第二章 誰にも見られない場所だけを選んで、息をしていた。
見られないことを選ぶと、息は浅くなる。それでも、足は海へ向かう。
坂を下りながら、夏輝は人の目を数えていた。
癖だった。
どこへ行っても、無意識にやっている。今、何人いるか。こちらを見ている人間は何人か。カメラを持っている人間はいるか。スマートフォンをこちらに向けている人間はいるか。
芸能界に入ってから三年近く、それをやり続けてきた。
最初は怖かった。見られることが。
次に慣れた。見られることに。
やがて当たり前になった。見られることが仕事だと。
けれど今夜は、見られたくなかった。
夏輝は帽子を深く被り直した。マスクはつけている。コートの襟も立てた。変装、と呼ぶほど大げさなものではないけれど、それで十分だった経験がある。人間は、見たいと思っていない相手の顔を、案外見ない。
坂の途中で、酔っぱらったサラリーマンとすれ違った。
ネクタイを頭に巻いて、鞄を片手でぶらぶら振っている。千鳥足だった。夏輝は、思わず息を止めた。
サラリーマンは、こちらを見なかった。
見なかったどころか、電柱に向かって「おう、お疲れ」と声をかけて、通り過ぎていった。
夏輝は、止めていた息を、ゆっくり吐いた。
電柱のほうが、よほど話しかけられている。
商店街の入口まで来ると、コンビニの灯りがあった。ガラスの向こうで、店員が棚の整理をしている。自動ドアが開いて、若い男が袋を提げて出てきた。イヤホンをしている。スマートフォンの画面に、視線を落としたまま。
すれ違う。
こちらを見なかった。
夏輝の肩から、少しだけ力が抜けた。
見られていない。
その事実を、体が少しずつ飲み込んでいく。
閉まった八百屋の前を通りかかったとき、足が止まった。
視線を感じたのだ。
はっきりと、まっすぐな視線だった。
夏輝は、おそるおそる横を見た。
シャッターの前の木箱の上に、猫が座っていた。
丸い顔の、灰色まじりの猫だった。前足をきちんと揃えて、背筋を伸ばして、じっとこちらを見ている。金色の目が、街灯を受けて、小さく光っていた。
猫だった。
夏輝は、しばらくその猫と見つめ合った。
猫は、まばたきをひとつした。
それから、興味を失ったみたいに、ふい、と顔をそらして、前足を舐め始めた。
夏輝は、その場にしゃがみ込みそうになった。
力が、抜けた。
ずっと、人の目を数えていた。その数が、今夜は猫一匹分だけ増えた。そして、その一匹は、こちらの正体にも事情にもまったく関心がなかった。
それが、ひどく、ありがたかった。
「……お邪魔しました」
猫に向かって、小声で言った。
猫は、振り向かなかった。
夏輝は、頭を小さく下げて、先へ進んだ。
我ながら、挨拶する相手を間違えている。けれど、間違っているとは思わなかった。
抱っこ紐の中の小さな命が、もぞりと動いた。
今度は、本当に起きかけているみたいで、喉の奥から小さなうなり声がした。うー、という、湿った音だった。
夏輝の背筋が、ぴんと伸びた。
「しー」
思わず言った。
なぜ「しー」なのかは、自分でもわからなかった。泣かれると困る、という以上の理由はなかった。けれど、「しー」と言いながら、抱っこ紐の上から、軽く手を当てた。大きな手のひらが、小さな背中にすっぽり収まる。薄い布越しに、体温と、鼓動の速さが伝わってきた。
小さな命は、少しのあいだ、うー、と言っていた。
それから、また眠った。
すぴー。
「……おまえ、ほんとよく寝るな」
小声で言った。
怒っているわけではなかった。むしろ、逆だった。なぜか、少しだけ安心した。この子が眠っているあいだは、この子の世界は平和だ。夏輝がどれだけ慌てていても、どれだけ先が見えなくても、この子の「今」は穏やかだ。
それが、今この瞬間、唯一確かなことだった。
商店街を抜けると、道が細くなった。
両側に、古い建物が並んでいる。暖簾の出ている飲食店もあるけれど、夜が深いせいか、人通りはほとんどない。石畳の路地が、街灯の光を受けて、ほんのりと濡れたように光っていた。
潮の匂いが、また少し濃くなった。
夏輝は、歩きながら、ふと思った。
今、自分は、どこにいるんだろう。
地名は、わかる。電車の中で、一度確認した。けれど、この町のことは、何も知らない。どんな人が住んでいて、どんな空気を持っているのか。名物は何か、観光地なのか、ただの漁師町なのか。
何も知らない。
知らない町に、赤ん坊を抱えて、真夜中に来ている。
冷静に振り返ってみるが、どう考えてもまともな状況ではなかった。
笑えなかったけれど、笑えそうな気もした。
路地の角を曲がると、小さな公園があった。
砂場と、ブランコがふたつと、錆びかけたすべり台。
誰もいない。
街灯がひとつだけ、公園の真ん中を照らしている。ブランコの鎖が、風でわずかに揺れて、きい、と鳴った。
夏輝は、ブランコの前で立ち止まった。
座る気にはなれなかった。ただ、立ち止まりたかった。
その瞬間だった。
抱っこ紐の中の赤ん坊が、さっきより大きく動いた。
手足が、ぐい、と伸びる。うなり声が、長くなる。まぶたが、ぴくぴくと震えた。
完全に、目を覚ましかけている。
まずい、と思った。
泣かれたら、どうする。ミルクの用意は、ある。鞄の中に入れてある。けれど、真夜中の公園で、ひとりで赤ん坊にミルクをあげる自信が、今の夏輝にはあまりなかった。
産婦人科では、看護師さんが隣で教えてくれた。
あの人は、手際がよかった。赤ん坊をふわりと抱き上げて、「首はこう。ここ、まだすわってないからね」と言って、夏輝の腕に、ひょいと乗せた。
夏輝は、腕を固めたまま、動けなかった。
「そんなに力入れなくて大丈夫ですよ」
「いや、あの、落としそうで」
「落とさないですよ。ほら、お父さん、肩の力抜いて」
お父さん、と呼ばれて、さらに肩が上がった。
「抜いてください。ほら、深呼吸」
「……はい」
「吸って、吐いて。そうそう。赤ちゃん、人の緊張がわかるんですよ」
そう言われた夏輝は、緊張しないように緊張した。
結果、世界で一番小さい妖精は、夏輝の腕の中で、すぴー、と眠った。
看護師さんが、肩を震わせて笑っていた。
あのとき、隣に人がいた。
けれど今、隣には、誰もいない。
夏輝は、ブランコの前に立ったまま、胸の前の小さな顔を見下ろした。
「……なあ」
声をかけてみた。
小さな宇宙人のまぶたが、ゆっくり持ち上がった。
焦点の合っていない、黒い目が、夏輝の顔のあたりをさまよった。
「泣かないでくれると、助かるんだが」
交渉するみたいに、言った。
相手は、生後数日の、小さな宇宙人である。交渉が成立するはずがない。
夏輝は、返事を待った。
公園の中が、静まり返った。
ブランコの鎖が、きい、と鳴った。
遠くで、波の音がした。
小さな宇宙人は、夏輝の顔のあたりをじっと見て、それから、ゆっくりと、まぶたを閉じた。
すぴー。
夏輝は、しばらく動けなかった。
それから、肺の底から、長く息を吐いた。
「……ありがとう」
思わず言った。
本当に、心の底からそう思った。
宇宙人は、返事をしなかった。当たり前だ。
公園を出て、また歩いた。
どこへ向かうでもなく、ただ歩いた。道が、海の方向へ傾いていくのを感じながら、足が自然にそちらへ向いた。
歩きながら、考えることが多すぎた。
事務所の社長からは、しばらく身を隠すように言われていた。仕事は、当面止まる。次のドラマの撮影は、開始を遅らせてもらえるよう、交渉中だった。雑誌の取材は、すべてキャンセル。テレビの出演予定も、スケジュールの調整に入った。
全部、一夜で動いた。
スキャンダルというものは、こういう動き方をするんだ、と夏輝は思った。
渦の中心にいると、思ったより静かだった。嵐の目の中みたいに、外側が荒れていても、真ん中だけが妙に静かで、それがかえって、不気味だった。
怖かった。
正直に言えば、怖かった。
高校二年の終わり、十七歳でこの仕事を始めた。十八歳で、主演ドラマが当たった。そして今年、二十歳になった。あっという間だった。どこへ向かっているのかも、よくわからないまま、ただ走り続けた。
それが、今夜、止まっていた。
止められたのか、止まったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、胸の前に、小さな命がある。
それだけが、今夜の現実だった。
夏輝は、抱っこ紐の上から、そっと手を当てた。
とくん、とくん、と、小さな鼓動が返ってきた。
速くて、細くて、でも、確かだった。
路地を抜けると、急に視界が開けた。
海だった。
夜の海が、目の前に広がっていた。
波が来て、引いていく。黒い水面が、遠くの灯りを受けて、薄く光っていた。水平線は見えなかった。けれど、広さは感じた。どこまでも続いている感じが、した。
夏輝は、立ち止まった。
しばらく、そこに立って、海を見ていた。
何も考えなかった。
考えようとしたけれど、できなかった。波の音が、全部を覆ってくれた。潮の匂いが、肺の奥まで来た。冷たい空気が、コートの隙間から入ってきて、首筋を撫でた。
抱っこ紐の中で、小さな命が、少し動いた。
「海だ」
夏輝は、言った。
誰に言うでもなく。
「見えるかどうかわからないけど、海だ」
返事はなかった。当たり前だ。
けれど、夏輝は、そのまま、しばらく海を見ていた。
逃げてきた、とは思っていなかった。
でも、逃げてきた以外の言葉も、見つからなかった。
ただ、ここにいた。
知らない町の、知らない海辺に。
誰も自分を見ていない場所に。
それが、今夜、一番安心できる場所だった。
波が来て、引いた。
また来て、また引いた。
その規則正しい繰り返しに、自分の呼吸が、ゆっくり合っていく。
吸って、吐いて。
看護師さんの声が、頭の隅で聞こえた気がした。
──お父さん、肩の力抜いて。
夏輝は、肩を下げた。
思っていたより、ずっと高い位置にあったことに、そのとき初めて気づいた。
海辺から少し歩いたところで、灯りが見えた。
小さな灯りだった。
店の灯り。
夜遅いのに、まだついている。
木の扉。小さな看板。扉の前に、小さな黒板が出ていて、何か書いてある。暗くて、よく見えなかった。
ただ、その灯りだけが、まっすぐだった。
ゆらいでいない。揺れていない。ただ、そこにある灯り。
夏輝は、少しのあいだ、その灯りを見ていた。
入ろうかどうか、迷った。
見られるかもしれない。気づかれるかもしれない。
足が、半歩、後ろへ下がった。
けれど、どこかで落ち着きたかった。
ほんの少しの間でいい。逃げてきた思いから、ほんの少しだけ、距離を置きたかった。
胸の前で、赤ん坊が、すぴー、と鳴いた。
その音に押されるみたいに、半歩分、前に出た。
夏輝は、扉に手をかけた。
木の表面が、ひんやりと冷たかった。
押す。
扉が、ゆっくり開いた。
ベルが鳴った。
小さな音が、夜の空気に、溶けた。
*
誰にも見られない場所だけを選んで、息をしていた。
でも、その灯りだけは、見られてもいい気がした。
猫に見られて力が抜けた夜。人の目ではない視線に、人は救われる。




