第一章 夜の高速道路は、名前を消すための道だった。
速度は、考えなくて済む理由になる。そんな夜が、誰にもある。
夜の高速道路は、名前を消すための道だった。
速度があれば、考えなくて済む。暗さがあれば、見られなくて済む。エンジン音が全部を覆ってくれれば、頭の中の声も、少しだけ遠くなる。
猿渡夏輝、二十歳。ふだんは名前を呼ばれるのが仕事みたいな人間が、今夜は名前を消したくて、後部座席の隅で身を縮めていた。
運転しているのは、マネージャーだった。夏輝は運転席の真後ろに座っている。助手席には、粉ミルクと哺乳瓶とオムツの詰まった大きな鞄が、シートベルトを締めた格好で鎮座していた。締めたのは夏輝だ。理由は自分でもわからない。人間より、鞄のほうがよほど落ち着いて見えた。
窓の外を、高速道路の灯りが流れていく。白い光が来ては消え、来ては消える。インターチェンジの標識が一瞬だけ読めて、また暗くなる。
どこへ行くか、まだ決まっていない。
「電車で、どこかへ」
出発の前、夏輝はそれだけ伝えた。当てはなかった。ただ、赤ん坊を抱えたまま、自分でハンドルを握る気にはなれなかった。それだけの理由だった。
胸の前の抱っこ紐の中に、小さな命がいる。
生まれて数日。まだ名前のない小さな子が、夏輝の胸にぴたりと貼りついて、すぴー、すぴー、と眠っている。
夏輝は、先ほどから五分おきに確認している。
呼吸、している。温かい。顔色、問題ない。手足、動いてる。ミルク、さっき飲んだ。オムツ、替えた。体温は、計る道具がない。体温計、マネージャーに頼めばよかった。体温計ってどこで買える。コンビニにあるか。夜中でもあるか。そもそも、この子の平熱って何度だ。
頭の中の心配リストが、止まらない。
一方で、当の本人は。
すぴー。
寝ている。
完全に、熟睡している。
世界が終わるみたいな顔で確認を続ける夏輝の胸の前で、この子だけが、完全な平和の中にいた。ちいさな口が少し開いていて、ほっぺたが丸くて、まつ毛が信じられないくらい細い。
夏輝は、そっと人差し指を小さな命の鼻の下に近づけた。
かすかな息が、指先に触れた。
生きている。
ほっとして、指を引っ込める。
三分後に、また近づけた。
バックミラーの中で、マネージャーの目が動いた。
「……あの、夏輝さん」
「はい」
「今、五回目です」
「何がですか」
「呼吸の確認」
「数えてたんですか」
「ミラーに映るので」
夏輝は、指を持ち上げたまま止まった。
マネージャーの目は前を向いている。けれど、口元だけが少し緩んでいた。笑うのを我慢している顔だった。
「……心配なんです」
「わかります」
「死んだらどうしようとか」
「死にませんよ。ちゃんと息してます」
「してます。してますけど、してるうちに確認しておきたくて」
「それは、確認になるんですか」
返す言葉がなかった。
確認になるのかどうか、夏輝にもわからない。ただ、見ていないあいだに息が止まったら、と考えると、指が勝手に動いてしまう。
車内が、少し静かになった。
エンジンの音だけが続いた。マネージャーはハンドルを握り直して、前を見たまま、小さく息を吐いた。
「よく寝てますね」
「はい」
「可愛いですね」
「……はい」
会話が、そこで途切れた。
夏輝が続けられなかった。可愛い、という言葉は本当だった。でも、それ以外の言葉が、今の自分にはまだ見つからなかった。怖いとか、重いとか、わからないとか。そういう言葉は山ほどあるのに、どれも口に出すと、この子の寝息に失礼な気がした。
窓の外を、また白い光が流れていった。
夏輝のスマートフォンは、上着のポケットの中で、さっきから何度も震えている。取り出さなかった。画面を見たら、何かが追いついてくる気がした。
胸の前で、小さな体が上下している。
その規則正しい動きだけを、夏輝は数えていた。
一、二、三。
ゆっくりと上がって、ゆっくりと下がる。
数えているうちに、自分の呼吸も、少しだけ合ってきた。
駅に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
ロータリーに車が止まる。ハザードの音が、ちかちかと夜に響いた。
夏輝は、鞄を肩にかけた。助手席から鞄を外すとき、シートベルトのバックルがかちりと鳴った。それだけの音が、やけに大きく聞こえた。
ドアを開けると、冷たい空気が頬に当たった。
十一月の終わり。コートを着ていても、背中のあたりがひやりとする。
「これ」
マネージャーが、運転席から紙袋を差し出した。
中には、カイロと、ミネラルウォーターと、個包装のクッキーが入っていた。
「夏輝さん、今日、ほとんど何も食べてないでしょう」
「……」
「食べてください。倒れたら、その子が困ります」
夏輝は、紙袋を受け取った。
指先が、少しだけ震えていた。寒さのせいだと思いたかった。
「ありがとうございます」
「事務所のことは、こちらでやります。落ち着いたら連絡してください。返事は急ぎません」
「はい」
「それと」
マネージャーは、一度言葉を切った。
ハザードの光が、フロントガラスの向こうで、橙色に点いては消える。その光の中で、マネージャーは夏輝をまっすぐ見た。
「ご無事で」
おかしな言葉だと思った。
戦地に送り出すみたいな言い方だ。けれど、おかしくなかった。今の自分には、その言葉が一番正確だった。
「……行ってきます」
夏輝は、そう答えた。
どこへ、とは言えなかった。
車のドアを閉める。マネージャーは窓を少し下げて、何か言いかけて、やめて、小さく手を上げた。夏輝も、片手だけ上げた。もう片方の手は、抱っこ紐の上にあった。
テールランプが、夜の中へ小さくなっていった。
改札を通ると、ホームは人影がまばらだった。
蛍光灯が白く、床の黄色い線が、やけにくっきり見えた。自動販売機がひとつ、低くうなっている。
夏輝は、柱の陰に立った。癖だった。人の少ない場所でも、つい、壁際を選ぶ。
抱っこ紐の中の小さな命が、もぞりと動いた。
「寒くないか」
思わず言った。誰に聞かせるでもなく。
返事はなかった。当たり前だ。
夏輝は、コートの前をもう少し深く合わせた。小さな命ごと、包み込むみたいに。胸のあたりが、じんわりと温かかった。自分の体温なのか、この子の体温なのか、わからなかった。
電車が来た。
乗り込むと、車内は暖房が効いていて、眼鏡があれば曇りそうな温度だった。夏輝は空いている席を探して、端に座った。
向かいのシートに、老夫婦がいた。
二人とも、七十は過ぎているだろうか。旦那さんは、きちんとした帽子をかぶっていて、奥さんは、膝の上に小さな風呂敷包みを置いていた。
奥さんが、こちらに気づいた。
夏輝は、反射的に帽子のつばを下げた。
けれど、奥さんの視線は、夏輝の顔ではなく、胸の前に向いていた。
「あらあ」
小さな声だった。
「赤ちゃん、よく寝てるわねえ」
「……はい」
「何ヶ月?」
「えっと」
夏輝は、一瞬固まった。
生後何日、が正解なのか。何ヶ月と聞かれて、日で答えるのは変なのか。そもそも、この子は何日目だっけ。三日目か。いや、四日目か。
「生まれたばかりで」
「あら、まあ」
奥さんは、目を細めた。目尻の皺が、ふわりと深くなった。
「じゃあ、パパも大変ね。夜中の授乳とか、もう始まってる?」
「あ、はい、たぶん」
「たぶん?」
夏輝は、言葉に詰まった。
たぶん、は確かにおかしい。授乳は、始まっているか、始まっていないかの二択だ。けれど、自分が「パパ」と呼ばれていることのほうが、もっと引っかかっていた。
「……始まってます」
観念して言った。
奥さんが、くすくすと笑った。隣の旦那さんも、帽子の下で、穏やかに笑っていた。
「緊張しなくていいのよ。赤ちゃんは、ちゃんと育つから」
「そう、でしょうか」
「そうよ。親が慌てても、赤ちゃんは案外どっしりしてるの」
その言葉の途中で、赤ん坊が、すぴー、と鳴った。
ぴったりのタイミングだった。
奥さんが、声を出さずに肩を震わせた。旦那さんも、咳払いでごまかした。
夏輝は、うまく笑えたかどうか、自分でもわからなかった。
口の端が、少しだけ動いた気がする。それが笑顔と呼べるものだったのかは、わからない。ただ、胸のあたりが、さっきよりほんの少し軽くなっていた。
電車が動き出した。
窓の外を、街の灯りが後ろへ流れていく。ビルが減って、住宅が増えて、やがて、灯りそのものがまばらになった。
赤ん坊は、まだ眠っていた。
すぴー。
夏輝は、その寝顔を見ながら、思った。
おまえは今、世界で一番平和な場所にいるんだな。
それが、どうしてか、少しだけ羨ましかった。
羨ましい、という気持ちに名前をつけようとして、やめた。
まだ、つけなくていい気がした。
老夫婦は、いくつか前の駅で降りた。
降りるとき、奥さんが振り返って、小さく手を振った。夏輝は、帽子のつばに指をかけて、軽く頭を下げた。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、ドアが閉まったあとも、しばらくその席を見ていた。
窓に映る自分の顔が、見えた。
目の下に、うっすら影がある。マスクの上で、目だけが、知らない人みたいにこちらを見ていた。
人はこんな顔で、父親になるのか。
そう思って、すぐに打ち消した。まだ、父親、という言葉は、体に馴染まなかった。
乗客は、少しずつ減っていった。
最後には、車両に夏輝ひとりになった。
揺れが、一定のリズムで続く。
がたん、ごとん。
がたん、ごとん。
その音に合わせるように、小さな寝息が、すぴー、すぴー、と重なった。
子守唄みたいだな、と思った。
誰が誰に歌っているのか、わからなかった。
終点に近い駅で降りた。
理由はなかった。ただ、なんとなく、もう少し先へ行ったほうがいい気がした。それだけだった。
ドアが開いた瞬間、風が入ってきた。
潮の匂いがした。
夏輝は、ホームで足を止めた。
夜の空気に、塩の匂いが混ざっている。冷たくて、湿っていて、少し生臭くて、でも、なぜか鼻の奥がすっとした。
海が近い。
改札を出ると、小さなロータリーがあった。バスは、もう走っていないらしい。タクシーが一台、ぽつんと
緩やかに下っていく道の先に、町の灯りが、点々と見えた。商店街らしき通りと、その先に、灯りのない、暗い広がり。
水だ、と思った。
暗い水面が、そこにあった。
海だ。
夏輝は、少しのあいだ、その景色を見ていた。
目を離せなかった。
高速道路の灯りは、どれも速く、遠ざかっていくものだった。けれど、この町の灯りは、ひとつひとつが、そこに留まっているように見えた。
抱っこ紐の中で、赤ん坊が、もぞりと動いた。
「起きたか」
違った。また眠っていた。
すぴー。
「……なんだ、おまえ。本当に寝るんだな」
小声で言った。怒っているわけではなかった。むしろ、少しだけ笑いそうだった。
笑いそうになっている自分に、驚いた。
ここ数日、笑う、という機能が自分から外れてしまった気がしていた。けれど、外れていなかった。ただ、どこかに引っかかっていただけだった。
夏輝は、小さく息を吐いた。
白い息が、街灯の下でゆっくり広がって、消えた。
それから、坂を下り始めた。
一歩ずつ。靴底が、アスファルトの冷たさを拾った。揺らさないように、抱っこ紐の上に手を添えて。
どこへ行くのかは、決まっていない。
けれど、下りていく足は、不思議と迷わなかった。
*
夜の高速道路は、名前を消すための道だった。
でも、降りた先の町は、名前を問わなかった。
眠る赤ん坊の平和が、少しだけ羨ましかった。その気持ちを、まだ名前にしなくていい。




