あぷがれに行くにゃ
スピードメーターの針が死んだようにゼロの位置から動かない。
その冷酷な現実は、藤野直人の脳に、オーバーヒート直前の熱量を発生させていた。
「にゃ、にゃあああああ! なんでにゃ!? マフラーは完璧にジェントルなHKSの『Hi‐Power 409』に変わって車検適合の音量になったのに、スピードメーターが動かないんじゃ、車検場のラインで一瞬でハネられて不合格にゃあああ!」
直人は、大山荘の自分の部屋で、頭を抱えて畳の上をローリングしていた。
車検場(陸運局)の検査ラインには、スピードメーターの誤差を測定するテスターがある。ローラーの上に車を載せ、時速四十キロまで加速した瞬間にヘッドライトのパッシング等で合図を送り、テスターの計測値とメーターの表示が一致しているかを調べるのだ。
メーターがゼロを指したまま動かなければ、検査官に「お引き取りください」と冷たく塩を撒かれる。
「……だが、ここで慌てて日産ディーラーに駆け込んで『車速センサー新品をくれにゃ!』と叫んだら、部品代だけで一万数千円が吹き飛ぶにゃ。今の僕ニャンには、車検の法定費用を差し引いたら、もうそんな大金は一円も残ってないにゃ。これ以上どこでシルビニャのボロ(致命的な故障)が出るかもわからないのに、部品代で破産するわけにはいかないにゃ……!」
直人は、真っ黒になった爪を噛みながら、じっと考え込んだ。
そして、ふと、カー雑誌編集者としてのプライドと、かつて読んだS14シルビアの膨大な「持病リスト」のデータを脳内から引き出した。
「待つにゃ……。S14やS15のスピードメーター不動は、ミッションについている車速センサーの故障だけが原因とは限らないにゃ。むしろ、もっとタチが悪くて、もっと『タダで治せる』有名な定番トラブルがあるにゃ。それこそが……!」
直人は即座にドライバーを掴み、シルビアの運転席に潜り込んだ。
メーターフードを固定しているネジを外し、メーター本体をダッシュボードからズルリと引き抜く。メーター裏の何本もの配線コネクターを外し、部屋へと持ち帰った。
汚部屋のローテーブルの上にメーターを置き、慎重に背面のプラスチックカバーを分解する。
剥き出しになった、緑色のプリント基盤。
「これにゃ。日産が誇る、魔のハンダクラック(割れ)にゃ!」
直人は、引き出しの奥から拡大鏡と、いつ買ったかもわからないハンダゴテ、そしてハンダ線を取り出した。
S14シルビアやR33スカイラインといった九〇年代の日産車は、スピードメーターユニットの裏側にある基盤のハンダが、長年のエンジンの振動と熱によって、目に見えないほどの微細な亀裂を起こす。これによって導通不良となり、スピードメーターが突然動かなくなる、あるいはガタガタと針が踊り出すという持病があった。
「スピードメーターのパルスを受け取る、このICチップの足元……。拡大鏡で見ると、確かにハンダの表面に、かすかな円形の亀裂が入ってるにゃ! これにゃ! 犯人はこれにゃ!」
直人は、ハンダゴテのコンセントを壁に突き刺した。
コテ先が熱くなるのを待ち、古いハンダを温め直して、新しいハンダを「ジュッ」とほんの少しだけ流し込んでいく。
電子回路の樹脂が焦げる、ツンとした独特のヤニ(フラックス)の煙が立ち上る。
「……この匂い、タバコのヤニは大嫌いだけど、ハンダのヤニの匂いは、脳を活性化させる聖なる香りにゃ……! ジュッ、ジュッ……よし、車速パルスの通り道のハンダを、すべて新しく盛り直したにゃ!」
直人は、満足げにハンダゴテの電源を切った。
メーターを再びアセンブルし、シルビアのダッシュボードに装着。
ウマに乗った状態のままエンジンを始動し、一速にギヤを入れ、ゆっくりとクラッチを繋ぐ。
リアタイヤが空中で回転を始める。
直人は、メーターパネルを凝視した。
「……ッ!」
スピードメーターの針が、ゼロの位置から、スッ……と、極めてスムーズに「20」「30」の数字へと上昇していった。
「治ったにゃあああああ!!! やっぱりハンダクラックにゃ! 修理費用、実質ハンダ代の数十円で、完璧にスピードメーターが復活したにゃあああ!」
直人は、ステアリングを叩いて狂喜乱舞した。
これで、車検に通すための「最低限の動作部分」は、すべて完璧にクリアされた。
排気漏れなし、音量よし、クラッチよし、ブレーキよし、メーターよし。
しかし、直人の前には、もう一つの「ヤバい問題」が立ち塞がっていた。
「……とりあえず現状のヤバいところは治ったにゃ。だけど……この、へたってよくわからんメーカーのダウンサスと、抜けきったショック。そして解体屋で一本千円で買ってきた、サビだらけの15インチの鉄チンホイール……。この、チンドン屋みたいな足回りは、車検には通っても、公道でまともなテスト走行(グリップ走行)なんて出来っこないにゃ。ちょっと荷重移動しただけで、ショックが底付きしてスピンする未来が見えるにゃ……!」
車検を通した後に、すぐにでもまともなスポーツ走行ができるよう、足回りだけは「アフターパーツ」で何とか出来るところに手を付けたい。
だが、手持ちの現金は、車検の法定費用を引いたら、文字通り小銭しかない。
「金がないにゃ……。でも、車高調が欲しいにゃ。せめて、まともな中古のフルタップ式車高調が欲しいにゃあ……」
直人は、部屋の中で、ゴミだらけの畳を見つめて途方に暮れていた。
その時、彼の視線が、玄関の靴箱や、開けっ放しのクローゼットの奥へと向いた。
「……待つにゃ。前の黄色いスイスポ(ZC31S)を売り払った時、部屋のあちこちに、まだ売ってないスイスポのパーツが眠っていた気がするにゃ」
直人は立ち上がり、クローゼットの奥の布団を引っぺがした。
すると、そこから、青いプラスチックの箱が出てきた。
「にゃ、にゃあああ! TRUSTのエアインクス(キノコ型エアクリーナー)の予備フィルターと、本体にゃ! さらに、靴箱の奥を漁ると……あったにゃ! モンスタースポーツのカーボン製プラグカバーにゃ! これ、限定品で結構いい値段がするにゃ! クローゼットのハンガーの裏からは、ピボットの『3-drive』スロットルコントローラー(スロコン)と、専用ハーネスまで出てきたにゃ! そして……」
直人は、部屋の隅に積まれた雑誌の山の下から、異常に重いダンボール箱を引き出した。
「DIXCELの、ZC31S用フロントブレーキローター(新品未使用)にゃあああ! 重くて持って行くのが面倒だからって、放置してた埋蔵金にゃ!」
直人の目が、ドルマーク(¥マーク)に変わった。
これらのパーツを、中古カー用品大手の『アップガレージ(アプガレ)』に持ち込んで買い取ってもらえば、それなりの軍資金になる。
「よし! アプガレに行って、このお宝をすべて現金に変えて、ついでにシルビアに使える掘り出し物の車高調とホイールをハントしてくるにゃ!」
だが、問題があった。
シルビアはナンバーが無いので、当然走れない。公共交通機関(電車)で、この数十キロもある鉄製のブレーキローターや巨大なエアクリーナーを運ぶのは、物理的に不可能だった。
「仕方ないにゃ。あいつを使うにゃ……」
直人は部屋を飛び出し、大山荘の駐輪場へと向かった。
駐輪場の隅、雑草に半ば埋もれるようにして放置されている、一台のママチャリがあった。
フレームは赤サビだらけ、泥除けは歪み、タイヤの空気は完全に抜けてぺちゃんこになっている、持ち主不明のボロ自転車だった。直人が大山荘に入居する前から、そこに放置されていた「アパートの歴史の遺物」だ。
「ちょっと一時的にテストドライブ(拝借)させてもらうにゃ……!」
直人は、自分の部屋から携帯用の空気入れを持ち出し、ママチャリのタイヤに「シュコ、シュコ、シュコ」と力任せに空気を注入した。なんとか、タイヤが丸く膨らんだ。
直人は、ボストンバッグに重いブレーキローターやスロコンを詰め込み、それをママチャリの後ろの荷台にタイラップ(結束バンド)でガッチリと固定した。さらに、フロントのカゴには、モンスタースポーツのカーボンカバーと、トラストのエアクリーナーを押し込んだ。
総重量、約二十キロオーバー。
「出発にゃアアア!」
直人はサドルに跨り、ペダルを力いっぱい踏み込んだ。
ギィィィィィィ、キィィィィィン!
サビたチェーンとクランクが、悲痛な金属の擦れ合い音をアパート中に響かせた。
「にゃ、にゃあああ! 右に取られるにゃ! フロントフォークが微妙に右に曲がってて、アライメントが完全に狂ってるにゃ! キャスター角がオワコンにゃ! 路面の段差を越えるたびに、前輪がブレて(ジャダー現象)死にそうになるにゃあああ!」
直人は、時速十キロほどでギシギシと進む、アライメントの崩壊したママチャリのハンドルを必死に抑え込みながら、埼玉南東部のバイパス沿いにある『アップガレージ』を目指して、平坦な道を激走した。大型トラックが横を通り過ぎるたびに、凄まじい風圧でチャリごと吹き飛ばされそうになりながら、彼はペダルを漕ぎ続けた。
約一時間後。
太ももを限界までパンパンに張らせ、全身汗だくになった直人は、ようやく『アップガレージ』の黄色い看板の下に滑り込んだ。
店内に入ると、中古タイヤのゴムの匂いと、安物の芳香剤、そしてジャンクパーツが放つオイルの匂いが混ざり合った、車クズにとっての「天国の香り」が漂っていた。
「ハァ、ハァ……。買い取りをお願いしますにゃ……!」
直人は、ボロボロになりながら、受付に重いブレーキローターやカーボンカバーを並べた。
査定を待つ間、直人は店内の「車高調コーナー」を、獲物を狙う獣のような目で徘徊し始めた。
「……ん? ガラスケースの、あの赤いアルマイトの輝きは……にゃ!?」
直人の目が、限界まで見開かれた。
ガラスケースの中に展示されていたのは、非常に状態の良い、ほぼ使用感のない極上の車高調セットだった。
メーカーは、国産足回りのトップブランド『RS★R』。
そのモデル名は……。
「『Racing☆i』……ドリフトスペックにゃああああ!!!」
直人は、ガラスケースに顔を貼り付け、よだれを垂らした。
Racing☆i。
それは、ストリート向けの乗り心地を重視した『Basic☆i』や『Best☆i』とは一線を画す、フォーミュラDとD1のノウハウを注ぎ込んで開発された、サーキット専用・競技専用の超ハードコアモデルだった。
超軽量かつ高耐久の「Ti2000」スプリングを採用し、単筒式ピストン、減衰力36段調整、フロントにはキャンバー調整機能付きのピロアッパーマウントを標準装備。
新品で買えば、消費税込みで二十七万円近くする、直人にとっては雲の上の、まさに「神の足回り」だった。
「それが……なんと、中古価格『十二万円(税込)』にゃあああ! なんでにゃ!? なんでこんなに安いにゃ!? あ、備考欄に『バネレートがハード仕様(フロント10キロ、リア8キロ)のため、街乗りでは脳震盪を起こすレベルで硬いです。クレーム不可』って書いてあるにゃ! 最高にゃ! そんなの、サーキットと首都高を攻める僕ニャンにとっては、ただのご褒美にゃ!」
その時、買取カウンターから、直人の番号が呼ばれた。
「藤野様、査定が完了しました。モンスタースポーツのカーボンカバーが美品だったことと、スロコンが車種別ハーネス付きだったため、全部で『四万五千円』での買取となりますが、いかがでしょうか?」
「売るにゃ! 一秒で売るにゃ! 今すぐ現金をよこすにゃ!」
直人は、四万五千円の現金をひったくるように受け取ると、すぐにガラスケースの前に戻り、店員を呼び止めた。
「店員さん! あのケースの中の『Racing☆i』を、今すぐ僕ニャンに売るにゃ! この現金と、僕ニャンが温めておいた軍資金を、すべてここに叩きつけるにゃアアア!」
手持ちの株の儲けの残金と、今スイスポのパーツを売って得た現金を合わせると、ちょうど十二万数千円。
車検の法定費用(約十万円)をキープした上で、本当に、ギリギリ、ピッタリ「十二万円」の車高調を支払うことができた。
財布の中身は、再び「数百円の小銭だけ」になったが、直人の顔は、世界を征服した覇王のように輝いていた。
「これで、シルビニャの足回りは世界最強クラスになるにゃ! あとは、あのサビた鉄チンホイールを、まともな社外アルミホイールに交換すれば……!」
直人は、意気揚々と「ホイールコーナー」へと向かった。S14K’sは5穴仕様(PCD114.3)。アプガレの広い倉庫のようなホイールコーナーには、何百本もの中古ホイールが積み上げられていた。
だが。
「……にゃんだこれは」
直人は、眉をひそめた。
そこにあるのは、どれもこれも直人の趣味に合わないものばかりだった。
ギラギラと下品に輝く、セダン用の超深リムの「VIP系メッキホイール(十九インチ)」。
あるいは、おじいさんのセダンから剥ぎ取ってきたような、ダサい、スポークの太い「冬用の格安スタッドレスタイヤ用アルミホイール(十五インチ)」。
「ないにゃ……。軽量な、1ピースの鍛造スポーツホイールとか、せめてまともな5本スポークの17インチホイールが一本もないにゃ……。こんな重くてダサいホイールをシルビニャに履かせたら、足回りが泣くにゃ。あきらめるにゃ。ホイールは、しばらくあのダサいサビサビ鉄チンのままで耐えるにゃ……!」
直人は、無念の思いでホイールの購入をあきらめた。
アプガレの駐車場。
直人の目の前には、RS★Rのロゴが大きく印刷された、クソデカくて重い「車高調の箱」が置かれていた。
そして、傍らには、サビだらけでアライメントの崩壊したママチャリ。
「……よし。積載作業(DIY)にゃ」
直人は、カバンから大量のタイラップを取り出し、車高調の箱を、ママチャリのリアの荷台に、これでもかと何重にも縛り付けた。
箱が、チャリの横幅を大きくはみ出し、まるで「ウイング」のようになっていた。
直人はサドルに跨り、再びペダルを漕ぎ出した。
ギィィィィィィ、ガガガガッ!
後ろが重すぎて、ウイリー(前輪が浮く)しそうになりながら、直人は蛇行運転でアパートへの道を戻っていった。
「にゃ、にゃあああ! 横風がキツいにゃ! 車高調の箱が風圧を受けて、チャリの挙動がめちゃくちゃ不安定にゃ! ダウンフォースじゃなくて、揚力が発生してるにゃアアア!」
直人は、全身から湯気のような汗を吹き出しながら、必死にペダルを漕ぎ続けた。
夕方、命からがら、大山荘にたどり着いた直人。
アパートの駐輪場にママチャリを突っ込み、タイラップを切って巨大な車高調の箱を抱え上げた、その時。
「おかえり、直人くん。すごい荷物だね」
やはりそこには、大家の大山豊が、植木鉢に水をやりながら待っていた。
大山は、直人が乗ってきたママチャリを、じっと見つめた。
「直人くん。そのチャリ……それ、三年前に家賃を滞納して夜逃げした、105号室の人が置いていったやつだよね」
「にゃっ! 一時的な、テストドライブ(拝借)にゃ! しっかりとタイヤの空気圧を適正値に調整して、アライメントの狂いを検証したにゃ! 今、テストが完了したから、駐輪場にお返しするにゃ!」
「そうかい。でもね、そのチャリ……」
大山は、ママチャリのフロント部分を指差した。
「フロントフォークが、根元から完全に右に曲がって溶接されてるんだよ。元々事故車でね、前の持ち主が『真っ直ぐ走らない』って言って、そのまま放置して逃げたんだ。君、よくそんなの乗って、何キロも走れたね」
「に、にゃんだってぇ!? アライメントが狂ってたんじゃなくて、最初からフレームが物理的に曲がってたのかニャアアア! どうりで、常に左に体重をかけないと、右のドブ川に落ちそうになるわけにゃアアア!」
直人は、自分の無駄なドライビングテクニック(?)の浪費に、ガックリと膝をついた。
だが、すぐに気を取り直して、抱えている巨大な『Racing☆i』の箱を、大山に見せびらかした。
「でも、いいにゃ! 見てにゃ、大山さん! RS★Rの『Racing☆i』にゃ! これさえ組めば、シルビニャの足回りは、サーキット仕様に生まれ変わるんだにゃ!」
「……ほう。本当に、あの硬い Racing☆i を買ったのか。スプリングレートは確か、フロント10キロ、リア8キロだったな。そんな硬い足を、そのボロボロのS14のボディに組んだら、車高調を取り付ける前に、アッパーマウントの取り付け部(タワーバー周辺)の鉄板が、ショックの硬さに耐えきれずに、金属疲労で『パキッ』と千切れるよ」
「……え?」
直人は、ピキリ、と凍りついた。
「S14のフロントタワー周辺は、ただでさえ鉄板が薄いからね。その硬い足を、補強もしてないボロミサイルのボディに組んで、首都高の段差なんか越えたら、一発でストラットタワーが突き抜けて(アッパーちぎれ)、ボンネットを突き破るかもしれないな。まあ、頑張ってボディ補強しなさい」
大山は、フッと不敵に笑うと、ジョウロを持って自分の部屋へと戻っていった。
「にゃ、にゃ……にゃあああああああああああああああああああ!?!? タワー突き抜け!? アッパーちぎれにゃアアア!? ボディ補強なんて、そんなスポット溶接する金も、ロールケージ組む金も、僕ニャンには一円もないにゃあああああ!!!」
スピードメーターは治り、最高の車高調を手に入れたはずなのに。
直人の前には、さらなる「ボディ崩壊」という、恐ろしい終わらない悪夢が、口を開けて待っていた。
車検場への出発まで、あと、数日。
藤野直人の、命がけのDIYは、まだまだ終わる気配を見せなかった。




