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ざっそうにゃ


 抜けるような青空の下、荒川の緩やかな流れに沿って広がる河川敷に、一台のボロいママチャリが寂しげに転がっていた。

 そのすぐ近くの草むらに、這いつくばるようにして泥だらけになっている、白猫獣人の男がいた。

 藤野直人(二十四歳)である。

「……にゃ、あったにゃ! これは、カラスノエンドウにゃ! この春先の若いサヤの部分は、塩茹ですれば豆の甘みがあって、貴重な植物性タンパク源になるんだにゃあ……!」

 直人は、泥のついた手で、町内図書館で借りてきた『日本の野草・雑草サバイバル図鑑』のページを片手でめくりながら、もう片方の手で熱心に草を毟り、泥だらけのビニール袋へと詰め込んでいた。

 傍から見れば、春の陽気の下で不審な儀式を行っている浮浪者にしか見えなかったが、直人の頭の中は、今や生存本能と、それ以上に熱い「車への欲望」で沸騰していた。

「あ、こっちにはギシギシも生えてるにゃ。ギシギシの若芽は、熱湯でしっかり茹でてアクを抜けば、ネギのようなとろみがあってスープの具に最適にゃ……。ふふ、これで今日の晩餐(食費ゼロ円)は完璧にゃ。……にゃが、しかし!」

 直人は、ギシギシの葉を掴んだまま、河川敷の青空を見上げて絶叫した。

「野草でお腹を膨らませても、シルビニャの空腹ガソリンは満たされないにゃ! クランク角センサーが突然死したせいで、僕ニャンのシルビニャは、今や駐車場で派手なビーチパラソルを被ったまま、ただの『現代アート』と化しているんだにゃアアア!」

 クランク角センサーの交換費用は、純正新品で約四万円。

 だが、直人の全財産は、昨日アップガレージで『RS★R Racing☆i』の車高調を買ったせいで、本当に数百円の小銭しか残っていなかった。

 さらに、直人の脳内にある「シルビア復活のロードマップ」は、ただ車検に通すだけの修理では、到底満足できるものではなかった。

「……どうせクランク角センサーを換えて、ECU(制御コンピューター)をリセットするなら、純正ECUなんかポイして、アペックス(APEXi)の『Power FC(パワーFC)』にアップグレードしたいんだにゃあ! あの、有機EL液晶の『FCコマンダー』をダッシュボードに固定して、水温やノッキングをリアルタイムで監視しながら、最適な燃調マップを自分で書き換える……これこそが、真のグリップ派のSR乗りというものにゃ! でも、パワーFCは本体とコマンダーのフルセットで、中古でも十五万円近くするにゃあ……!」

 直人は、ギシギシの葉を握りつぶしながら、狂ったように独り言を続けた。

「それだけじゃないにゃ! フロントの足回りも、ただ純正ブッシュを打ち替えただけじゃ、首都高のタイトなコーナーで思った通りの荷重移動ができないにゃ。グリップ限界を高めるためには、調整式のフロントロアアームに、テンションロッド、リヤアッパーアーム、トーコントロールアーム……すべてをフルピロ(金属製ジョイント仕様)にして、ミリ単位でアライメントを設定しなきゃいけないにゃ! その上、前置きインタークーラーに、軽量化のためのカーボンボンネット、カーボントランク、サーキット用のGTウイング……そして、運転席のAピラーにブースト計と水温計を並べる三連メーターホルダーにゃ! やりたいことが、宇宙の星の数ほどあるんだにゃあ!」

 そして何より、直人は、今現在シルビアが履いている、あのサビサビの15インチの「鉄チン(スチールホイール)」が、我慢の限界だった。

 車高調『Racing☆i』を組んで、車高を上限まで上げてハイリフト仕様にした結果、ダサい鉄チンホイールが、より一層際立ってしまっている。

「早く、ワイドトレッドスペーサーをかまして、完璧な『ツライチ(フェンダーとホイールの面一)』にして、あのダサいサビサビ鉄チンを卒業したいにゃ……! でも、僕ニャンには、それらを実現するための金が、一ミクロンも無いにゃ……!」

 直人は、河川敷の土手の上に大の字に寝転がり、絶望のあまり涙を流した。

 その時、彼の頭上の「アンテナ(猫耳)」が、ピンと直立した。

「……待つにゃ。僕ニャンは、こう見えても、それなりに関東難関私大の社会学部を出て、そこそこ給料がいいと噂される、大手カー雑誌『月刊カースポーツ(仮)』の編集部員にゃ。……そうだにゃ! 会社の資金(経費)を何とか出せば、シルビニャを一気に、タダでフルチューンできるんじゃないにゃ!?」

 直人は、土手の上でむくりと起き上がった。

「新企画にゃ! 『予算五十万! ゴミ同然のボロミサイルS14を、現役編集者がDIYで首都高最強のグリップマシンに再生する実録ドキュメント!』。この企画書を編集長に叩きつければ、会社の予算でパワーFCも、前置きインタークーラーも、アーム類も、全部経費(領収書)で落とせるにゃ! 雑誌のネタとしてページも埋まるし、僕ニャンのシルビニャはタダでフルチューンされて、まさに一石二鳥、社畜の最高峰にゃアアア!」

 直人は、ママチャリのペダルをギシギシと爆走させ、会社へと向かった。

 数時間後。

 『月刊カースポーツ』の編集部。

 直人は、泥だらけのサイバージャージのまま、コピー機から吐き出されたばかりの「新企画書」を小脇に抱え、強面で知られる編集長、鬼塚のデスクの前に進み出た。

「編集長! カースポの歴史を塗り替える、世紀の神企画を持ってきたにゃ!」

 鬼塚編集長は、分厚い眼鏡の奥から、不機嫌そうに直人を見上げた。

「藤野。お前、何だその泥だらけの格好は。あと、お前の体から、ガソリンと……なんか、生の雑草の臭いがするんだが」

「そんな細かいことは気にするにゃ! これを見るにゃ!」

 直人は、渾身の企画書を鬼塚のデスクにバシィィィン! と叩きつけた。

 そこには、太字で【プロジェクト・シルビニャ:ボロミサイルS14を、会社の経費で首都高の星にするにゃ!】と書かれていた。

「企画書に『にゃ』を混ぜるな……。何だこれは。ボロミサイルS14の再生ドキュメント? 予算、五十万円?」

「そうだにゃ! 今、若者の車離れが叫ばれているこの時代に、あえてバブル期の遺物であるS14シルビアを、現代のパーツとDIYで蘇らせる……! これは、全国の貧乏な車クズ読者から、絶大な支持を得ること間違いなしにゃ! 会社は僕ニャンに五十万の予算を渡して、あとは僕ニャンが、領収書を切ってパワーFCとかを買うだけで、最高の記事が完成するんだにゃ!」

 鬼塚編集長は、企画書を一ページずつ、パラパラと、ひどく冷淡にめくっていった。

 そして、最後の一ページをめくり終えた瞬間。

 ビリッ、ビリビリッ。

 鬼塚は、直人の企画書を、真顔で破り捨てた。

 そして、それをゴミ箱へと放り投げた。

「にゃ、にゃ、にゃあああああああ!? 僕ニャンの、僕ニャンの神企画が、シュレッダーを通さずに破棄されたにゃあああ!」

「藤野。お前、バカか?」

 鬼塚は、低く冷たい声で言った。

「うちの『月刊カースポーツ』は、来月号からスポンサーの意向で『エコ&コンパクト:スマートカーライフ特集』に全面リニューアルするんだ。これからプリウスやノートオーラのエコな乗りこなし術をアピールしていこうっていう時に、お前がアパートの廊下を黄色いバンパーで塞ぎながら乗ってるような、排ガスダダ漏れの、うるさい2リッターターボのポンコツミサイルの再生企画なんか載せられるわけないだろ。第一、車検にも通らないような非公認の車を会社名義の予算で直すなんて、コンプライアンス的に一発アウトだ」

「非公認じゃないにゃ! これから公認を取るための、合法的な(ハック的な)プロセスにゃ!」

「ダメだ。一円も予算は出さん。……まあ、どうしても記事にしたいって言うなら、お前が『自分のプライベートな金』で完全に車検を通した後に、毎月のモノクロの白黒ページの隅っこ、四分の一カット(横5センチくらい)の枠で『編集部員・直人のポンコツ日記』として載せてやるよ。原稿料は、1ページあたり三千円でどうだ?」

「三、三千円にゃ!? そんなの、ガソリン半分とフューエルワン一本買ったら、お釣りすら残らないにゃあああ!」

「嫌ならいい。さあ、早く仕事に戻れ。あと、その泥だらけの服を着替えてこい。臭いぞ」

 鬼塚は、直人の叫びを鼻で笑い、次のパソコン作業へと視線を戻した。

 会社の予算(経費)で、シルビアを一気にフルチューンするという直人の「甘い野望」は、コンプライアンスの大きな壁の前に、一瞬で木っ端微塵に粉砕された。

 夕方、すっかり落ち込んだ直人は、再び、ボロいママチャリのペダルをギシギシと漕いでいた。

 会社を後にし、夕食(野草)をさらに追加確保するため、今度は、大山荘の近くにある「管理されず放置された、荒れ果てた山林」へと侵入していた。

「……現実は、非情にゃ。会社は冷たく、僕ニャンは貧しいにゃ……。でも、シルビニャは、僕ニャンの愛だけで、今も22番の神殿で待ってくれているにゃ……」

 直人は、涙を拭いながら、足元を必死に凝視し、地面を指で掘り返し始めた。

「あ、あったにゃ……! これは、ノビル(野蒜)にゃ! ノビルのこの、白く丸く膨らんだ球根(鱗茎)の部分は、泥をよく洗って、醤油や味噌をちょっとつけて、生でかじると、ネギやラッキョウのようなツンとした辛味があって、飢えを凌ぐには最高の、大自然の恵みにゃ……」

 直人は、掘り起こしたノビルを、泥を軽く指で払っただけで、その場で『シャキッ』と、生のままかじった。

 強い辛味と、特有の硫黄のような香りが、口いっぱいに広がる。

「……辛いにゃ。辛くて、うまいような気がするにゃ。でも……このノビルの味は、シルビニャのあの、タービンから漏れる、熱いガソリンとオイルの匂いほど、僕ニャンを興奮させないにゃあ……!」

 直人は、泥のついた顔で、ひたすらノビルを掘り続け、ビニール袋に詰め込んだ。

 胃袋はノビルの辛味で少し満たされたが、心の中の「S14のパーツへの飢え」は、一ミリも満たされていなかった。

 暮れかけた空の下、泥だらけのノビルの袋をママチャリの荷台に縛り付け、直人は『大山荘』へと帰還した。

 駐車場22番には、ハイリフト仕様(拳二個分の隙間)の、ビーチパラソルを屋根に背負った白いS14シルビアが、静かに佇んでいた。

 隣の203号室のベランダからは、やはり、白黒スプリットカラーの猫耳を気だるげに揺らしながら、涼那が顔を出していた。

 彼女は、萌え袖の手で、マルメンライトの煙を吐き出しながら、泥だらけで大量の雑草ノビルとギシギシを抱えて帰ってきた直人を、まるで「地球外の不審生物」を見るような、死んだ魚の目で凝視していた。

「……あ。……また、泥だらけ。……何、その、大量の草。……ウサギでも飼い始めたの?」

「ウサギじゃにゃい! これは、僕ニャンの、今日の豪華な晩餐ノビルにゃ! ヤニカスのお前には分からない、大自然のオーガニックディナーにゃ!」

「……ふーん。……草食べて、頭おかしそう。……関わらんとこ」

 涼那は気だるげに煙を吐くと、パタン、とベランダの窓を閉めた。

「ふん! お前に、ノビルの旨さは一生わからないにゃ!」

 直人は、シルビアに近づき、

「シルビニャ……、今日こそは、クランク角センサーの奇跡の自己修復バグが起きて、エンジンがかかるようになってないかニャ……」

 と、一縷の望みをかけてキーを回してみた。

 キュキュキュキュキュキュ……。

 だが、セルモーターが虚しく、かつ軽快に空回りする金属音が、アパートの駐車場に響くだけだった。

「……やっぱり、ダメにゃ。奇跡なんて、起きないにゃあ……」

 直人が、がっくりとボンネットに額を押し当てた、その時。

「直人くん。お帰り」

 背後から、大家の大山豊が、植木鉢の土をいじりながら声をかけてきた。

「大山さん……。やっぱり、シルビニャは動きませんにゃ。おまけに、会社の予算でフルチューンする計画も、鬼塚編集長のコンプラの前に木っ端微塵にゃ……」

「まあ、そうだろうね。非合法な車に会社の経費は出ないよ。それよりね、直人くん。君、泥だらけでその……大量の野草を持ってるのも気になるけどね。君の部屋の前に、また『とんでもないもの』が届いてるよ」

「にゃっ!? 僕ニャン、今、残高数百円だから、ネット通販なんか、ここ数日一回も利用してないにゃ!」

「いや、配達の人がね、もの凄くデカくて重い、平べったいダンボールを、君の部屋の前の廊下に、完全に塞ぐ形で置いていったんだよ。203号室の高瀬さん(涼那)から、『ドアを開けたら、目の前に巨大なダンボールの壁があって、外に出られない。爆破する』って、さっき連絡があったんだ。早く片付けなさい」

「にゃ、にゃああああ!? なんだそれはアアアアア!!!」

 直人は、泥だらけのノビルの袋を放り出し、外廊下の階段を二段飛ばしで駆け上がった。

 そして、202号室のドアの前にたどり着いた瞬間、直人は、あまりの光景に絶句した。

 そこには、大山荘の狭い廊下の幅を、文字通り「一ミリの隙間もなく」完全に埋め尽くしている、超巨大で、平べったい、茶色のダンボール箱がそびえ立っていた。

 その巨大な壁のようなダンボールには、直人の名前が書かれた送り状と、赤い文字で『取扱注意:割れ物』、そして、メーカーのロゴが大きく印刷されていた。

 ―――【 D-MAX:カーボンボンネット S14前期用 】

「に、にゃ、にゃ……にゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 直人は、廊下で大絶叫した。

「わ、忘れてたにゃあああああ!!! これ、三ヶ月前に、株でちょっとだけ儲けた時に、クレジットカードの『今年の冬のボーナス一括払い(金利手数料無料)』で、予約注文してたやつにゃアアア!!!」

 ボーナス一括払い。

 それは、今現在の口座の残高が数百円であっても、今年の冬(十二月)の段階で、直人のボーナスから、自動的に九万円近い大金が引き落とされるという、未来の自分からの「借金」だった。

 つまり、今現在の直人にとっては、「実質タダ(先送り)」で手に入ってしまった、究極の贅沢品カーボンボンネットだったのだ。

「にゃ、にゃあああ! 支払いは冬にゃ! ということは、今現在の僕ニャンは、一円も払わずに、世界最高峰のカーボンボンネットを手に入れてしまったんだにゃあああ! 未来の僕ニャン、ありがとうにゃああああ!」

 直人は、狂ったように巨大なダンボールに抱きつき、廊下でダンスを踊り始めた。

 だが、現実は非常に過酷だった。

 ダンボールがあまりにも巨大すぎて、直人の部屋のドアは、物理的に「一ミリも開けることができない」状態になっていた。

 さらに、隣の203号室のドアの隙間から、涼那が、怒りに満ちた目で直人を睨みつけていた。

「……ねえ。これ、邪魔。……ドア開けたら、段ボール。……うち、外に出て、タバコ買いに行きたいんだけど。……これ、今すぐどかさないと、本当にライターでこれに火つけて燃やすから」

「にゃっ! 燃やすのは勘弁してにゃ! これはシルビニャの、高価なカーボンボンネットにゃ!」

「……知らん。……燃やす。……三秒前。……二……」

「わ、わかったにゃアアア! 今すぐ、今すぐ、駐車場に運んで、シルビニャに取り付けるにゃアアア!」

 エンジンは一ミリもかからない、クランク角センサーも死んだままのボロシルビア。

 だが、そのフロントには、今から、超軽量で美しい「本物のカーボンボンネット」が、ダサい15インチのサビサビ鉄チンホイールの上に、燦然と装着されることになった。

 大山荘の駐車場に、直人の、嬉し泣きなのか絶望なのかわからない、狂気じみた笑い声が響き渡った。

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