車検に通らないにゃ!
ある晴れた土曜日の午前中、埼玉県南東部のとある地方銀行のATMコーナーに、周囲から明らかに浮いている男がいた。
襟足のやたらと長い髪型、ピンと立った白猫獣人の耳。そして何より、どれだけ洗っても落ちないギヤオイルと鉄粉の臭いを微かに漂わせている二十四歳の男、藤野直人である。
「じゅ、十、二十、三十……。ふふ、ふふふふ。あるにゃ、確かにあるにゃ! 僕ニャンが、怪しい半導体株のデイトレードで、奇跡的なビギナーズラックを掴み取って得た、あぶく銭三十万円がここに顕現したんだにゃ!」
直人は、新券の渋沢栄一を親指でペラペラと数えながら、恍惚の表情を浮かべていた。
前回の地獄のプライベーター整備によって、日産・S14シルビア前期型K’sは、辛うじてエンジンがかかり、クラッチが切れ、ブレーキの固着も解消された。だが、車は「動く」だけでは公道を走ることはできない。
車検を通し、ナンバープレートを取得しなければ、仮ナンバーの期限が切れた瞬間に、ただの「巨大な粗大ゴミ」に戻ってしまう。
「公道に出て、シルビニャの過給圧を最大にして、首都高の風になるためには、何が何でも車検をパスしなきゃいけないんだにゃ。だが……車検を通すには、国に納める重量税や自賠責保険、そして印紙代が必要にゃ。予備検査場の費用も含めれば、それだけで十万近くが吹き飛ぶにゃ。そして、何より……」
直人は、手元に残った二十万円分の札束を睨みつけた。
「今のシルビニャの、あのバッシュバー丸出し、メンバーフレーム剥き出しのフロントマスクじゃ、車検場の敷地に入った瞬間に、検査官から『不審車両お断りにゃ!』と塩を撒かれて追い返されるのがオチにゃ……!」
そう、車検を通すには、最低限「バンパー」が必要だった。
前後のバンパーが無く、サイドステップも毟り取られた状態のボディは、対歩行者への安全基準(突起物規制など)に著しく抵触するため、絶対に車検には通らない。
直人は数日前、自分のアパートの汚部屋で、ガラケーを片手にヤフオクを血眼になって検索していた。だが、S14シルビアの純正バンパーは、今や絶滅危惧種。たまに出品されても、ボロボロのくせに「旧車プレミアム価格」として十万円を超えるような狂った相場になっていた。
「純正のくせに高すぎるにゃ! あんな野暮ったいプラスチックの塊に十万も払うくらいなら、社外の戦闘的なエアロを買った方が、よっぽどシルビニャも喜ぶにゃ! それに、僕ニャンはカー雑誌の編集者。変な純正仕様なんかじゃ、同僚に『お前、守りに入ったな』とバカにされるにゃ!」
そこで直人は、ドリフト界のレジェンド「のむけん」こと野村謙氏がプロデュースする有名ブランド『URAS』のパーツサイトを、夜通しホリホリ(検索)していた。
候補は二つ。
一つは、これぞドリ車と言わんばかりの、サイドに大きくエッジが効いたド派手な『張り出し(HARIDASHI)』。
もう一つは、グラマラスで、大胆なデザインの、スポコンチックなフルバンパータイプ『TYPE‐S』。
「迷うにゃあ……。張り出しのあの、地面を削りながら走るような悪そうなシルエットも捨てがたいにゃ。でも、僕ニャンはドリフトじゃなくてグリップ派。首都高のうねる路面で、一発でフロントバンパーを粉砕する未来が見えるにゃ。よし、今回は大人しく、スタイリッシュな『TYPE‐S』の3点セット(フロント・サイド・リア)にするにゃ!」
直人はその場で『URAS TYPE‐S』を注文した。
送料を含めて約十四万円。株の儲けの約半分が、一瞬でネットの海に消え去った。
そして数日後、大山荘の玄関前は、巨大なダンボール箱で完全に埋め尽くされることになった。
「直人くん。これ、何だね」
階段を上がってきた大家の大山豊が、202号室のドアの前にそびえ立つ、大人が三人くらい入れそうなサイズのダンボールを見上げて言った。
「大山さん! これこそが、シルビニャの新たなる皮膚にゃ! URASのTYPE‐Sエアロにゃ!」
「……君の部屋、完全に塞がってるじゃないか。これじゃあ、火事の時に逃げられないよ。それと、これを塗装して取り付けるショップに行くお金はあるのかい?」
「ショップ? そんな成金が使うような場所に払う金は、僕ニャンには一円もないにゃ! 車乗りなら、エアロの取り付けくらい、自分の手(DIY)でやるのが義務にゃ!」
「……また嫌な予感がするね。まあ、アパートの廊下でスプレー缶を吹くのだけは勘弁してくれよ」
大山はそう言って、諦めたように立ち去った。
直人はさっそく、巨大なダンボールから、真っ白なFRP製のフロントバンパーを引っ張り出した。
未塗装のゲルコート仕上げのままだ。本来なら、ボディ同色に塗装してから取り付けるのが筋だが、直人にはそんな塗料代も、スプレーガンを吹くコンプレッサーもない。
「色なんて、走る上ではただの飾り性能にゃ! 真っ白なゲルコートのまま取り付けて、何が悪いんだにゃ! 走れば風で汚れが付いて、そのうち馴染むにゃ!」
そう強弁しながら、直人はシルビアのフロントにバンパーをあてがった。
だが、FRP製の社外エアロというのは、そのままボルトオンで付くほど甘くはない。いわゆる「チリ(隙間や位置の合わせ)」が全く合わないのだ。
右側を合わせれば、左側が3センチほどはみ出す。フェンダーのアーチ部分にボルト穴を合わせようとすると、今度はライトの下に巨大な隙間ができる。
「にゃ、にゃあああ! 全然合わないにゃ! これが……社外FRPエアロの洗礼にゃ!」
直人は、部屋からベルトサンダーとヤスリを持ち出し、アパートの駐車場22番で、バンパーの干渉部分をガリガリと削り始めた。
キィィィィィン! ガリガリガリガリ!
激しい騒音とともに、真っ白なFRPの粉塵が周囲に舞い散る。その粉が、直人の腕や首筋に付着した。
「か、痒いにゃ! 全身がチクチクして、地獄の痒さにゃアアア! でも、シルビニャを美しくするためなら、この皮膚の痛みなど、蚊に刺されたようなものにゃ!」
直人は涙目でヤスリを振り回し、干渉部分を削っては現物合わせを繰り返した。
ボルトを通す穴がない部分は、ドリルでバンパーに直接穴を開け、フェンダーの金属部分にタッピングビスで直留めした。さらに、どうしてもチリが合わないライト下の部分は、必殺の「タイラップ留め」で無理やり引っ張って固定した。
数時間に及ぶ、粉塵まみれの格闘の末。
フロントバンパー、サイドステップ、リアバンパーの3点が、なんとかシルビアの車体に固定された。
「……できたにゃ。これが、僕ニャンとシルビニャの、新たなる絆にゃ!」
直人は、全身を真っ白な粉でコーティングした雪男のような状態で、数歩下がってシルビアの全体像を眺めた。
「………………」
直人の表情から、徐々に喜びが消え、冷たい沈黙が訪れた。
「……ま、まずいにゃ。ダサい。異常に、ダサいにゃ……!」
そこにあったのは、スタイリッシュな『URAS TYPE‐S』を装着した、見るに耐えないアンバランスな怪物だった。
エアロ自体は、エッジの効いたスポーティで渋いデザインだ。しかし、それを支える「足元」が、完全に終わっていた。
ホイールは、直人が解体屋の隅に転がっていたゴミから、一本千円で買ってきた、サビだらけの15インチの「鉄チン(スチールホイール)」。タイヤも、溝がギリギリ残っているだけの、銘柄すらバラバラな超高扁平の格安エコタイヤ。
さらに、足回りは、前オーナーが装着したと思われる、へたりきって錆びたよくわからないメーカーの「ダウンサス」と、完全にガスとオイルが抜けたショックアブソーバー。
車高が中途半端に高く、しかもショックが抜けているせいで、車体が微妙に左に傾いている。
「なんにゃこれは……! 上品なジャケットを着ているのに、下半身はサビた下駄を履いて、泥沼に片足だけ突っ込んでいるような、オワコンのシルエットにゃ! エアロが良いだけに、他のボロさが際立って、チンドン屋みたいに見えるにゃあ!」
直人はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。
だが、今さらホイールや車高調を買う予算はない。残りの資金は、車検の法定費用と、どうしても交換したかった「走りのパーツ」に消えていたのだ。
「いいにゃ……。見た目は後からどうにでもなるにゃ。まずは、走るための『機能』にゃ!」
直人は、気を取り直して、もう一つの購入品を取り出した。
ライムグリーンの鮮やかなパッケージ。
ブレーキパッドの超定番ブランド『Projectμ(プロジェクト・ミュー)』の『B SPEC』だった。
「ふふん、ストリートからミニサーキットまで対応する、コントロール性重視のスポーツパッドにゃ! プロミューのこの、目に鮮やかな緑色のパッドが、サビた鉄チンの隙間からチラリと見える……これこそが、真の羊の皮を被った猫にゃ!」
直人は、先ほどオーバーホールしたばかりのブレーキキャリパーを再びバラし、古いすり減ったパッドを外して、新品の『B SPEC』を滑り込ませた。
ピストンをピストンプライヤーで戻し、鳴き止め用のシムにグリスを薄く塗り、キャリパーを元通りに組み直す。
「よし! これでブレーキタッチも、制動力も、スチールの鉄チンが悲鳴を上げるレベルまで強化されたにゃ!」
作業は、ほぼすべて完了した。
これで、外観上は「前後バンパー付き(色は白ゲルだが)」となり、ブレーキも、クラッチも、水回りも治った。
あとは、車検場(陸運局)に持ち込んで、光軸や排ガス、そして「音量」の検査を受けるだけだ。
「……最後に、排気音の確認にゃ。このシルビニャには、最初から信頼のブランド『柿本改』のマフラーが入ってるにゃ。しかも、ちゃんと車検対応を示す『JASMA認定プレート』が溶接されてるにゃ。これなら、音量検査なんか余裕のヨッちゃんにゃ!」
直人は自慢げに、シルビアのテールエンドから突き出している、大口径の砲弾型マフラーを見つめた。柿本改。その名は、スポーツマフラーの代名詞だ。
直人は、運転席に乗り込み、キーを回した。
キュキュキュ……ブォォォォン!!!
エンジンがかかった。
だが、その瞬間。
「……にゃ?」
アイドリングの音が、異常だった。
重低音、というレベルを超えていた。
ドバババババババババババ!!!
アパートの窓ガラスが、ガタガタと音を立てて震え出す。
直人がアクセルをほんの少し、ツンと煽ってみた。
バァァァァァァァァァン!!! バララララララ!!!
「に、にゃあああああああ!? うるさいにゃ! 異常なほどにうるさいにゃアアア!!!」
直人は、慌てて運転席から飛び降り、マフラーの後方に回った。
そこから吐き出される排気音は、柿本改特有の「ストリート向けの乾いたスポーティなサウンド」などでは断じてなかった。
それは、まるですべての消音器を取り払った、極悪な「直管マニ割りデコトラ」か、あるいは下品な「フルストレート仕様のVIPカー」が放つような、鼓膜を破壊せんばかりの、下品で野蛮な爆音だった。
「なんでにゃ!? JASMAのプレートが付いてるのに、なんでこんな単車みたいな音がするんだにゃ!?」
直人は、地面に這いつくばり、マフラーのサイレンサー部分を指の関節でコンコンと叩いてみた。
カーン、カーン……。
乾いた、空っぽの、ただの金属パイプの音が響いた。
「……中身が、空っぽにゃ。経年劣化と、前オーナーが何年も雨ざらしで放置していたせいで、サイレンサーの内部のグラスウール(消音材)が、腐食して全部ちぎれて吹き飛んでるんだにゃ! JASMA認定マフラー(中身なし仕様)にゃアアア!」
経年劣化によるウール抜け。
マフラーのシェル内部に詰められているはずの耐熱グラスウールが、排ガスの熱と水分でボロボロになり、長年の走行(あるいは空吹かし)によって、すべてテールエンドから排出され、宇宙の彼方へ霧散してしまったのだ。
今やこのマフラーは、外見こそ柿本改だが、中身はただの「太い鉄パイプ」と何ら変わりはなかった。
ドンドンドンドンドンドン!!!
下の階から、モップの柄での怒りの連打が、ドラムのソロ演奏のように鳴り響いた。
「うるせえええええええ!!! 何が始まったんだコラァ! アパートが揺れてテレビの音が聞こえねえええええ!」
「に、にゃあああ! 僕ニャンだって、こんな下品な音は望んでないにゃアアア! シルビニャの、高回転の美しい高音を聴きたいのに、これじゃあ暴走族にゃアア!」
直人は、耳を塞ぎながら叫んだ。
この音量では、車検場に行く以前に、アパートの敷地から一歩出た瞬間に、白黒のツートンカラーの車に捕獲され、「整備不良」の切符を切られるのが目に見えていた。
「……どうするにゃ。マフラーを買い替える金なんか、もう一円もないにゃ……」
直人は、財布を開けた。
中には、千円札が二枚と、小銭が数百円。
これで、車検場までのガソリン代と、仮ナンバーの申請手数料を払えば、文字通り「残高ゼロ」になる。
大山荘の駐車場に、下品な重低音が響き渡る中、直人は真っ白なFRPの粉と、マフラーの煤で汚れた顔を歪め、絶望の淵に立たされていた。
鉄チンのダサい足回り。
へたった車高。
そして、JASMA認定(中身は直管)の爆音マフラー。
公道テストへの道は、直人が思っていたよりも、遥かに険しく、泥濘に満ちていた。
その日の深夜。
直人は、部屋のシャワーで、体に付着したチクチクするFRPの粉を、叫びながら洗い流していた。
「あちちち! お湯をかけると、余計にチクチクして痒いにゃあああ! でも、僕ニャンは負けないにゃ! 明日、絶対に、あの爆音を黙らせる『悪魔のライフハック』を実行して、シルビニャを車検場に叩き込んでやるにゃアアア!」
お風呂から上がった直人は、体中を真っ赤に腫らしながら、ガラケーで「マフラー 消音 ライフハック 100均」の文字を検索し始めていた。
翌朝、大山荘のゴミ捨て場には、昨日直人が捨てた、マフラーから抜け落ちたと思われる、真っ黒に焦げたグラスウールの残骸(ヘドロのような綿)が、やはり「回収不可」の赤いステッカーを貼られたまま、カラスに突つかれていた。




