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寒いだろ。座んな― Café Lumen 外伝 / 夏凪のはじまり ―  作者: Noct
第一部 逃げてきた夜 

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第四章 ここなら、見つからない気がした。

握られた指の強さを、あなたも覚えているかもしれない。


 コーヒーが、空になった。

 夏輝は、カップの底を見た。

 何も残っていない。けれど、カップはまだ温かかった。厚い陶器が、熱を抱え込んだまま、手のひらに返してくる。両手で包んだまま、しばらくそのままにしていた。

 離したくなかった。カップを離したら、この温かさごと、夜に戻される気がした。

「おかわり、いりますか」

 カウンターの人が、聞いた。

 夏輝は、少し迷った。

 二杯目を頼むのは、図々しいだろうか。もう、かなり長居をしている。赤ん坊のせいで、お湯も借りて、布巾まで使わせてもらった。

「……いいですか」

「どうぞ」

 それだけだった。

 豆を挽く音が、また始まった。ごりごり、という音が、静かな店の中を、ゆっくり満たしていく。

 夏輝は、その音を聞きながら、カウンターの木目を、指先で追った。

 やがて、新しいコーヒーが来た。

 今度のは、前のより少し濃い気がした。気のせいかもしれない。けれど、温かさが違った。さっきより、深いところまで届く温かさだった。

「ありがとうございます」

「うん」

 カウンターの人は、また作業に戻った。

 夏輝は、新しいコーヒーを飲みながら、ふと気づいた。

 さっきから、自分が、かなり喋っている。

 もともと、知らない人間と、こんなに喋るタイプではなかった。取材やインタビューでは、喋る。けれど、それは仕事だ。プライベートで、初対面の相手に、こんなに色々言ったことは、あまりない。

 古い本のことも、町のことも、この店のことも、聞いた。聞き続けた。

 なぜだろう、と思った。

 この人が、何も聞かないからかもしれない。

 何も聞かれないから、逆に、言いたくなる。そういうことが、あるんだな、と思った。

 夏輝は、カップの縁を、そっと指でなぞった。

 質問攻めにしているのは、こちらだった。

 つまり、夏輝は今夜、店主を一方的に尋問している客である。

 途端に、申し訳なくなった。

「すみません、さっきから、質問ばかりで」

「構わない」

「迷惑じゃないですか」

「迷惑なら、言う」

「言うんですか」

「言う」

 即答だった。

 夏輝は、少し笑ってしまった。

 言う、と言い切る人が、言わない間は、迷惑ではないのだ。その理屈は、不思議と、すとんと胸に落ちた。

 その時だった。

 抱っこ紐の中で、小さな宇宙人が動いた。

 今度は、本格的に目を覚ました。

 うー、という声が出て、手足がばたつく。それから、少し間があって、息を吸い込む音がした。

 来る、と思った。

 夏輝は、立ち上がりかけた。

 けれど、思ったより小さな泣き声だった。あ゛ー、あ゛ー、という、掠れたような声。力の限り泣いているというより、ただ、起きてしまったから泣いている、みたいな声だった。

「あ、ちょっと、ちょっと待ってくれ」

 夏輝は、小さな宇宙人をあやし始めた。縦に抱いて、軽く揺する。肩越しに、背中をトントンと叩く。

「しー、しー」

 言いながら、思った。

 しーって、何だ。

 これで泣き止む根拠が、何もない。この数時間で、すでに二十回は言っている。効果があったのは、たぶん三回だ。それも、偶然の可能性が高い。

 けれど、言ってしまう。

 口が、勝手に動く。

「しー、しー、しー」

 赤ん坊は、少し泣いた。

 泣きながら、夏輝の顎のあたりに、顔をぐりぐりと押しつけてきた。柔らかい頬が、マスクの縁に当たる。

 夏輝は、マスクを外した。

 外していいのか、一瞬迷った。けれど、この距離で、この子に布越しに話しかけるのは、違う気がした。

 顔が、むき出しになった。

 赤ん坊の頬が、直接、夏輝の頬に触れた。

 温かかった。

 その温かさに、泣き声が、少しずつ、小さくなっていった。

 最終的には、うなり声になって、それも、やがて静かになった。

 宇宙人は、目を開けていた。

 夏輝の顔を、じっと見ていた。

「……なんだ、起きてたのか」

 夏輝は、言った。

 宇宙人は、何も言わなかった。当たり前だ。ただ、 夏輝の顔を、見続けていた。

 この目が、不思議だった。

 生まれたばかりの赤ん坊の目。焦点が合っているのかどうかも、よくわからない。黒目がちで、濡れたように光っていて、けれど、確かに、こちらを向いている。確かに、何かを見ている。

「俺のこと、わかるか」

 夏輝は、言った。

 小さな命は、何も言わなかった。

「わからないよな」

 夏輝は、続けた。

「俺も、自分がなんなのか、よくわかってない」

 口にしてから、少し驚いた。

 冗談のつもりで言ったのに、冗談にならなかった。

 夏輝は、視線を落として、カップの湯気を見た。湯気が、ゆらりと、まっすぐ立ち上って、途中で消えた。

 カウンターの人が、少しだけ、こちらを見た。

 夏輝は、その視線に気づいた。

「すみません、独り言で」

「構わない」

「泣かせてしまって」

「静かになったから、良かった」

「えっ、あ、はい」

 カウンターの人は、少し目を細めた。

笑っているのかどうか、わからなかった。けれど、怒っていないことは、わかった。

「その子、目が開いてる」

 カウンターの人が、言った。

「ああ、はい。起きたみたいで」

「起きてる時間、短いね」

「さっきまで、ずっと寝てたんですが」

「さっき、ミルク飲んだから」

「あ、そういうことですか」

「飲んで、少し覚醒して、また寝る。そういうサイクルだから」

 夏輝は、少し考えた。

「詳しいですね」

「まあ」

「お子さん、いるんですか」

 聞いてから、しまった、と思った。

 何も聞かない人に、聞き返してしまった。踏み込みすぎたかもしれない。

 カウンターの人は、少し間を置いた。

「息子が三人」

「今は」

「上が中学生と小学生で、下がまだ小さい」

「そっか。……賑やかそうですね」

「うるさいよ」

 即答だった。

 けれど、その声が、少しだけ笑っていた。

 夏輝は、想像してみた。この静かな人の家の中を。男の子が三人。走って、叫んで、ひっくり返って、どこかで何かが割れている光景。

 この人は、いったい、どんな顔でそれを眺めているのだろう。

 きっと、今みたいな、まったく動じない顔で。

「育てるの、大変でしたか」

 夏輝は、聞いた。

 カウンターの人は、しばらく黙った。

 作業をしながら、何か考えているみたいだった。拭いていたカップを、棚に戻す。次のカップを、手に取る。

「大変だったかどうかは、終わってみないとわからない」

「終わってみて、どうでしたか」

「まだ終わってない」

 夏輝は、少し笑いそうになった。

 笑っていいと思った。少しだけ、笑った。

「……そうですね」

 終わっていないものを、振り返ることはできない。そのとおりだった。夏輝にとっても、今夜は、まだ何も終わっていない。

 その時、小さな宇宙人の手が、夏輝の指を掴んだ。

気づいたら、掴んでいた。

 小さな手が、人差し指を、ぎゅっと握っていた。

 夏輝は、動けなくなった。

 握力が、信じられないくらい、強かった。こんなに小さな手なのに、しっかりと、離さなかった。五本の指が、第二関節のあたりに、ぴたりと巻きついている。

「……掴んだ」

 夏輝は、言った。

 独り言だった。けれど、声に出さずにいられなかった。

 カウンターの人が、少し見た。

「握反射だよ」

「握反射」

「生まれたての赤ちゃんは、手に触れたものを握る。反射。本能的なもの」

「本能的に」

「うん。離さないよ、しばらく」

 夏輝は、小さな握手の達人の手を見た。

 小さな指が、しっかりと、夏輝の人差し指を握っていた。

 本能的に、握っている。意味があって、やっているわけじゃない。ただ、触れたものを、握る。

 それだけのことだった。

 それだけのことなのに、夏輝は、しばらく動けなかった。

 この手の小ささを、言葉にできなかった。

 爪が、信じられないくらい小さい。米粒よりも、小さいかもしれない。関節が、ちゃんとある。皺もある。ちゃんと、人間の手をしている。けれど、こんなに小さい。

「……なんで、こんなに小さいんだろ」

 夏輝は、言った。

「生まれたてだから」

「そうですね」

「大きくなる」

「なりますね」

「あっという間に」

 夏輝は、その言葉を聞いた。

 あっという間に、か。

 自分も、あっという間に、ここまで来た気がした。十代の後半から走り続けて、気がついたら二十歳になっていた。あっという間だった。

 この子も、あっという間に、大きくなるんだろう。

 今、この小さな手が、いつか大きくなる。

 その時、自分は、どこで何をしているんだろう。

 わからなかった。

 何もわからなかった。

 けれど、今夜、この手が、自分の指を握っている。

 それだけは、確かだった。

 夏輝は、ふと、あることに気づいた。

 指を握られているので、右手が使えない。

 つまり、コーヒーカップが持てない。

 目の前には、湯気の立つ二杯目のコーヒーがある。それが、冷めていく。

 夏輝は、左手でカップを持とうとした。左腕には、小さな命を抱えている。持てない。

 右手は、握られている。持てない。

 カップが、遠かった。

 無言で、カウンターの人が、カップを夏輝の口元の近くまで、すっと滑らせた。

 夏輝は、顔だけを近づけて、カップの縁から、そっと一口飲んだ。

 猫みたいな飲み方だった。

 カウンターの人は、何も言わなかった。

 ただ、肩が、わずかに揺れていた。

「一つ、聞いていいですか」

 夏輝は、言った。

 カウンターの人が、顔を上げた。

「俺のこと、知ってますか」

 静かな声で、言った。

 ずっと、気になっていた。知っていて、知らないふりをしているのか。本当に、知らないのか。

 夏輝は、息を止めて、返事を待った。

 カウンターの人は、少し間を置いた。

 棚のほうを、一度だけ、見た。それから、夏輝の顔を、まっすぐ見た。

「知らない」

「本当に?」

「知らない」

 夏輝は、少し拍子抜けした。

「あ、そうですか」

「有名な人なの?」

「……まあ、少し」

「そっか」

 カウンターの人は、特に興味もなさそうに、また作業に戻った。

 夏輝は、その背中を見ていた。

 少し笑ってしまった。

 知らない。

 本当に、知らなかった。

 知っていて気を遣っているわけでも、知っていて騒がないわけでも、何もなかった。ただ、知らなかった。

 それが、今夜一番の安心だった気がした。

 知られていない場所に来ると、少しだけ、息ができる。

 ここなら、見つからない気がした。

 見つかる、見つからない、というのは、マスコミから、という意味だけじゃなかった。何かもっと、違う意味で、見つからなくていい場所に、今夜来た気がした。

 夏輝は、マスクをつけ直そうとして、やめた。

 外したままの顔で、コーヒーの湯気を、見た。

 時計が、目に入った。

 壁に、小さな丸い時計が掛かっている。針は、午前三時を少し過ぎたところを指していた。

 こんな時間まで、この店にいた。

 窓の外は、まだ真っ暗だった。夜明けには、まだ遠い。ただ、雲が切れてきたのか、石畳の上に、薄い月明かりが落ちていた。

「遅くまで、すみません」

「構わない」

「閉めたい時間じゃないですか」

「気が向いたら閉める、って言った」

「ああ、そうでしたね」

「まだ気が向いてない」

 夏輝は、少し笑った。

 今日、何度笑ったか、数えていなかった。けれど、この店に来てから、何度か笑った気がした。

 笑えるとは、思っていなかった。今夜は。

 けれど、笑えた。

 抱っこ紐の中の妖精が、また眠り始めていた。

 さっきまで指を握っていた手が、ゆるんでいる。眠ると、力が抜けるらしかった。

 夏輝の人差し指が、自由になった。

 血が通い直して、じんわりと、熱かった。

 なぜか、少し寂しかった。

「また眠った」

 夏輝は、言った。

「うん」

「さっき、指を握ってたんですが」

「そう」

「離れましたね」

「眠ったから」

「また握ってくれますかね」

 カウンターの人は、少し間を置いた。

「起きたら握る」

「そうですね」

 夏輝は、コーヒーを、また一口飲んだ。

 今度は、普通に、手でカップを持てた。

 それが、少しだけ、新鮮だった。

 この店の中は、静かだった。

 波の音が、続いていた。

 ここなら、見つからない気がした。

 見つかりたくないものから、距離が置ける気がした。

 追ってくるものが、ここまでは来ない気がした。

 根拠は、なかった。

 けれど、そう感じた。

 それで、今夜は十分だった。

    *

 ここなら、見つからない気がした。

 追ってくるものが、ここまでは来ない気がした。

 根拠はなかった。でも、そう感じた。

 それで、十分だった。

見つからない場所は、地図の上にはない。誰かの無関心の中にある。

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