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直すにゃ

 早朝の『大山荘』の駐車場に、金属が擦れ合う悲痛な悲鳴が響き渡っていた。

 キィィィィィィィィ……ガガガガッ!

 積載トラックの荷台から、ウインチのワイヤーに引かれてゆっくりと滑り降りてくる白い物体。

 それこそが、藤野直人が全財産と来月の食費を担保にしてヤフオクで落札した、日産・S14シルビア前期型K’s。心臓部に名機SR20DET(直列四気筒ターボ)を抱いた、かつての一世を風靡したスポーツクーペだった。

「にゃ、にゃ……にゃああああっ! タイヤが回ってないにゃ! 引きずってるにゃ! シルビニャの足が悲鳴を上げてるにゃああ!」

 直人は、寝癖で爆発した襟足の長い髪を振り乱しながら、積載トラックの横でジタバタと跳ねていた。

 陸送屋の運転手は、冷や汗を拭いながらウインチのスイッチを操作している。トラックの荷台から降ろされようとしているシルビアのリアタイヤは、完全にロックしたままピクリとも回らず、コンクリートの地面に黒いゴムの摩擦痕を擦り付けながら、無理やり引きずり降ろされていた。

「これ、リアブレーキ完全に固着してますね……。積む時もフォークリフトと台車で無理やり載せたんですけど、本当にこんなの引き取って大丈夫なんですか?」

「大丈夫にゃ! 僕ニャンの愛があれば、これくらい朝飯前にゃ! さあ、早く22番の区画に降ろして、僕ニャンをシルビニャと二人きりにしてほしいにゃ!」

 ドスン、と重々しい音を立てて、シルビアが『大山荘』の駐車場22番に鎮座した。

 その姿は、実物で見るとさらに凄まじい「狂気」を放っていた。

 フロントバンパーは最初から存在せず、スチールパイプを曲げて溶接された極太のバッシュバーが、まるで剥き出しの牙のように前方に突き出している。インタークーラーやラジエーターのアルミコアが、何の遮るものもなく、ダイレクトに外気に晒されていた。

 ボディは、全体的にハンマーで殴打されたような歪みがあり、自家塗装の白い缶スプレーの跡が、あちこちでカサブタのように固まっている。フェンダーは不揃いにハンマーで叩き出され、お世辞にも「美しいスポーツカー」とは呼べない、サーキットでボコボコに酷使されたガチの練習車、いわゆる「ミサイル」そのものだった。

「……美しいにゃ。この、無駄な贅肉をすべて削ぎ落とした、戦う骨格……。たまらないにゃあ」

 直人はうっとりとした表情で、ボコボコに歪んだボンネットに自分の頬をスリスリと擦り付けた。

 陸送屋の運転手は、完全に引きつった笑いを浮かべ、受領書にサインをもらうと、逃げるように積載トラックを急発進させて去っていった。

「さて! さっそく、シルビニャのエンジンを始動して、僕ニャンの超絶テクニックで駐車場に綺麗に収めるにゃ!」

 直人は運転席のドアを開けた。内装はダッシュボードを除いて完全にドンガラ(撤去済み)で、カーペットすら剥がされて鉄板が剥き出しになっていた。

 バケットシートに腰を下ろし、クラッチペダルを踏み込もうとした、その瞬間だった。

「……にゃ?」

 フニャッ。

 妙に軽い手応え、いや、足応えだった。

 直人が踏み込んだクラッチペダルは、何の手応えもなく、床まで「スコッ」と吸い込まれるように沈み込み、そして二度と戻ってこなかった。

「にゃ、にゃあああああ!? クラッチペダルが、床と合体したにゃあああ! 戻ってこないにゃ! クラッチが切れないにゃあ!」

 直人は慌てて運転席の足元に頭を突っ込み、手でペダルを引っ張り戻した。だが、再び踏むと、やはりスコスコのまま床に張り付く。

 直人は即座に車から飛び降り、ボンネットを開けてクラッチのマスターシリンダーを確認した。

 クラッチフルードを入れる小さなタンクは、底の方に黒く濁った泥のような液体が数滴残っているだけで、完全に空っぽだった。

「……クラッチのマスターと、レリーズシリンダーが、両方とも死んでるにゃ。フルードが完全に抜けきって、空気を吸い込んでるにゃ。これじゃあ、ギアが一速にも入らないにゃ。自走なんて夢のまた夢にゃ……」

 直人は、がっくりと肩を落とした。

 だが、絶望している暇はなかった。

 とりあえず、エンジンだけでもかけてみようと、持参したポータブルのジャンプスターターを、死に絶えたバッテリーに繋いだ。

 キーを回す。

 キュキュキュキュ……ババババババババ!!!

「にゃ、にゃああああ!?」

 エンジンは一発で始動した。さすがはタフなSR20DET。

 だが、その音は、直人がかつて乗っていたスイスポの比ではないほど、異様で、暴力的な騒音だった。

 バババババ! ベベベベベベ!

 マフラーからではなく、エンジンルームの奥、タービンの周辺から、直接、暴力的な排気ガスが吹き出している。耳を劈くような金属的な排気漏れの音。

「タービンガスケットが、完全に抜けてるにゃ……。排気ガスが、エキマニとタービンの隙間からダダ漏れにゃ。おまけに、この匂いは……!」

 エンジンルームから、怪しげな白煙が立ち上り始めた。

 直人が目を凝らすと、タービンに繋がっている冷却水クーラント用の金属製配管ウォーターラインの継ぎ目から、霧状になった緑色の冷却水が、まるでスプリンクラーのようにシリンダーブロックに向けて噴き出していた。

 さらに、その上にあるパワーステアリングの高圧ホースの加締め部分から、赤黒いパワステフルードが「ポタポタ」と滴り落ち、その直下にあるオルタネーター(発電機)に直撃していた。オルタネーターは熱を持ち、かかったパワステフルードがじゅうじゅうと不穏な煙を上げている。

「にゃ、にゃあああ! オルタネーターにオイルが直撃してるにゃ! このまま走ったら、オルタがショートして死ぬか、エキマニの熱でパワステオイルが引火して、シルビニャが火だるま(炎上ミサイル)になるにゃ! 危なすぎるにゃ!」

 慌ててキーをオフにして、エンジンを止めた。

 静寂が戻る。

 だが、静寂の中で、直人はもう一つの「異常」に気づいた。

 エンジンを切ったにもかかわらず、リアのブレーキランプが、赤い光を放ったまま、煌々と点灯し続けているのだ。

「にゃんでにゃ? キーは抜いたにゃ。なのに、なんでブレーキランプが点きっぱなしにゃ?」

 直人は再び運転席の足元を覗き込んだ。

 ブレーキペダルのアームの根元、スイッチが当たる部分の床に、砕け散った黄色いプラスチックの破片がいくつか転がっていた。

「……ブレーキペダルの、ラバーストッパーが経年劣化で砕け散ってるにゃ。スイッチを押し戻すゴムが無くなったから、ブレーキが踏まれっぱなしだと車が勘違いして、ランプが消えないんだにゃ。シルビア定番の、超マイナーだけどバッテリーが即死する持病にゃ……!」

 直人は、頭を抱えて地面にへたり込んだ。

 

 クラッチオペレーティング(レリーズ)シリンダーおよびマスターシリンダーの液漏れによる、油圧不全(クラッチが切れない)。

 リアブレーキキャリパーの完全固着(引きずり、ロック)。

 エキマニとタービンの間のガスケット抜け(排気漏れ)。

 タービンウォーターライン(金属配管)のクラックによる、冷却水吹き出し。

 パワステ高圧ホースからのフルード漏れ(オルタネーター直撃による火災リスク)。

 ブレーキランプスイッチのストッパー破損による、常時点灯(バッテリー上がり)。

 これら全てが、一度に直人の前に立ち塞がっていた。

 車検を通すどころか、仮ナンバーを借りて車検場まで数キロ走らせることすら、物理的に、そして法律的に、100%不可能な「ただの鉄の塊」だった。

「……上等にゃ。これぞ、ヤフオクで五十万のボロミサイルを買うということの、真の醍醐味にゃ。これを一つずつ、僕ニャンの手で治していくプロセスこそが、最高の脳汁分泌アクティビティなんだにゃ!」

 直人の目に、不敵な、そして完全に狂った光が戻った。

 数時間後。

 大山荘の駐車場22番は、臨時の「野外整備工場」と化していた。

 直人は、愛用の油圧ジャッキをシルビアのフロントメンバーにかけ、一気に持ち上げた。車体の下に入り込むため、ガレージジャッキの左右に、金属製のウマ(リジッドラック)をガッチリと掛ける。

 地面には、ダンボールが敷き詰められ、その上には、スナップオンの工具箱や、パーツクリーナーの缶が、まるで戦闘準備を整えた武器のように並べられていた。

「直人くん。また始まったね」

 背後から、呆れた声がした。大家の大山豊だった。

 大山は、手に持ったほうきを地面にトントンと当てながら、リジッドラックの上に乗った、ボコボコの白いシルビアを見上げていた。

「大山さん! 見てにゃ! ついに僕ニャンのシルビニャが降臨したんだにゃ! この、フロントのバッシュバー、男らしくて最高だにゃ!?」

「……バッシュバーっていうか、ただの鉄パイプを溶接しただけに見えるけどね。それより直人くん、また駐車場の21番と23番のスペースに、工具箱と、あの怪しい黒いオイル受けのタライがはみ出してるよ。23番の人は今日、仕事がお休みだから、車を止めたいって言ってるんだ」

「にゃっ! 今、シルビニャの足回りをバラしてるから、一時的にスペースを使わせてもらってるだけにゃ! ちょっと待っててくれれば、すぐに片付けるにゃ!」

「すぐに、って言っても、君の『すぐ』はだいたい夜中の三時まで続くからね……。まあ、それにしても……」

 大山は、シルビアのエンジンルームを覗き込んだ。

 そこには、SR20DET特有の、赤いヘッドカバー(前期なので、本来はシルバーか赤だが、ボロミサイルなので自家塗装の赤)が鎮座していた。

「……SRか。定番のパワステホースからの漏れに、タービンのウォーターラインのクラック。おまけにリアキャリパーの固着か。よくもまあ、これだけ不具合が揃った車を買ったもんだね」

「にゃっ!? 大山さん、なんでそんなに詳しいんだにゃ!? もしかして、昔本当にSRでブイブイ言わせてたのかニャ!?」

「私はただの、安全運転を心掛ける老人だよ」

 大山は、ふいと目を逸らし、ほうきを動かし始めた。

「……SRはね、エキマニのガスケットが抜けてタービンがブレると、その振動が直接、金属製のタービンラインに伝わって、パイプの首のところにクラックが入るんだ。社外のステンメッシュホースに変えれば一発で治るけど、君、そんなお金あるのかい?」

「にゃ、にゃあああ! 大山さん、鋭いにゃ! 僕ニャンには、今、そんな高級な社外アフターパーツを買う金は一円もないんだにゃ! 今それを取り寄せたら、来月の家賃(大山さんへの支払い)が滞るにゃ!」

「それは困るな。家賃はキッチリ払ってもらわないと」

「だから! 今回は、純正同等のスチール製の補修パイプ(格安の社外同等品)をヤフオクで調達したにゃ! これを、知恵の輪のようにエキマニの裏に通して、なんとか安く治すんだにゃ!」

「……エキマニ裏のタービンライン交換は、手が入らないから相当苦労するよ。手が傷だらけになる。頑張りなさい」

 大山はそう言い残すと、掃除を続けながら去っていった。

「ふん、僕ニャンの細い猫の手にかかれば、エキマニの隙間なんて余裕にゃ!」

 直人は、鼻息を荒くしながら、さっそく作業を開始した。

 まずは、自走を不可能にしている最大の原因、リアブレーキの固着からだ。

 直人は、リアホイールを外し、サビサビのブレーキキャリパーを対面させた。

 ブレーキパッドを外そうとしたが、ピストンが完全に押し出された状態で固着しており、ビクともしない。S14やS15のリアキャリパーは、サイドブレーキ機構ヘリカルギアがピストンの内部に内蔵されているため、フロントキャリパーのようにシャコ万力で力任せに押し込もうとすると、内部の機構が木っ端微塵に粉砕される。

「ふふん、シルビニャのリアキャリパーをナメてもらっちゃ困るにゃ。ピストンを戻すには、こうやって、専用の『ピストンツール』を使って、時計回りにクルクルと回しながら押し込んでいくんだにゃ!」

 直人は、ラチェットレンチの先にキューブ型のピストンツールを装着し、ピストンの溝に合わせて、力を込めて回し始めた。

 ギギギ、ギギギ……。

 固着したサビが噛み込んでいるせいで、めちゃくちゃに重い。直人は、腕の筋肉を限界まで引き絞り、顔を真っ赤にしながらレンチを回した。

「にゃ、にゃあああ! 固いにゃ! 前オーナー、何年放置してたんだにゃ!? でも、僕ニャンの愛の力で、回らないピストンはないにゃあ!」

 フンッ! と力を込めた瞬間、ゴリッ、という手応えとともに、ピストンがゆっくりと回り始めた。

 そのまま、ピストンをキャリパーから完全に抜き取る。

 中から出てきたピストンは、案の定、茶色いサビでドロドロになっていた。このままでは、新しいシールを組んでもすぐにまた固着する。

 直人は、用意していた耐水ペーパー(1500番)に、ブレーキクリーナーを吹き付け、手作業でピストンの表面をチマチマと磨き始めた。

「シルビニャ……。今、綺麗にしてあげるにゃ……。このサビを取り除いて、新しいゴムのシールキット(ピストンシール、ダストブーツ)を組めば、お前の足元は、新車のように軽やかになるにゃ……」

 直人の独り言を聞いていた、通りすがりのアパートの住人が、ドン引きした表情で距離を置いて通り過ぎていったが、直人は全く気にする様子もなかった。

 ピストンをピカピカに磨き上げ、数百円で買った純正同等のキャリパーシールキットのゴムを組み込む。ピストンを再びキャリパーに戻し、スライドピンのグリスアップも完璧に行う。これで、リアの引きずりは完全に解消された。

 次に、クラッチ。

 ミッションの横にしがみついている、クラッチレリーズ(オペレーティング)シリンダーを取り外す。

 外したシリンダーのダストブーツをめくると、中から、腐った醤油のような黒いクラッチフルードがドロドロと溢れ出てきた。ゴムのカップ(ピストンシール)が完全に摩耗して、圧力を保持できなくなっていたのだ。

「これも、シリンダー本体を丸ごとアッセンブリーで交換したら一万円近くするにゃ。でも、僕ニャンは、数百円の『インナーキット(ゴムカップとピストンのセット)』だけでオーバーホールするにゃ!」

 直人は、細いマイナスドライバーを使い、シリンダー内部のサビを綺麗に掻き出し、ピストンクリーナーで洗浄。新しいゴムカップをピストンに装着し、シリコングリスをたっぷりと塗ってシリンダーに押し込んだ。

 車体の下にもぐり込み、ミッションの横にレリーズシリンダーをボルト留めする。

 さらに、エンジンルーム側のクラッチマスターシリンダーも同様に分解し、インナーキットを交換した。

「これで、油圧系統は完璧に復活したにゃ。あとは、クラッチのエア抜きにゃ……」

 通常、クラッチやブレーキのエア抜き(配管の中の空気を抜く作業)は、二人がかりで行う。一人が運転席でペダルを踏み、もう一人が車体の下でバルブを開閉するのだ。

 だが、直人には、一緒に作業をしてくれるような「友達」はいなかった。

「ふふん、一人身のプライベーターをナメるにゃ。僕ニャンには、この『ワンマンブリーダー(逆流防止弁付きのホース)』があるんだにゃ!」

 直人は、レリーズシリンダーのニップルにワンマンブリーダーのホースを繋ぎ、ペットボトルに挿した。

 そして、運転席に乗り込み、クラッチペダルを何度も「シュコ、シュコ、シュコ」と手で押し下げた。

 配管から空気が抜け、リザーバータンクから新しいクラッチフルードが吸い込まれていく。

 数分後。

 ペダルを押し下げると、カチッ、とした確かな手応えが戻ってきた。ペダルから手を離すと、スプリングの力で勢いよく元の位置に戻る。

「やったにゃ! クラッチが、切れるようになったにゃ! これでギアが入れられるにゃ!」

 作業は、佳境に入っていた。

 最も困難な、タービンウォーターラインの交換。

 エキマニ(エキゾーストマニホールド)の下に隠れるように配置されている、タービンの水配管。

 手を入れる隙間がほとんどない。工具を掛けようにも、メガネレンチが入る角度がコンマ数ミリ単位で制限されている、通称「知恵の輪」エリアだ。

「にゃ、にゃ……にゃあああ! 手が入らないにゃ! エキマニの角が、僕ニャンのデリケートな白い肉球に突き刺さって痛いにゃあ!」

 直人は、エンジンルームに半分身を乗り出すような姿勢で、手を隙間に突っ込み、スパナをミリ単位で動かしていた。

 ボルトが一本緩むたびに、

「にゃあああ!」

「手が攣るにゃ!」

と、奇声を上げていた。

 それでも、執念で古いクラックの入った金属パイプを取り外し、ヤフオクで落札した格安の補修用パイプ(スチール製)を、パズルのように隙間に通して装着した。

 さらに、パワステの高圧ホースも、漏れが発生していた加締め部分を、格安のOEM代替品に交換した。

 最後は、ブレーキペダルのストッパーラバー。

 直人は、日産ディーラー(当然、車高の低いボロ車で行くと嫌がられるので、徒歩で行った)で、一個百数十円の純正部品『ペダルストッパーラバー』を調達していた。

 運転席の足元に、再び逆さまの姿勢で潜り込む。

 ブレーキペダルのアームの上部にある、小さな穴。そこに、新しい青いゴム製のストッパーを、指で「グッ」と押し込んだ。

 パチン、と心地よい音がして、ストッパーが固定された。

 ブレーキペダルが元の位置に戻ると、スイッチの突起がストッパーに押され、リアのブレーキランプが、スッと消灯した。

「……消えたにゃ。完璧にゃ」

 直人は、真っ黒になった手で、おでこの汗を拭った。

 気がつけば、周囲はすっかり暗くなり、アパートの他の部屋には、ぽつぽつと明かりが灯り始めていた。

 駐車場22番の周囲には、外したボロボロのホースや、サビの粉、オイルの染みたウエスが散乱していたが、直人はそれらを大急ぎでダンボールに詰め込み、自分の部屋の前(共用廊下)へと運び去った。

「ふう……。今日も、いい汗をかいたにゃ。さあ、仕上げのエンジン始動にゃ!」

 直人は、運転席に乗り込み、クラッチペダルをしっかりと踏み込んだ。

 今度は、確かな弾力がある。

 キーを回す。

 キュキュキュ……ブォォォォン!!!

 エンジンが始動した。

 先ほどのような、タービン周りからの「ババババ」という暴力的な排気漏れの音は、綺麗に消えていた。エキマニとタービンの間の、排気ガス漏れを防ぐガスケットも、格安の新品に交換したからだ。

 クーラントの吹き出しもない。パワステオイルの漏れもない。

 エンジンルームからは、正常な、しかしチューニングカー特有の野太いアイドリング音だけが響いていた。

「……動くにゃ。これなら、仮ナンバーを借りて、車検場まで自走できるにゃ。僕ニャンのシルビニャが、ついに、一歩、歩み始めたんだにゃあ……!」

 直人は、バケットシートに深く腰掛け、ステアリングを握りしめながら、涙を流した。

 人生のすべてを、生活水準よりも車に注ぎ込む男。

 来月の食費は、完全にゼロになった。明日からの主食は、道端のタンポポか、アパートの裏に生えている怪しい雑草に決定した。

 それでも、直人の心は、どんな時よりも、深く、満たされていた。

 深夜。

 直人は、部屋のユニットバスで、手足にこびりついた真っ黒なギヤオイルと、シャーシブラックの汚れを、石鹸でゴシゴシと洗い流していた。

 ザザーーーッ、と響くシャワーの音。

 そして、お風呂場から、またしても直人の下手くそな歌声が響き渡った。

「〜♪ 僕のシルビニャ、息を吹き返したにゃ〜、クラッチ切れるし、ブレーキ引きずらないにゃ〜、次は、車検を、一発で通して〜、首都高の闇を、切り裂くんだにゃ〜〜♪」

 その歌声は、アパートの薄い壁を通り抜け、深夜の静寂に響いていた。

 翌朝。

 大山荘のゴミ捨て場には、昨日直人が回収し損ねた、真っ黒なオイルが数滴垂れているペール缶が、やはり「回収不可」の赤い札を貼られたまま、ポツンと置かれていた。

 そして、直人の22番駐車スペースの横、23番のスペースには、直人が片付け忘れた、サビサビのエキマニガスケットと、使い古したパワステホースが、ゴミのように散乱していた。

 大山豊は、それを見つめながら、深いため息をついた。

「直人くん……。車は治っても、君の生活態度と、ゴミ出しのルールは、一生オーバーホールが必要そうだね……」

 しかし、直人はすでに自分の部屋で、ガラケーを握りしめ、次のステップに向けて、別の「格安ジャンクパーツ」をヤフオクで物色し始めていた。

 彼の「シルビア復活のロードマップ」は、まだ始まったばかりだった。

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