいていて、それでも何も言わないのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ、怖かった。

 その怖さを、夏輝は、カウンターの木目を数えることで、やり過ごした。

 一、二、三。

 木目は、年輪みたいに、ゆるやかな波を描いていた。

 コーヒーが来た。

 カウンターに、静かに置かれた。白いカップから、湯気が、ゆっくり上がっていた。

「ありがとうございます」

 夏輝は、言った。

 カウンターの人は、少し頷いて、また奥の作業に戻った。

 夏輝は、カップを両手で持った。

 温かかった。

 厚みのある陶器の肌が、手のひらにじんわり熱を伝えてくる。指先の、凍っていた部分が、少しずつ溶けていく。

 その温かさが、今夜、初めて、手に届いた温かさだった。

 コーヒーを、一口飲んだ。

 苦くて、少し甘い後味がした。

 舌の上で、苦さがほどけて、そのあとから、ほんのり丸い甘みが広がる。喉を通ると、胸のあたりまで、じわりと温かさが降りていった。

 生きている、と、体が言った気がした。

 変なことを考えたな、と思った。

 けれど、変だとは思わなかった。

 沈黙が、続いた。

 店の中には、他に客がいなかった。

 夏輝と、カウンターの人と、眠っている、世界で一番小さい妖精だけが、この空間にいた。

 波の音が、外から聞こえた。

 海が近いから、波の音がする。一定のリズムで来て、引いていく。その繰り返しが、店の中の静けさに混ざっていた。

 夏輝は、窓の外を見た。

 夜の路地が見えた。石畳が、濡れて光っていた。さっきまで気づかなかったけれど、雨上がりらしかった。いつ降ったのか、いつ止んだのかも、知らなかった。

 ずっと、それどころじゃなかった。

 夏輝は、カップの縁を指でなぞった。

「……一つ、聞いていいですか」

 カウンターの人が、顔を上げた。

「まだ、やってますよね。この店」

「やってる」

「夜遅くまで、開けてるんですか」

「気が向いたら閉める」

「気が向いたら」

「うん」

 夏輝は、少し考えた。

 それから、聞いてしまった。

「それ、商売として、大丈夫なんですか」

 カウンターの人は、少し間を置いた。

「さあ」

「さあ」

「来てくれる人がいる間は、続く」

 夏輝は、その言葉を聞いた。

 なんとなく、それ以上は聞けなかった。

 大丈夫なのかどうかより、その答え方のほうが、ずっと大事な気がした。

 カウンターの人は、また、カップを拭き始めた。きゅ、きゅ、と、布が陶器をこする音がした。

 コーヒーを飲みながら、夏輝は、考えていた。

 いや、考えようとして、できなかった。

 さっきまで、頭の中に、色々あった。事務所のこと、仕事のこと、世間のこと、これからのこと。全部が、渦を巻いていた。

 けれど今、不思議なことに、静かだった。

 この店の中だけ、静かだった。

 波の音がある。コーヒーの匂いがある。古い木の感触がある。それだけがある。

 余計なものが、ない。

 夏輝は、カウンターの端を、指でなぞった。

 何十年も使われてきたような、木の表面。小さな傷が、いくつも入っている。けれど、丁寧に、手入れされていた。艶が出ている。誰かが、毎日、拭いてきた艶だった。

「この店、古いんですか」

 また、聞いていた。

「まあまあ」

「何年くらい」

「覚えてない」

「覚えてないんですか」

「気がついたら、ここにいた」

 夏輝は、その答えを聞いた。

 変な答えだと思った。

 けれど、なんとなく、わかる気がした。

 気がついたら、ここにいた。

 夏輝も、今夜、気がついたら、ここにいた。

 抱っこ紐の中で、小さな宇宙人が、また動いた。

 今度は、少し大きく動いた。うなり声が出る。足が、ばたつく。目が、覚めそうだった。

 夏輝は、立ち上がりかけた。

 泣かれたら外に出よう、と思った。こんな静かな店で泣かせてしまったら、申し訳ない。

 けれど、その前に、宇宙人は、また眠った。

 すぴー。

 夏輝は、椅子に座り直した。膝が、少し笑っていた。

 カウンターの人が、こちらを見た。

「赤ちゃん」

「あ、はい。すみません、連れてきてしまって」

「構わない」

「眠っていれば、ご迷惑にならないかと思いまして」

「泣いても構わないよ」

 夏輝は、少し驚いた。

「泣いても、ですか」

「赤ちゃんは、泣くものだから」

 それだけだった。

 特別な優しさで言っているわけじゃなかった。ただ、当たり前のことを、当たり前に言っている、みたいな声だった。

 でも、夏輝には、その当たり前が、今夜一番の言葉だった。

 泣いてもいい。

 泣くものだから。

 それは、赤ん坊のことだけを言っているのではない気がした。けれど、夏輝はその先を、考えないことにした。

「……そうですね」

 夏輝は、コーヒーを一口飲んだ。

 今度は、さっきより、深く飲めた気がした。

 しばらく、また沈黙が続いた。

 夏輝は、自分がなぜここに入ったのか、少し考えた。

 灯りが、まっすぐだったから。

 それだけだった。

 夜の中で、ゆらいでいない灯りが、あった。それだけで、入る気になった。

 芸能界に入ってから、ゆらいでいない場所を、探し続けていた気がする。カメラの前でも、取材の場でも、どこかが、いつもゆらいでいた。期待されている自分と、実際の自分の間が、いつも少しだけ、ずれていた。

 でも、今夜、この店は、そのずれを気にしなくて済む空気があった。

「この町、住んでる人は、多いんですか」

 夏輝は、また聞いた。

「まあまあ」

「観光地、って感じじゃないですね」

「そうでもない」

「穏やかな町ですね」

 カウンターの人は、少し間を置いた。

「そうかもしれない」

「住みやすそう」

「まあ」

「あなたは、ずっとここに?」

「ずっとここにいる」

 夏輝は、その言葉を聞いた。

 ずっとここにいる。

 その言い方が、不思議と、羨ましかった。

 ずっとここにいられる、ということが。

「いいですね」

 思わず、言った。

 カウンターの人は、少し首を傾げた。

「何が」

「ずっといられる場所があるのが」

 カウンターの人は、何も言わなかった。

 否定もしなかった。肯定もしなかった。

 ただ、手を止めて、少しだけ、夏輝を見た。

 その目が、何かを確認しているみたいだった。けれど、何を確認しているのかは、夏輝にはわからなかった。

 コーヒーが半分になった頃、小さな宇宙人が、動いた。

 今度は、本当に目を覚ました。

 うー、という声がして、抱っこ紐の中で、手足がばたつく。

 夏輝は、慌てた。

「あ、ちょっと待て、ミルク、ミルクは」

 鞄の中を探した。哺乳瓶がある。粉ミルクがある。けれど、お湯がない。

 お湯がない。

 致命的だった。

 夏輝は、顔を上げた。

「あの、すみません、お湯って、もらえますか」

 カウンターの人が、少し間を置いて、「ある」と言った。

「本当ですか。助かります」

 お湯が、来た。

 湯気の立つ小さな薬缶ごと、渡された。夏輝は、哺乳瓶に注いで、粉ミルクを入れて、振った。ふたを締め忘れて、少し零した。

「あっ」

 カウンターの人が、無言で布巾を置いてくれた。

「……ありがとうございます」

 夏輝は、耳まで赤くなった。

 哺乳瓶の温度を、確かめた。手首の内側に、少し垂らす。産婦人科で教わった通りに。

 熱い。

 熱すぎる。

 夏輝は、哺乳瓶を持ったまま、固まった。

 それを見て、カウンターの人が、水の入ったコップを、すっと差し出した。

「これで冷ますといい」

「あ、はい、ありがとうございます」

 コップの水に哺乳瓶を浸して、くるくる回した。もう一度、手首で確かめる。

 ちょうどいい温度になった。

 夏輝は、赤ん坊を抱き直して、哺乳瓶の先を、口に当てた。

 小さな宇宙人は、一瞬だけ顔をしかめて、それから、飲み始めた。

 ごくごくと、小さな音を立てて、飲んでいた。

 夏輝は、体の力が抜けた。

「……よかった」

 小声で言った。

 カウンターの人が、少しだけ、こちらを見ていた。

 何も言わなかった。でも、見ていた。

 夏輝は、その視線に気づきながら、ミルクの匂いがする天使の、ミルクを飲む顔を、見ていた。

 真剣な顔で、飲んでいた。眉間に、小さな皺が寄っている。頬が、ぷくぷくと動く。

 この子は、今夜のことを、何も知らない。知る必要もない。ただ、眠って、目を覚まして、お腹が空いたら飲む。それだけが、今の世界の全部だ。

 それが、なぜか今夜、一番正しいことに見えた。

 ミルクを飲み終えた小さな命を、縦に抱いて、背中をトントンと叩いた。

 げっぷ、というものを出させなければいけない。看護師さんに、そう習った。

 トントン。

 トントン。

 出ない。

 トントン。

 夏輝の手に、少しずつ力が入る。

 トントン。

 出ない。

 叩く力が強すぎるのでは、と思って、弱めた。

 出ない。

 弱すぎるのでは、と思って、強めた。

「……げふっ」

 小さな音がした。

 店の中に、響いた。

 ささやかな、けれど、確かなげっぷだった。

 夏輝は、凍りついた。

 カウンターの人が、少し笑った気がした。

 夏輝は、耳の先まで熱くなった。

「すみません、静かな店で」

「構わない」

「ほんとに、静かな店で」

「いいよ」

「赤ちゃんのげっぷが」

「聞こえてる」

 夏輝は、まだ少し恥ずかしかった。けれど、同時に、笑いそうにもなった。

 笑っていいかどうか、わからなかった。

 けれど、口の端が、勝手に持ち上がった。

 ここ数日、笑う、ということを、すっかり忘れていた。それが、げっぷで戻ってくるとは、思わなかった。

 妖精は、また眠り始めていた。

 すぴー。

「……この子、本当によく寝るんです」

 夏輝は、言った。

「そうだね」

「起きてる時間のほうが、少なくて」

「赤ちゃんは、そんなものだよ」

「そうなんですか」

「ほとんど寝てる」

「知りませんでした」

 カウンターの人が、少し間を置いた。

「初めて?」

「あ、はい、子供は」

 言ってから、夏輝は、少し緊張した。

 そのあとに続く言葉を、探られる気がした。母親は、とか、いつ生まれたのか、とか。

 カウンターの人は、少し間を置いた。

「そっか」

 それだけだった。

 それ以上は、聞かなかった。

 夏輝は、そのことに、少しだけ、ほっとした。

 コーヒーを、また一口飲んだ。

 すっかり冷めていた。けれど、それでも、飲めた。

窓の外に、港町の灯りが、見えた。石畳の濡れた路地。遠くに、海の気配。夜の静けさの中に、波の音だけが続いている。

 怖くなかった。

 不思議と、怖くなかった。

 知らない町で、知らない店で、知らない人の向かいに座っている。それなのに、怖くなかった。

 なぜだろう、と思った。

 この店の灯りが、まっすぐだったからかもしれない。

 この人が、何も聞かなかったからかもしれない。

 波の音が、全部を覆ってくれているからかもしれない。

 どれが本当かは、わからなかった。

でも、今夜、この場所だけが、少しだけ怖くなかった。

 抱っこ紐の中で、妖精が眠っていた。

 すぴー。

 夏輝は、その音を聞きながら、窓の外の灯りを、見ていた。

    *

 港町の灯りが、なぜか少しだけ怖くなかった。

 逃げてきた夜に、怖くない場所があった。

 それだけで、今夜は十分だった。

何も聞かれなかった。それだけで、コーヒーは温かかった。

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