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マフラーは120φにゃ!

 マフラーの出口というのは、百二十φ(パイ)以外は存在価値がない。

 それが、藤野直人が人生において最優先するいくつかの譲れない鉄則のうち、極めて重要な一つだった。

「いいにゃ? あんなストローみたいな細い二本出しマフラーとか、お洒落気取ったオーバル型のマフラーなんてものは、車に対する重大な侮辱にゃ! 車にタピオカでも吸わせる気かニャ!? 男なら、拳が奥まで丸ごと入るくらいの極太砲弾マフラーを、ちょっと斜めに突き出して、地面に向けて咆哮を上げるのが、真のシルビニャの美学というものにゃ!」

 直人は、大山荘の自分の部屋の畳の上で、埃まみれのガラケーを握りしめながら、一人で熱弁を振るっていた。

 しかし、目の前の現実は非常に厳しかった。

 現在、シルビアのテールエンドから突き出している柿本改のマフラーは、外見こそ百十五φほどの大口径だが、長年の放置による腐食で、内部の消音用グラスウールが完全に抜けきっていた。

 エンジンをかけた瞬間に、下品なフルストレート仕様のVIPカーか、あるいは暴走族の単車のような下品な爆音を撒き散らす「ただの鉄パイプ」と化しているのだ。

 この状態でアパートから一歩でも公道に出れば、お巡りさんに一発で御用となり、仮ナンバーを剥ぎ取られて「整備不良」のレッテルを貼られるのは火を見るより明らかだった。

「だが、僕ニャンには新しいマフラーを買う金なんか一円もないにゃ……。株で儲けた三十万のうち、半分はURASの『TYPE‐S』エアロと、プロジェクト・ミューのブレーキパッド『B SPEC』で使い果たし、残りの半分は車検の法定費用と、仮ナンバーの申請手数料として口座にロックされているにゃ。つまり、僕ニャンの財布は、今や小銭が数枚チャリチャリ鳴っているだけの荒野にゃ……!」

 直人は畳に爪を立てて悶絶した。

 マフラーを交換しなければ車検に通らない。しかし、新品はおろか、ヤフオクでまともな中古マフラーを買う資金すらない。

 何か、何か合法的に(あるいはグレーゾーンで)極太の砲弾マフラーを手に入れる方法はないか。

 直人の脳内のニューロンが、ガソリンの匂いを放ちながらフルブーストで回転し始めた。

 その時、彼の脳裏に、ある「記憶」が電撃のように閃いた。

「……そうだにゃ。あそこにあるはずだにゃ……!」

 直人が勤めているのは、それなりに知名度のある自動車専門誌の編集部だった。

 編集部のビルの横には、実車のテストやパーツの検証を行う「取材・検証部」が使用している、古ぼけたシャッター付きの倉庫が存在する。

 直人は思い出した。数ヶ月前、倉庫のバックナンバー資料を整理していた際、古いダンボールの山の下に、青い気泡緩衝材プチプチに包まれたまま、十数年以上も放置されている大きな「金属の塊」があったことを。

 それは、直人が入社する遥か昔、二〇〇〇年代初頭に企画された『S14シルビア・マフラー徹底比較!』という特集で、メーカーから提供、あるいは予算で購入されたパーツの残骸だった。

 当時、企画が終わった後、当時の先輩編集者が「これ、邪魔だからあとでアプガレ(アップガレージ)にでも持ってって売っといてよ」と言い残し、誰も面倒くさがって持っていかずに、倉庫の最深部でそのまま忘れ去られ、歴史の塵に埋もれていたのだ。

「あれは確か……HKSの、あの伝説のハイコストパフォーマンスマフラー『Hi‐Power 409(ハイパワーヨンマルキュウ)』だったはずにゃ! テール外径は、僕ニャンが愛してやまない、完璧なる百二十φにゃ!」

 直人は即座に立ち上がり、よだれを垂らしながら、自分の所属する編集部のビルへと向かった。

 土曜日の昼下がり、休日で人もまばらな取材・検証部の倉庫。

 そこを管理しているのは、定年退職後に嘱託として残っている、車にそれほど興味のない温厚な管理人の小林さんだった。

 直人は、猫耳を殊更にぺこぺこと動かし、いかにも「会社のために骨身を惜しまず働く忠実な社員」といった風な、胡散臭い笑顔を浮かべて小林さんに近づいた。

「小林さ〜ん! お疲れ様ですにゃ! 今日も素晴らしい管理能力にゃ!」

「おや、藤野くん。休みなのにどうしたんだい? また自分の車のパーツでも探しに来たのかい?」

「失礼にゃ! 僕ニャンは、この会社の安全と美化のために、自主的に『倉庫の有害危険物撤去キャンペーン』を行いに来たんだにゃ!」

「危険物? うちの倉庫にそんなものあったっけ」

「あるにゃ! 奥のシャッター倉庫の、あのダンボールの山の裏ににゃ! 実はあそこ、大昔の企画で放置された『スチール製のマフラー』が眠っているんだにゃ。小林さん、知らないんですにゃ? あれ、放置しておくと、中の錆がガスとなって充満し、最悪の場合、倉庫全体が金属中毒の危険に晒される可能性があるんだにゃ!」

「ええっ!? 金属中毒!? そんなにヤバいのかい?」

「そうだにゃ! それに、今、金属ゴミの不法放置は、環境省の監査が入ると会社が一発で営業停止になるレベルにゃ! でも、安心するにゃ。この社会貢献精神に溢れる素晴らしい社員である僕ニャンが、特別にプライベートの時間を割いて、僕ニャンの『個人的な産廃ルート』で処分してあげるにゃ!」

「おお、そうなのか! そりゃあ助かるよ。あれ、ずいぶん昔に『アプガレに出しといて』って言われたまま、誰も手をつけなくて困ってたんだ。処分してくれるなら、勝手に持って行っていいよ。処分費用も会社から出したいけど、予算申請が面倒だから、無料で引き取ってくれるならそれが一番ありがたい」

「お任せにゃ! 僕ニャンが責任を持って、シルビニャの……いや、僕ニャンの秘密の処理場で消滅させてあげるにゃ!」

 直人は、小林さんから倉庫の鍵を巧みに(実質的に嘘八百を並べ立てて)せしめると、スキップしながら倉庫の最深部へと侵入した。

 埃臭い、薄暗いシャッターを開ける。

 奥の棚の下、蜘蛛の巣が張ったダンボールを退けると、そこには青いプチプチに厳重に包まれた、巨大な金属の配管が横たわっていた。

 直人は、はやる心を抑えきれずに、プチプチをバリバリと引き剥がした。

「にゃ、にゃ……にゃあああああああ!!! これにゃ! これこそが、HKS Hi‐Power 409(ハイパワー409)にゃ!」

 直人は、暗闇の中でマフラーを抱きしめ、頬ずりをした。

 ハイパワー409。それは、一世を風靡したHKSのスポーツマフラー。

 最大の特徴は、シェル(サイレンサー)部分に美観と耐久性に優れた『SUS304ステンレス』を使用しつつ、床下を這うパイプ部分には、あえて『SUH409スチール』を採用することで、優れた排気効率と圧倒的なコストパフォーマンスを両立させた、実戦主義のハイブリッド構造だった。

 十数年もの間、日の当たらない倉庫の奥に眠っていたため、スチールパイプの部分にはうっすらと茶色い薄サビが浮いていたが、ステンレス製のタイコ部分と、百二十φの極太テールエンドは、磨けば鏡のように輝く極上品だった。

「メインパイプ径は、太古のSR20DETの排気圧をストレートに抜く、脅威の八十五φ! そして出口は、僕ニャンのソウルサイズである百二十φ! しかも、JASMA認定品だから、ウールさえ生きていれば車検も一発合格にゃ! 小林さん、ありがとうにゃ! 僕ニャンが、この『産業廃棄物』を、シルビニャのテールエンドで一生大切に保管してあげるにゃあ!」

 直人は、マフラーを両脇に抱え、自分の骨格が悲鳴を上げるほどの重さに耐えながら、アパートへの帰路についた。

 夕暮れ時の『大山荘』駐車場。

 直人は、早くも作業を開始していた。

 シルビアのリアをジャッキアップし、ウマを掛ける。

 現在付いている、ウール抜けの柿本マフラーを取り外す作業だ。

 だが、ここでもプライベーターの前に、大きな壁が立ち塞がった。

「にゃ、にゃんでにゃ……! ボルトが、一ミリも回らないにゃ!」

 触媒とマフラーの中間パイプを繋ぐフランジのボルトが、長年の熱とサビによって完全に「固着」していた。

 直人は、潤滑剤ラスペネをこれでもかと吹き付け、メガネレンチをボルトに掛け、自分の体重を乗せて足で思い切り踏んづけた。

 フンッ!!!

 カキィィィン! という、嫌な金属音が響いた。

「にゃ、にゃああああ!? ボルトの頭が、ねじ切れたにゃあああ!」

 サビで脆くなっていたボルトは、直人の強引なキックによって、あっさりと破断。ねじ切れたボルトの胴体が、フランジの穴の中にガッチリと残ったままになってしまった。

「嘘にゃ、嘘にゃあ! これじゃあ、新しいマフラーがボルト留めできないにゃ! ドリルで揉んで、ヘリサートを打つ(ネジ山を作り直す)しかないのかニャ!? そんな工具、持ってないにゃあ!」

 直人は、油まみれの地面に倒れ込み、足をバタバタとさせて絶叫した。

 その時。

「直人くん。また騒がしいね」

 やはり現れたのは、大家の大山豊だった。

 大山は、作業着のポケットに手を突っ込み、地面に転がっているねじ切れたボルトの頭を、つま先でツンツンと突ついた。

「大山さん! 絶体絶命にゃ! シルビニャのボルトが、へし折れて、心まで折れたにゃ!」

「……フランジの固着ボルトを、力任せに回せばそうなるよ。S14の触媒付近は、特に熱がこもるからね。まあ、絶望することはないさ。そのボルトは、フランジに直接ネジ山が切ってあるタイプじゃない。ただのボルト&ナットの貫通留めだ。貫通しているボルトが錆びて固着しているだけだから、ポンチとハンマーでぶっ叩けば、裏側に抜けるはずだよ」

「に、にゃんだってぇ!?」

 直人は、慌てて車体の下にもぐり込み、フランジの裏側を確認した。

 大山の言う通りだった。ネジ山が切られているわけではなく、ただボルトが通っているだけ。長年のサビで、穴とボルトが一体化しているように見えただけだった。

「本当だにゃ! ただの貫通ボルトにゃ!」

「古い車を弄る時は、構造をよく観察しなさい。力任せは車を壊すだけだ」

「大山さん、やっぱり昔、相当な車クズだったでしょう!? このS14の構造を、なんでそんなに知ってるんだにゃ!?」

「私はただの、ルールを重んじる大家だよ。それより、そのマフラー……懐かしいのを持ってきたね」

 大山は、地面に置かれた『HKS Hi‐Power 409』に目を留めた。

「ほう。ハイパワー409か。メイン八十五φ、テール百二十φだな。サイレンサーのステンレスと、パイプのスチール(SUH409)の質感の対比が、いかにもあの時代のスポーツマフラーという感じで渋いな。これなら、ウールさえ生きていれば、当時の保安基準には楽々適合するはずだ」

「さすが大山さん、話が早いにゃ! これさえ付ければ、僕ニャンのシルビニャは、車検の音量測定を涼しい顔でパスできるんだにゃ!」

「まあ、早くそのねじ切れたボルトを抜いて、マフラーを取り付けなさい。23番の人が、さっきからベランダで『またあの猫耳が駐車場を占拠してる』って、呆れ顔で見てるからね」

「わ、わかったにゃ!」

 直人は、大山から借りた金属ポンチと、手持ちのハンマーを使い、へし折れたボルトの断面を力任せにぶっ叩いた。

 ガン! ガン! ガン!

 火花が飛び散り、数回の強打の後、固着していたサビの塊とともに、折れたボルトが『ポロリ』と裏側に抜け落ちた。

「抜けたにゃアアア! さすが大山荘の知恵袋にゃ!」

 直人は、新しいボルトとナットを使い、触媒のフランジに、調達してきた『Hi‐Power 409』を仮留めした。

 中間パイプから、リアのタイコ(消音器)に繋がるレイアウト。S14の床下の絶妙なクリアランスを縫うように、極太の八十五φパイプが通っていく。

 そして、リアバンパーの切り欠き部分から、燦然と輝く「百二十φ」の巨大な砲弾型テールが突き出した。

「……完璧にゃ。この、バンパーの隙間を埋め尽くすような、圧倒的な存在感……。これこそが、僕ニャンの求めていた、真実のシルビニャの姿にゃ!」

 直人は、スチールパイプ部分を耐熱の黒スプレーで軽く防錆塗装し、すべてのボルトを本締めした。

 サビサビの15インチの鉄チンホイールに、へたって中途半端に車高が下がったダサい足回り。そこに、不釣り合いなほど美しく、凶暴な百二十φのステンレス砲弾マフラーが、ギラリと光を反射していた。

 チンドン屋感は、さらに加速していたが、直人にとってそんなことはどうでもよかった。

「いよいよ、運命のサウンドテストにゃ……!」

 直人は、祈るような気持ちで運転席に座り、キーを回した。

 キュキュキュ……ブォォォォン。

 エンジンが始動した。

 その瞬間、直人は、あまりの感動に目を見開いた。

「……ボォォォォォォォォォォォォォ……」

 そこにあったのは、先ほどの、アパート全体を揺らすような下品な爆音ではなかった。

 耳に心地よい、しかしSR20DETならではの、乾いた、図太い低音。

 アクセルを軽く煽ってみる。

 ブォォォン! コォォォォン!

 回転数が上がるとともに、エキゾーストノートが澄んだ音色へと変化し、アクセルを離すと、ジェントルに回転が落ちていく。

 音量は、車検の近接排気騒音基準(99dB以下)を、余裕で下回るレベルで静かだった。さすがは、屋根付きのシャッター倉庫で十数年間、排気熱に晒されることなく、消音用グラスウール(連続繊維アドバンテックスグラスウール)が完璧な状態で保存されていた、未使用に近いマフラーだった。

「これにゃ……! これこそが、僕ニャンが夢にまで見た、シルビニャの真の咆哮にゃアアア! 下品な直管サウンドなんかじゃなく、本物の、ジェントルで男らしいスポーツサウンドにゃあああ!」

 直人は、ステアリングを叩いて涙を流した。

 排気漏れは、完璧に解消された。

 マフラーの音量も、車検に完全に適合した。

 前後バンパーも、見た目は白ゲルでチリが合っていなくても、一応は付いている。

 ブレーキも、クラッチも、完全に動作する。

「勝ったにゃ……。これで、明日、仮ナンバーを借りて、車検場まで堂々と自走し、一発でナンバープレートを手に入れることができるにゃアアア!」

 直人は、喜びのあまり運転席で、エアギター(エアマフラー)をかき鳴らしながら、奇声を上げてのたうち回った。

 その日の深夜。

 直人は、真っ黒なサビと、耐熱塗料の臭いで汚れた体を、シャワーで念入りに洗い流していた。

 ザザーーーッ、と響くシャワーの音。

 そして、お風呂場から、またしても直人の、今度は少し誇らしげな歌声が響き渡った。

「〜♪ 僕のシルビニャ、百二十φ〜、HKSの、ハイパワーにゃ〜、静かでジェントル、だけど図太い〜、これで車検は、一発合格にゃ〜〜♪」

 真っ黒な汚れを全て洗い流し、直人は充実感に満ちた表情で風呂から上がった。

 そして、明日、車検場に持ち込むための、自賠責保険証や仮ナンバーの申請用紙をローテーブルの上に並べた。

「ふふ、ふふふふ。明日の朝、区役所で仮ナンバーを受け取ったら、そのままシルビニャを車検場に持ち込むにゃ。そして、ナンバーを取得したその足で、首都高C1の外回りに直行にゃ!」

 直人は、予行演習として、シルビアの運転席に座り、クラッチを踏み、ギアシフトを操作するイメトレを始めた。

 イメトレの中で、彼はふと、あることに気づいた。

「……そういえば、ブレーキやクラッチは治したけど、メーター類の動作確認を、まだ一度もしてなかったにゃ」

 直人は、ジャンプスターターを繋ぎ、キーを『ON』の位置にした。

 インストルメントパネルの、オレンジ色のインジケーター類が点灯する。

 直人は、ギヤをニュートラルに入れ、アクセルを踏み込んだ。

 ブォォォン!

 タコメーターの針が、エンジンの回転数に合わせて、スムーズに跳ね上がった。

「タコメーターは、バッチリ動作するにゃ! じゃあ、スピードメーターは……?」

 直人は、ジャッキアップされたままのシルビアのギヤを、一速に入れた。

 クラッチをゆっくりと繋ぐ。

 リアタイヤが、空中(ウマの上)で、クルクルと静かに回り始めた。

 時速十キロ……二十キロ……三十キロ……。

 だが、スピードメーターの針は、ゼロの位置から、ピクリとも、一ミリも、動かなかった。

「……にゃ?」

 直人は、メーターを指でコンコンと叩いた。

 だが、針はピクリともしない。

 ギヤを二速に入れ、さらにアクセルを踏み込む。リアタイヤは、空中で明らかに時速五十キロ以上の速度で激しく回転している。

 だが、スピードメーターは、死んだようにゼロを指し続けたまくだった。

「にゃ、にゃ……にゃあああああああああああああああああああ!?!? スピードメーターが、ピクリとも動かないにゃああああ!!! なんでにゃ!? なんで動かないんだにゃあ!」

 スピードメーターが動かない。

 それは、車検における「スピードメーターの誤差測定(時速四十キロでパッシングする検査)」において、一発で不合格(というか、検査にすらならない)になることを意味していた。

「まさか……! ミッションの横についてる、車速センサーが、経年劣化で完全に死んでるのかニャアアア!? それとも、メーター本体の基盤がハンダ割れで死んでるのかニャアアア!?」

 直人の悲痛な叫びが、深夜の『大山荘』に、百二十φの低音エコーを伴って、虚しく響き渡った。

 終わらない、プライベーターの悪夢。

 車検場への出発予定時刻まで、あと、十時間。

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