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なんか落ちたにゃ

 車検場(陸運局)の入り口に近づくにつれ、藤野直人の胸は、高鳴る過給圧ブーストのごとく高鳴っていた。

 彼の頭には、区役所で借りてきた赤い斜め線の入った「仮ナンバープレート」が、シルビアのフロントとリアに針金でガチガチに固定されている。

「ふふ、ふふふふ。見たかシルビニャ、ついに僕ニャンたちの栄光のロードマップが、この車検場で完成するんだにゃ! ここをパスすれば、お前は晴れて合法的に日本の道路を我が物顔で走れる、最強のクーペになるんだにゃ!」

 直人は、自信に満ち溢れていた。

 今回の車検に挑むにあたり、彼は「無駄に高い危機回避能力」を発揮していた。

 まず、前回の作業でURASの『TYPE‐S』エアロをフェンダーにタッピングビスで直留めした際、

「……待つにゃ。タッピングビスのネジ頭が剥き出しのままだと、検査官に『突起物および固定強度不足で不適合にゃ!』と突っ込まれるリスクが極めて高いにゃ!」

 と直感し、ホームセンターに走って『ブラインドナット(ナッター)』を調達。フェンダーの裏側にナッターを打ち込み、バンパー側を低頭の美しい六角ボルトで面一つらいちに留め直しておいたのだ。

 さらに、このシルビアが落札された時に付いていた、あの無骨な鉄パイプ製の『バッシュバー』についても、直人は冷静(?)な判断を下していた。

「あんな、お互いにぶつけ合うことしか考えていないドリ車の下品な文化バッシュバーは、僕ニャンの愛する首都高(C1)のソウルには一ミリも合わないにゃ! フロントヘビーになってハンドリングがモッサリするし、空気抵抗が凄まじくて最高速が落ちるだけにゃ! おまけにダサくて重いにゃ!」

 直人の(極めて偏ったグリップ派の)感想により、バッシュバーは既に取っ払われ、ゴミ箱行きとなっていた。

 前後には真っ白なゲルコート仕様のバンパーが装着され、マフラーは静かでジェントルな『HKS Hi‐Power 409』。スピードメーターもハンダクラックを修理して完璧に動く。

「完璧にゃ。どこからどう見ても、模範的な優等生シルビアにゃ!」

 直人は、周りに並ぶピカピカのトヨタ・プリウスや、外車ディーラーが積載車で持ち込んでいる高級セダンの列に、自家塗装の白スプレーでムラだらけの、へたった車高のボロシルビアを臆することなく並べた。サビた鉄チンホイールが、太陽の光を虚しく反射している。

 しかし、車検という名の「審判の鉄槌」は、直人が思っているよりも、遥かに冷酷で、無慈悲だった。

「はい、ボンネット開けて。……うーん、藤野さん。これ、まずは書類の段階からダメですね」

 コースに入る前の外観検査で、眼鏡をかけた冷徹な検査官が、直人のシルビアの運転席を覗き込んで言った。

「にゃ、にゃんでにゃ!? 書類は完璧に書いたにゃ!」

「いえ、シフトノブ。社外のアルミノブに変わってますけど、シフトパターン(1速〜5速、リバースの表記)がどこにも書かれていません。これ、車検通りませんよ。それから、ステアリング。ラッパのマーク(ホーンマーク)がありませんね。クラクションがどれか分からないので不適合です」

「にゃ、にゃにぃっ!? そんなの、爪でココに手書きすればセーフにゃ!」

「手書きはダメです。シールか何かで、はっきりと表示してください。……あと、車内の助手席の足元。発炎筒(非常信号用具)の有効期限、これ……平成十八年で切れてますね。二十年も前に期限切れのものは使えません」

「にゃあああ! 前オーナー、どんだけ放置してたんだにゃ!」

 検査官のバインダーに、無情にも「不適合」のハンコが、乾いた音を立てて押されていく。

 だが、これは、これから始まる「地獄の博覧会」の、ほんの序章に過ぎなかった。

 直人は、近くの売店でシフトパターンのシールとホーンマークのシールを買い、その場でペタペタと貼り付け、期限内の発炎筒を無理やり押し込んで、なんとか最初の検査をクリアし、いざ測定ラインへと進入した。

 だが、次の「ヘッドライト光軸テスター」の前に車を止めた瞬間、ラインの電光掲示板が、非情な赤文字を叩き出した。

【 左:不合格(光量不足・光軸測定不能) 】

【 右:不合格(光量不足) 】

「にゃ、にゃんでにゃああああ!? バルブは新品に交換したばかりにゃ!」

 直人は、運転席でフロントガラスを叩いた。

 検査官が、呆れた顔で直人の窓をトントンと叩く。

「藤野さん、S14前期のプロジェクターヘッドライトはね、中のリフレクター(反射板)がバルブの熱で焦げて剥がれるのが持病なんですよ。どれだけバルブを明るいものに交換しても、中が焦げてたら、光を前方に反射できないんです。基準値は十五千(15,000)カンデラ以上必要なんですが、あなたの車、左側が千二百(1,200)カンデラしかありません。ロウソクの火レベルです」

「千二百にゃ!? シルビニャの目が、鳥目になってるにゃアアア!」

 さらに、排ガス検査。マフラーの出口に金属のプローブを突っ込まれた瞬間、テスターの画面に『不適合(CO・HC基準値オーバー)』のランプが点灯した。

「排ガス、基準値の倍以上出てますね。燃調が異常に濃いか、触媒が劣化して機能してません。はい、排ガスも不合格です」

 そして、直人を最も深い絶望のどん底へと叩き落としたのは、車をピットの上に載せ、下から検査官がハンマーでカンカンと叩きながら揺さぶる「下回り検査」だった。

 ピットの下のスピーカーから、検査官のノイズ混じりの声が響く。

『えー、22番のシルビアの藤野さん。下回り、全然ダメですね』

「に、にゃんだってぇ!?」

『まず、フロントロアアームのボールジョイントブーツ。これ、左右とも完全に裂けて、中の黒いグリスが飛び散ってます。当然不合格です。それから、ステアリングラックブーツ。これも経年劣化でジャバラがちぎれて、中身が丸見えになってます。これも不合格』

「にゃ、にゃあああああ!」

『あとね、これ、エンジンとミッションの継ぎ目。クランクシャフトのリアオイルシールから、結構な勢いでエンジンオイルがポタポタと滴り落ちてます。下回りテスターの床に、今もオイルの池ができてますよ。これじゃあ、道路にオイルを撒き散らすことになるので、当然不合格です』

「にゃ、にゃ……にゃあああああああああああああ!!!」

『それと最後。車高ね。最低地上高。マフラーの中間パイプと、あの、URASのサイドステップね。あれが低すぎて、地上から測定したら、マフラーのフランジ部分が一番低くて、地上から七・五センチしかありません。保安基準の九センチに全く届いてません。これ、車高が下がりすぎてますよ』

「車高が下がりすぎにゃ!? 違うにゃ! これは、足回りが素晴らしいんじゃなくて、あの解体屋で買った鉄チンホイールのタイヤ外径が小さすぎるせいで、車高が物理的に下がっちゃってるだけにゃアアア!」

「理由はどうあれ、九センチ以下は不適合です。はい、本日の検査はすべて終了です。限定車検証(二週間有効の不合格証明書)を出しておきますから、全部直して、また来てくださいね」

 検査官は、同情の余地すらない冷たい目で、直人に書類を突き返した。

 夕方、大山荘の駐車場22番。

 仮ナンバーの「限定車検証」を握りしめた直人は、シルビアのボンネットに突っ伏したまま、シクシクと泣いていた。

 あらゆる場所からボロが出てきた。

 ハンダゴテ一つで治せるような、生易しいレベルの故障ではなかった。

「ロアアームブーツ破れに、ステアリングラックブーツ切れ……。おまけに、プロジェクターの光量不足に、エンジンリアシールからのオイル漏れ……。そして、マフラーの最低地上高不足……。全滅にゃ、完全に大敗北にゃあ……」

「だから言っただろう、直人くん。ヤフオクの五十万のボロミサイルが一発で車検を通るわけがない、って」

 ほうきを持った大家の大山豊が、憐れみの目を向けながら、直人の横に立った。

「大山さん……。僕ニャンは、もうおしまいにゃ。車検を通す追加費用の予算三十万は、昨日の車高調で使い果たして、もう残高は数百円にゃ……。ブーツを交換する工賃も、ヘッドライトを新品にする金も、一円も無いにゃ……」

「……ロアアームブーツとステアリングラックブーツくらいなら、部品代だけなら数千円だよ。社外の『大野ゴム』あたりの対応品をネットで注文すれば、数百円で手に入る。自分で交換すれば、工賃はタダだ」

「にゃっ!? でも、オイル漏れはどうするにゃ!? クランクのリアシールを交換するには、ミッションを降ろさなきゃいけないんだにゃ! そんなの、アパートの駐車場で一人でできるわけがないにゃ!」

「……オイル漏れね」

 大山は、周囲をぐるりと見回し、声を潜めた。

「これは、大家としては絶対に言ってはいけない、昭和の車乗りの、極めてグレーな悪あがき(ライフハック)だけどね。……検査を受ける直前に、テスターの建物の手前で、エンジン下回りのオイルを『パーツクリーナー』で完璧に拭き取るんだよ。そして、ウエスできれいに拭いて、乾いた状態のまま下回り検査のピットに進入する。検査中の数分間だけ、オイルが滴り落ちてこなければ、検査官の目をごまかせる。もちろん、車検が通ったら、すぐにミッションを降ろしてシールを交換するのが大前提だけどね」

「に、にゃんだってぇ!? その手があったにゃ! パーツクリーナーなら、僕ニャンの部屋に、箱買いしたやつが山ほどあるにゃ!」

「それと、ヘッドライトの光量不足だけどね。S14前期のプロジェクターは、本当に暗い。裏技として、ロービームのプロジェクターユニットを裏から手で無理やり押し込んで、光軸を強制的に少し上に持ち上げるか……あるいは、一時的にプロジェクターをバラして、焦げたリフレクター部分に、台所用の『アルミホイル』をシワが寄らないようにきれいに貼り付けるんだ。それだけで、光量が三倍以上に跳ね上がって、基準値をクリアできることがある」

「アルミホイルにゃ!? 台所のアルミホイルが、シルビニャの瞳の輝きを取り戻すにゃアアア!?」

「まあ、すべては『車検を通すための一時的なしのぎ』だけどね。通った後は、すぐにちゃんとした部品で直しなさい。それと、車高不足だけど……君、昨日、何かものすごい箱をチャリに積んで帰ってきたよね。あれは何だい?」

「にゃっ! あれは、RS★Rの、レーシング・アイ(車高調)にゃ!」

「フルタップ式の車高調だろう? だったら、あのダサい鉄チンホイールを履いたままでも、車高調のブラケットのネジを限界まで回して、車高を『上限』まで上げればいいじゃないか。ハイリフト仕様のシルビアにすれば、最低地上高の九センチなんて、余裕でクリアできるよ」

「……天才にゃ! 大山さん、やっぱりあんた、ただの大家じゃないにゃ! 本物の、伝説の車クズだったんだにゃ!」

「私はただの、ルールを重んじる……いや、ルールを『ハック』するのが得意な老人だよ」

 大山はニヤリと笑うと、ほうきを持って、再び大山荘の敷地内を掃き始めた。

 その夜、大山荘の駐車場22番は、前代未聞の「突貫ハック整備工場」と化していた。

 直人は、ネットで速達注文した『大野ゴム』の格安ブーツを手に、シルビアのフロント足回りをバラしていた。

 タイロッドエンドプーラーをロアアームのボールジョイントに掛け、ボルトを締め込んでいく。

 ギギギギ……パキィィィン!!!

 凄まじい破裂音とともにテーパーが外れ、ロアアームがナックルから分離した。

 破れた古いブーツをマイナスドライバーで剥ぎ取ると、中から、長年の泥が混ざったウンコ色のグリスがドロドロと溢れ出してきた。

「き、汚いにゃ! 臭いもオワコンにゃ! でも、新しいグリスをたっぷり詰め込んで、この新しいゴムブーツを『塩ビパイプ』を使ってハンマーで均等に叩き込めば、ロアアームブーツの交換は完璧にゃ!」

 直人は、真っ黒なグリスを顔や髪に飛び散らせながら、狂ったようにハンマーを振るった。

 さらに、ステアリングラックブーツもちぎれた古いものをハサミで切り裂き、分割式の格安ラックブーツを巻き付けて、タイラップでガッチリと固定。

 そして、ヘッドライト。

 直人は、シルビアからヘッドライトユニットを左右とも取り外し、部屋に持ち帰った。

 プロジェクター部分を裏から分解し、中にある、熱で真っ黒に焦げてメッキが剥がれ落ちた、無惨なリフレクター(反射板)を取り出した。

「ここに、台所のアルミホイルを、シワが寄らないように、スプレーのりでピッチリと貼り付けるんだにゃ……!」

 直人は、職人のような手つきで、アルミホイルをリフレクターの内側に貼り、指の腹で丁寧に伸ばしていった。焦げて光を吸収していた黒いプラスチックの表面が、アルミホイルの銀色の輝きによって、まるで新品の鏡のように生まれ変わった。

「できたにゃ……! これで、シルビニャの目は、レーザービームのように闇を切り裂く瞳になるにゃ!」

 さらに、昨日にアプガレで死に物狂いで手に入れた『RS★R Racing☆i』の車高調を取り出し、

「車高は、限界まで上げるにゃアアア!」

 と、全長調整式のブラケットのネジを限界まで回し、車高を最も高く(ハイリフト仕様に)設定して、シルビアに装着した。

 鉄チンホイールを履かせ、ジャッキを降ろす。

 そこにあったのは、スタイリッシュなURASエアロを装着しているにもかかわらず、フェンダーとタイヤの隙間に「拳が二個丸ごと入る」ほどの、まるでオフロード走破性を高めた「SUV仕様のシルビア」だった。

 ダサさはさらに臨界点を突破していたが、これで最低地上高は、余裕で十一センチを確保できた。

 夜中の二時。

 直人は、真っ黒なグリスと、アルミホイルの切れ端、そしてパーツクリーナーの強烈な溶剤臭を全身にまとったまま、アパートのユニットバスで、叫びながら体を洗っていた。

「あちちちち! 顔に飛び散った古いグリスが、石鹸でも全然落ちないにゃああ! でも、これで明日、すべてのリベンジが果たせるにゃ! 明日こそは、合格のスタンプを奪い取って、シルビニャにナンバーを与えるにゃアアア!」

 お風呂から上がった直人は、充実感と、明日の勝利への確信に満ちあふれた表情で、濡れた髪をタオルで拭きながら、部屋の窓の外を見つめた。

 駐車場22番で、ハイリフト仕様の白いシルビアが、静かに明日の出番を待っている。

「ふふ、ふふふ。完璧にゃ。明日の朝一番で、再び車検場に乗り込むにゃ。……あ、そうだにゃ。明日、車検場のラインに入る前に、ライトのハイビームとロービームの切り替えの動作確認だけ、もう一回しておくにゃ」

 直人は、パンツ一丁の姿のまま、ガラケーをポケットに突っ込み、キーを持って駐車場へと駆け下りた。

 運転席に座り、キーをONにする。

 ライトスイッチを一段、二段と回した。

 アルミホイルで補強されたプロジェクターが、真っ暗な駐車場のコンクリートを、昼間のように眩しく、強烈な白い光で照らし出した。

「明るいにゃ! これなら、十五千カンデラどころか、三万カンデラは出てるにゃ! 勝ったにゃ!」

 直人は、あまりの嬉しさに、車内でガッツポーズをした。

 その時、彼は、夜の風が少し冷たいことに気づいた。運転席の窓が、少しだけ開いていたのだ。

「風が入って寒いから、窓を閉めるにゃ」

 直人は、ドアのパワーウィンドウのスイッチを『UP』の方向に引き上げた。

 ウィィィィィィン……。

 古いモーターの、弱々しい音が響き、窓ガラスがゆっくりと上昇していく。

 だが、窓が完全に閉まる直前。

 バキッ!!! ジャラジャラジャラジャラッ!!!

 ドアの内部から、凄まじいプラスチックと金属が粉砕される音が響き渡った。

「にゃ……?」

 直人が固まった次の瞬間。

 スーーーッ……。

 窓ガラスが、何の抵抗もなく、ドアの内部へと垂直に吸い込まれるように落下していった。

 そして、二度と上がってこなくなった。

「にゃ、にゃ……にゃあああああああああああああああああああああああ!?!? ガラスが消えたにゃあああああ!!! パワーウィンドウの、レギュレーターのプラスチックワイヤーが、経年劣化で粉砕して中に落ちたにゃああああ!!!」

 窓ガラスは、完全にドアの中に埋没し、運転席の窓は「全開」のまま、固定されてしまった。

 直人は、慌ててパワーウィンドウのスイッチを何度もカチカチと操作した。だが、ドアの内部から「モーターが空回りする虚しい回転音ウィンウィンウィン」が響くだけで、ガラスは一ミリも顔を出さなかった。

 その瞬間、直人のガラケーが、不吉なバイブレーション音を立てて震え出した。

 画面を見ると、気象庁からの「防災速報」のメールだった。

【 埼玉県南東部:まもなく、非常に激しいゲリラ豪雨(落雷を伴う大雨)が始まります。お出かけの際はご注意ください。 】

「にゃ……にゃんでにゃあああああああああ!!! 明日、車検なのに! 窓全開のまま、大雨が降ったら、シルビニャの内装(鉄板)が、水浸しで錆びだらけのプールになるにゃアアア!!!」

 ピカッ、ゴロゴロゴロ……!

 直人の叫び声をかき消すように、深夜の埼玉の空に、激しい稲妻が走り、大粒の雨が、全開の運転席の窓から容赦なく車内に降り注ぎ始めた。

 車検場へのリベンジ出発まで、あと、六時間。

 パンツ一丁の藤野直人は、激しい豪雨の中、全開の窓にダンボールとブルーシートをタイラップで固定するため、泥まみれになりながら、泣き叫び続けていた。

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