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ヤニカスはふぁっきゅーにゃ!

 深夜のゲリラ豪雨を、百円ショップのゴミ袋数十枚と、三本分の布ガムテープによる「決死の密閉貼り」でなんとか凌ぎきった、翌日の晴れ渡った昼下がり。

 埼玉県南東部の強烈な太陽光が、大山荘の駐車場22番に鎮座する、ハイリフト仕様(車高上限設定)の白いS14シルビアを眩しく照らし出していた。

 直人は、ガムテープのベトベトした粘着剤のノリが、フロントウインドウの端に無惨に残っているのを見つめながらも、

「ふふん、ノリの跡なんてパーツクリーナーで一吹きすれば余裕にゃ! 雨漏りもしなかったし、今日こそは車検にリベンジにゃ!」

 と、上機嫌で愛車のドアに手をかけた。

 だが、ふと、シルビアのルーフ(屋根)の真ん中あたりに視線を走らせた瞬間、直人の全身の毛が、一斉に針のように逆立った。

「にゃ……にゃにゃにゃ、にゃんだこれはアアアアアア!!!」

 直人は、シルビアのルーフにへばりつくようにして、その「異常」を凝視した。

 そこには、昨日のゲリラ豪雨の雨水と混ざり合い、真っ白なルーフの上をドロドロと滑り落ちるように汚している、黒い、ベトベトした液体状の筋があった。

 そして、その筋の源流、ルーフのちょうど中央のくぼみの部分に、ふやけて中身の葉が飛び散った、一本の「タバコの吸い殻」が、無惨に居座っていたのだ。

「ヤ、ヤニ……ヤニにゃあああああ!!! 僕ニャンの、僕ニャンの真っ白なシルビニャのルーフに、こんな邪悪で、有害で、下品な産業廃棄物が直撃してるにゃアアア!!! 誰だコンにゃろぉぉぉぉぉ!!! ぶっ○すぞオオオオオオオオ!!!」

 直人の叫び声が、昼下がりの住宅街に響き渡った。

 お酒もタバコも一切やらず、ヤニ代を払うくらいなら高性能ガソリン添加剤を愛車に飲ませるべきだと本気で信じている直人にとって、この「ヤニの付着」は、神聖な神殿に泥水をぶちまけられたも同然の、万死に値する冒涜だった。

「許さん、絶対に許さんにゃ……! この僕ニャンの、執念のプロファイリング(捜査)から逃れられると思うにゃよ!」

 直人の、狂い切った執念の犯人探しが、その瞬間に幕を開けた。

 まず、直人は、ピンセットを部屋から持ち出し、ルーフの上の吸い殻を「証拠品」として慎重に採取した。

 吸い殻のフィルターの巻紙は、ふやけていたが、緑色の文字で『Marlboro』のロゴが辛うじて確認できた。

 マールボロ・メンソール・ライト。タール8ミリ。通称『マルメンライト』。

「犯人の銘柄は、マルメンライトにゃ……! そして、落下軌道の弾道計算にゃ!」

 直人は、シルビアの駐車位置と、アパートの二階のベランダの位置関係を、地面に這いつくばって分度器で測定し始めた。

 落下の角度、風速、重力加速度を、油の染みたローテーブルにチョークで数式として書き殴る。

「……計算上、この22番の真上にあるのは、二階の202号室(僕ニャンの部屋)か、あるいは、隣の203号室のベランダしかあり得ないにゃ! 僕ニャンはヤニは吸わない。ということは、犯人は……!」

 直人は、アパートの全住人の「喫煙データベース(直人の脳内調べ)」を検索した。

 直人は、日頃から「愛車にヤニを付着させる可能性のある不審者」を監視するため、アパートの全住人のタバコの銘柄を、ゴミ捨て場の吸い殻の観察や、廊下での立ち話の盗み聞きなどによって、完全に特定していた(ただの危険なストーカーである)。

「201号室の佐藤さんは、メビウス・ワン。102号室の田中さんは、ラッキーストライク。103号室の鈴木さんは、わかば。大家の大山さんは、娘に言われて禁煙二十年。このアパートで、マルメンライトを愛飲しているヤニカスは、ただ一人しか存在しないにゃ……!」

 直人の目が、血走った。

「お隣の、203号室の、あのヤニカス猫にゃアアア!!!」

 ドタドタドタドタ!!!

 直人は、外廊下を凄まじい足音を立てて駆け上がり、203号室のドアの前に仁王立ちになった。

 そして、ドアが壊れんばかりの勢いで、インターホンを連打し、ドアを拳でブチ叩いた。

 ピンポンピンポンピンポン! ドンドンドンドンドン!!!

「出てくるにゃ! この、肺真っ黒ヤニカス猫アアア! 国家反逆罪(シルビニャ汚損罪)で現行犯逮捕にゃアアア!」

 数十秒の激しい連打の後。

 ガチャリ、と、ひどく気怠げに、ドアが数センチだけ開いた。

 ドアの隙間から、ツンとするメンソールの混ざったタバコの煙とともに、一人の少女が顔を覗かせた。

「……うるさ。何……?」

 そこに立っていたのは、高瀬 涼那(たかせ すずな・二十歳)。

 猫の獣人。その外見は、直人とは対極にある、退廃的でローテンションな『病みカワ系ヤニカス猫』だった。

 髪型は、右側が黒、左側が白という、綺麗に半分で分かれた派手な『スプリットカラー』のウルフロング。それをハーフツインに結び、軽めのフェザーバングから、どこか虚ろで眠たげな、気だるい瞳がこちらを見つめていた。

 頭の上のデカめの猫耳も、髪色と連動して『右が黒、左が白』。内側の毛量が多く、先端にツンとした長い先毛リンクスティップがある、ケバケバした質感が特徴的だった。

 お尻のあたりからは、先端だけが白くなった、黒いフルテイルが、機嫌悪そうにゆらゆらと揺れている。

 グレーの前開きサイバージャージをゆるく羽織り、黒のオーバーサイズTシャツの袖から、華奢な指先だけを覗かせた『萌え袖』仕様。

 ボトムスはモノトーンチェック柄のプリーツミニスカートに、黒のニーハイ、足元はゴツめの厚底スニーカー。

 そして、そのサイバージャージのポケットからは、マールボロ・メンソール・ライトの箱と、安物の使い捨てフリントライターが、無造作に顔を出していた。

「お前だにゃああああ!!! この、白黒スプリットヤニカス猫にゃアアア!」

「はぁ……? うち、お前の名前なんて知らないし……。あ、あの、夜中に爆音鳴らして帰ってくる、二階のうるさい車クズか。……何。うち、今、寝不足で死にそうなんだけど」

 涼那は、萌え袖の手で、気だるげに目を擦った。その声は、極めてローテンションで、囁くようなウィスパーボイスだった。

「寝不足なんて知らん! これを見るにゃ!」

 直人は、ピンセットで挟んだ、マルメンライトのふやけた吸い殻を、涼那の目の前に突きつけた。

「僕ニャンの、神聖なるシルビニャのルーフに、お前の吸ったこの邪悪なマルメンライトが直撃して、ヤニの汚れがベトベトに付着してたんだにゃ! いつもいつも僕ニャンのシルビニャにお前のヤニが付いてんだよぶっ○すぞ!?」

 涼那は、突きつけられた吸い殻を、焦点の合わない目でぼんやりと見つめ、それから、小さく、ふぅ、とため息をついた。

「……あー。それ、うちの。……でも、うちはただ、ベランダから、いつもの場所に落としただけだし。落ちたところに、お前の車があったのが悪い」

「にゃんだとぉ!? いつもの場所ってにゃんだにゃ!」

「シルビアが来る前は、あそこ、ちょうどベランダからヤニ落としても、側溝が一番近くて、雨水とか傾斜に沿って綺麗に流れていく、絶妙なゴミ捨て場だったの。……前の黄色いチビスイスポの時は、幅も長さも小さかったから、うちが落とした吸い殻、当たらずに、そのまま地面を流れていってたし」

 涼那は、気だるげにライターをカチカチと鳴らしながら、淡々と言った。

「でも、このデカい白い車になってから、うちのいつもの放流ラインに、ルーフが勝手に侵入してきただけ。お前の車が邪魔。うちの吸い殻の通り道を塞がないで。移動させろ。爆破すんぞ」

「シルビニャは邪魔じゃないにゃ! 22番は僕ニャンの、シルビニャのための神聖な神殿にゃ! 神殿にヤニを落とすなんて、神への冒涜にゃアアア! だいたい、なんでベランダからヤニなんか落とすんだにゃ! 灰皿を使えにゃ!」

「……部屋の中で吸うと、壁が黄色くなるから嫌。……それに」

 涼那の虚ろな瞳が、ほんの少しだけ、鋭く直人を射抜いた。

「……お前が、夜中にアパート全体を震わせるような、あの下品なマフラー(柿本改)の重低音響かせて帰ってきたり。お湯をかける水音めちゃくちゃうるさくして、下手くそな歌うたいながらお風呂入るから。……うち、夜中に何回も起こされるんだけど。……起こされると、イライラして、一本吸いたくなる。お前のせいで、うちのマルメンライトの消費量が増えてる。うちの肺の黒さはお前のせい。慰謝料よこせ。車クズ」

「僕ニャンのお風呂の歌は下手じゃないにゃ! あれはシルビニャへの愛のセレナーデにゃ! だいたい、夜中のシャワーは、車を弄って汚れた体を綺麗にするための、聖なる儀式にゃ! お前のくだらない喫煙依存症とは、次元が違うんだにゃ!」

「……依存症なのは、お前の車も一緒だし。……うちには、マルメンライトが必要。お前には、そのボロ車が必要。同じ。一緒。関わりたくない。消えろ。車クズ」

「一緒にするにゃアアア! 僕ニャンの車は、芸術にゃ! お前のヤニは、ただの有害物質にゃアアア!」

 二人の、全く噛み合わない、しかし殺伐とした言い合いが、ドアの隙間を挟んで繰り広げられた。

 二人は、お互いを一ミリも理解していなかった。

 共依存でもなければ、分かり合おうとする意思すら皆無だった。

 ただ、大山荘というボロアパートの、薄い壁一枚を隔てた隣同士に存在し、直人の爆音と水音が涼那を睡眠不足にし、それによって涼那が吐き出すヤニが、直人の愛車のルーフを汚すという、地獄のような「悪循環(不毛な関係性)」だけが、そこに成立していた。

「……もういい。眠いし。……次、うちのヤニ放流ラインに車置いたら、車の中に吸い殻放り込むから」

 涼那はそう囁き、パタン、とドアを閉め、鍵を掛けた。

「にゃ、にゃああああ!!! 逃げるにゃ! 謝罪と、ルーフのクリーニング代を払うにゃあああ!」

 直人は、閉まったドアを何度も叩いたが、二度と開くことはなかった。

 直人は、怒りで猫耳を激しく痙攣させながら、自分の部屋へと戻った。

「許さん、絶対に許さんにゃ……! シルビニャのルーフは、僕ニャンが命にかけても守り抜くんだにゃ!」

 直人の「狂気」は、新たなる方向へとシフトした。

 彼は部屋に戻るやいなや、押し入れから、以前ホームセンターで買ってきた、巨大な『ビーチパラソル(海水浴用)』と、余っていた『塩ビパイプ』、そして大量の『布ガムテープ』を取り出した。

 駐車場22番。

 直人は、シルビアのルーフの真上に、ちょうどビーチパラソルが広がるように、パラソルの柄を、塩ビパイプとガムテープを使い、シルビアの『バッシュバー(の残骸がついていたフレームの隙間)』や、リジッドラック(ウマ)の脚に、無理やり固定し始めた。

 真っ白なシルビアの屋根の上に、不釣り合いな、赤と白のストライプ柄の「海水浴用パラソル」が、ド派手に花を咲かせた。

「ふふ、ふふふふ! これで完璧にゃ! これぞ、僕ニャンが開発した『対ヤニ放流用・パラソルディフェンスシステム』にゃ! これなら、上からどんなヤニカスが有害物質を落としてこようとも、パラソルがすべてを受け止め、シルビニャの美しいルーフ(白ゲル)を完璧に守るんだにゃあ!」

 直人は、派手なパラソルを背負った、ダサさの限界を突破したシルビアを眺め、満足げに腕を組んだ。

 傍から見れば、アパートの駐車場でチンドン屋が海水浴の準備をしているようにしか見えなかったが、直人にとっては「完全なる勝利」だった。

 その日の夜。

 直人は、部屋のユニットバスで、ロアアームブーツの交換時に浴びた、古い黒グリスの残りを、シャワーで念入りに洗い流していた。

 ザザーーーッ、と響くシャワーの音。

 そして、お風呂場から、またしても直人の下手くそな歌声が響き渡った。

「〜♪ 僕のシルビニャ、パラソル背負って〜、ヤニの雨から、身を守るにゃ〜、明日の朝には、ゲリラを避けて〜、車検場へと、レッツゴーにゃ〜〜♪」

 お風呂から上がった直人は、

「ふふん、これで明日こそ、車検をパスして、公認のナンバープレートを手に入れるにゃ!」

 と、意気揚々と眠りについた。

 翌朝。

 直人は、車検場への出発のために、ジャンプスターターと書類を抱え、駐車場へと駆け下りた。

 シルビアのルーフの上には、パラソルがしっかりとヤニ(と朝露)を防いでいた。

「よし! パラソルディフェンスは完璧に作動したにゃ! さあ、仮ナンバーをつけて、出発にゃ!」

 直人は、運転席に乗り込み、クラッチを踏んでキーを回した。

 キュキュキュ……ブォォォォン。

 エンジンは、一発で軽快に始動した。

 だが、その直後。

 ブォォォン……プスン。

「……にゃ?」

 エンジンが、一瞬でストール(停止)した。

 直人は、もう一度キーを回した。

 キュキュキュキュキュ……。

 セルモーターは元気に回るが、エンジンが、全くかかる気配がない。燃料が来ていないような、あるいは、点火がカットされているような、不穏な空回り音が響くだけだった。

「にゃ、にゃんでにゃ!? 昨日は、あんなに元気にアイドリングしてたのに!」

 直人は、慌ててボンネットを開け、各部のカプラーやプラグコードを確認した。

 だが、抜けかかっている配線はどこにもない。

 直人は、ダッシュボードの助手席側の下にある、ECUエンジンコントロールユニットの自己診断用LEDを確認した。

 赤と緑のランプが、不吉なパターンで点滅していた。

「……にゃ、にゃあああああああああああああああああああああああ!?!? クランク角センサー(クラセン)の、内部の基盤が熱で焼き切れて、完全沈黙(お釈迦)になってるにゃああああ!!! 点火時期のパルスがゼロだから、火花が一切飛ばないんだにゃアアア!!!」

 クランク角センサー。

 エンジンの点火時期を決める、SR20DETにとっての「最も重要で、最も熱に弱く、突然死することで有名な電子部品」だった。

 これが死んだ瞬間、車はただの「大きな鉄の塊」と化す。

 新品のクランク角センサーの価格は、現在、約四万円。

 直人の財布の中身は、現在、三百二十円。

「車検場に行く前に、心臓が停止したにゃああああ!!! また、また部品代で、僕ニャンは来月、雑草すら食べられなくなるにゃアアア!!!」

 直人の絶叫が、朝の静寂に、百二十φのエコーを伴って、虚しく響き渡った。

 

 アパートの二階、203号室のベランダからは、白白黒黒のスプリットカラーの猫耳を気だるげに揺らしながら、涼那が、マルメンライトの紫煙を、静かに朝の空へとくゆらせていた。

 パラソルを背負ったまま、二度と始動することのないボロシルビアの前で、直人は崩れ落ち、ただ泣き叫び続けるのだった。

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