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夢悠病  作者: 諸藤 海都


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第4章 永遠には届かない

目を覚ますと、君がいた。


「おはよう」


いつもの声。


いつもの笑顔。


いつもの朝。


僕はゆっくりと体を起こした。


窓の外では、桜が咲いていた。


「……春?」


思わずつぶやいた。


昨日まで、冬だったはずだ。


少なくとも、現実の世界では。


君は不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの?」


「いや、桜が咲いてるなって」


「そりゃそうでしょ」


君は笑った。


「もう四月なんだから」


四月。


僕はその言葉を繰り返した。


夢の中では、季節が変わっていた。


「ねえ、早く起きて」


君はカーテンを開けた。


柔らかな朝日が部屋に差し込む。


「今日はお花見行くんでしょ?」


僕は少し迷ってから、うなずいた。


「……うん」


君は満足そうに笑った。


「じゃあ、準備してね」


そう言って、部屋を出ていった。


僕は一人、ベッドに座っていた。


窓の外では、桜の花びらが舞っている。


夢の中で、何かが変わり始めていた。


*


僕たちは、近所の公園へ出かけた。


満開の桜。


青い空。


暖かな風。


君は嬉しそうに歩いていた。


「ねえ、見て!」


君が指さした先には、大きな桜の木があった。


「すごいね」


「うん」


「去年もここ来たよね」


僕は君を見た。


去年。


君は、去年のことを覚えているのだろうか。


「……覚えてる?」


「何を?」


「去年の花見」


君は少し考えた。


「もちろん」


そう言って笑った。


「お弁当作ってきたのに、箸忘れたじゃん」


僕は思わず笑った。


確かに、そんなことがあった。


君が張り切って作ってくれたお弁当。


けれど、肝心の箸を忘れてしまい、近くのコンビニまで買いに行った。


あの日、君は何度も謝っていた。


僕は全然気にしていなかった。


むしろ、そんな君が愛おしかった。


「今年は忘れてないよ」


君は得意げにバッグを開けた。


中には、二膳の箸が入っていた。


「ほら!」


「偉いね」


「子供扱いしないで」


君は笑った。


僕も笑った。


何でもない会話。


何でもない日常。


それが、今の僕にとって何より大切だった。


*


桜の木の下に座り、僕たちはお弁当を食べた。


君の作った卵焼き。


少し甘い味付け。


僕は昔から、この卵焼きが好きだった。


「おいしい?」


君が聞いた。


「うん」


「ほんと?」


「ほんと」


君は嬉しそうに笑った。


「よかった」


僕はもう一口食べた。


そのとき、ふと思った。


この味を、僕はどこまで覚えているのだろう。


現実の世界では、もう二度と食べられないはずの味。


けれど今、確かに口の中に広がっている。


甘さも、柔らかさも、温かさも。


夢とは、こんなにも鮮明なものなのだろうか。


僕は君を見た。


君は桜を眺めていた。


風が吹き、花びらが君の髪に落ちる。


僕はそっと、その花びらを取った。


「ん?」


「ついてた」


君は笑った。


「ありがとう」


そして、僕の肩にもたれかかった。


「ねえ」


「うん」


「来年も来ようね」


僕は少しだけ黙った。


来年。


その言葉が、以前よりもずっと現実的に感じられた。


「……うん」


僕は答えた。


「来年も、その次も」


君は嬉しそうに笑った。


「約束ね」


僕はうなずいた。


今度こそ、守れる気がした。


*


それから、季節は巡った。


春が終わり、夏が来た。


僕たちは海へ行った。


君は去年買った白いスニーカーを履いていた。


「まだ履いてるんだ」


僕が言うと、君は笑った。


「お気に入りだからね」


海では、また貝殻を拾った。


君は以前拾ったものと並べて、どちらがきれいか比べていた。


秋には、紅葉を見に行った。


君は赤く染まった葉を一枚拾い、僕に見せた。


「これ、しおりにしようかな」


「本に挟むの?」


「うん」


「枯れるんじゃない?」


「それも思い出でしょ」


君はそう言って笑った。


冬には、雪が降った。


僕たちは窓辺に座り、温かいココアを飲んだ。


君は窓の外を眺めながら言った。


「雪って、静かだね」


「そうだね」


「世界が眠ってるみたい」


僕はその言葉を、なぜか忘れられなかった。


*


夢の中で、一年が過ぎた。


僕は、まだ目を覚まさなかった。


最初は不思議だった。


けれど、いつしかそれが当たり前になっていた。


朝になれば君がいる。


夜になれば、君と眠る。


それが、僕の日常だった。


ただ、ときどき思い出すことがあった。


現実の世界。


大学。


直人。


家族。


そして、君のいない部屋。


僕はまだ、あの部屋で眠っているのだろうか。


それとも、もう目を覚ましているのだろうか。


分からなかった。


夢の中では、時間があまりにも自然に流れていた。


朝が来て、昼になり、夜になる。


季節が変わり、年が明ける。


それは、現実と何も変わらなかった。


違うのは、君がいることだけだった。


*


ある夜、僕は夢を見た。


夢の中で、さらに夢を見る。


そんな奇妙な体験だった。


そこには、君のいない部屋があった。


薄い染みのある天井。


机の上の写真立て。


閉じられたノート。


僕はベッドに横になっていた。


体を起こそうとした。


けれど、動けなかった。


遠くで、誰かの声がした。


「……おい」


聞き覚えのある声。


直人だった。


「おい、聞こえるか?」


僕は返事をしようとした。


けれど、声が出なかった。


「……なあ」


直人の声が震えていた。


「また飯行こうぜ」


僕は目を開けようとした。


直人に、返事をしたかった。


けれど、どうしても開かなかった。


そのとき。


「ねえ」


君の声がした。


「起きて」


僕は目を開けた。


そこには、君がいた。


いつもの部屋。


いつもの朝。


君は心配そうに僕を覗き込んでいた。


「大丈夫?」


僕は大きく息を吸った。


「……うん」


「怖い夢でも見た?」


僕はしばらく黙っていた。


それから、小さくうなずいた。


君は僕の手を握った。


「大丈夫だよ」


その手は、温かかった。


「私、ここにいるから」


僕は君を見つめた。


そして、思った。


ここは、本当に夢なのだろうか。


*


二年目の春。


僕たちは、また桜を見に行った。


去年と同じ公園。


同じ桜の木。


けれど、君は少し変わっていた。


髪が、以前より長くなっていた。


話し方も、少し落ち着いた気がした。


僕も、きっと変わっているのだろう。


「ねえ」


君が言った。


「私たち、もう二年も一緒に暮らしてるんだね」


僕はうなずいた。


「そうだね」


「早いなあ」


君は笑った。


「最初は、こんなに長く一緒にいるなんて思わなかった」


僕は君を見た。


「どうして?」


「だって、最初の頃の君、すごく寂しそうだったから」


心臓が跳ねた。


「……覚えてるの?」


「何を?」


「最初の頃のこと」


君は少し考えた。


「うん」


そして、静かに言った。


「海で会った日、泣いてたでしょ」


僕は息を呑んだ。


君は覚えていた。


あの日。


半年ぶりに再会した、あの海。


「……なんで」


僕はつぶやいた。


君は不思議そうに首をかしげた。


「なんでって?」


「君は、あの日のことを……」


言葉が続かなかった。


君は僕を見つめた。


そして、少しだけ寂しそうに笑った。


「忘れるわけないじゃん」


風が吹いた。


桜の花びらが、二人の間を通り過ぎていった。


「だって、あんなに泣いてたんだもん」


君はそう言って、僕の頬に触れた。


「ずっと、会いたかったんでしょ?」


僕は答えられなかった。


君は、すべて知っていたのだろうか。


自分が亡くなったことも。


ここが夢の世界であることも。


僕が現実で、どれほど君を求めていたのかも。


「……ねえ」


僕はようやく口を開いた。


「君は、ここがどこか分かってる?」


君は僕を見つめた。


しばらく、何も言わなかった。


それから、ゆっくりと笑った。


「分かってるよ」


僕は息を止めた。


「……じゃあ」


「でもね」


君は僕の言葉を遮った。


「今は、そんなことどうでもいいと思うんだ」


「どうして?」


君は桜を見上げた。


「だって、今、幸せだから」


僕は君を見つめた。


君は続けた。


「君と一緒にご飯を食べて、散歩して、喧嘩して、仲直りして」


「……うん」


「そういう毎日が、私は好き」


君は僕の手を握った。


「だから、今はそれでいいの」


僕は何も言えなかった。


ただ、その手を握り返した。


*


三年目。


四年目。


五年目。


時間は、静かに流れていった。


僕たちは少しずつ歳を重ねた。


君は髪を短くした。


僕は眼鏡をかけるようになった。


部屋の家具も変わった。


古くなったソファを買い替え、食器を新しくした。


君は観葉植物を育て始めた。


最初は小さな鉢だった。


けれど、いつの間にか窓辺いっぱいに緑が広がっていた。


僕たちは、何度も旅行へ行った。


海。


山。


温泉。


知らない街。


君はいつも、写真を撮りたがった。


「ねえ、こっち向いて」


「また?」


「いいから!」


僕は仕方なく笑った。


君は満足そうにシャッターを切った。


写真は、少しずつ増えていった。


壁には、二人の思い出が並んでいた。


現実には存在しないはずの思い出。


けれど、僕にとっては確かに経験した時間だった。


*


ある日、君が言った。


「ねえ、私たちって、幸せだね」


僕は新聞から顔を上げた。


「急にどうしたの?」


「いや、なんとなく」


君は笑った。


「毎日同じようなことしてるのに、全然飽きないなって」


僕は新聞を畳んだ。


「そうだね」


君は窓の外を眺めた。


「でも、ちょっと不思議」


「何が?」


「時間って、こんなに長かったっけ」


僕は黙った。


君は続けた。


「昔は、一日があっという間だったのに」


「……うん」


「今は、毎日がすごく長い気がする」


僕は君を見つめた。


君は少し考えてから、笑った。


「まあ、楽しいからいいけどね」


僕も笑った。


けれど、胸の奥には小さな不安が残っていた。


夢の中の時間は、どこまで続くのだろう。


そして、現実ではどれほどの時間が経っているのだろう。


僕は、もう何年も目を覚ましていない。


それなのに、君と過ごす日々は、あまりにも自然だった。


*


十年目の春。


僕たちは、またあの海へ行った。


君が最初に僕を迎えてくれた場所。


白い砂浜。


青い海。


古びた自動販売機。


色褪せた休憩所。


何も変わっていなかった。


君は靴を脱ぎ、波打ち際へ走っていった。


「早くおいでよ!」


僕は笑った。


十年前と、同じ声だった。


少しだけ大人になった君。


けれど、笑い方は変わらない。


僕はゆっくり歩いていった。


君は僕の手を握った。


「ねえ」


「ん?」


「覚えてる?」


「何を?」


「初めてここに来た日」


僕はうなずいた。


「もちろん」


君は笑った。


「君、泣いてたよね」


「……そうだね」


「私、びっくりしたんだよ」


僕は君を見た。


「どうして?」


「だって、あんなに泣いてる君、初めて見たから」


君は海を眺めた。


「でも、嬉しかった」


「……嬉しかった?」


「うん」


君は僕を見つめた。


「そんなに会いたかったんだなって」


僕は何も言えなかった。


君は続けた。


「私もね、会いたかったよ」


風が吹いた。


波の音が、静かに響いていた。


「ずっと、会いたかった」


僕は君の手を握りしめた。


「……うん」


君は笑った。


「だから、今こうして一緒にいられて、すごく幸せ」


僕はうなずいた。


涙がこぼれそうになった。


けれど、泣かなかった。


今は、笑っていたかった。


*


夕暮れ。


僕たちは、あの日と同じ場所に座っていた。


海は、ゆっくりと橙色に染まっていた。


君は僕の肩に頭を預けた。


「ねえ」


「うん」


「もしさ」


君は少しだけ言葉を探した。


「この時間が、ずっと続いたらどうする?」


僕は君を見た。


「ずっと?」


「うん。何年も、何十年も」


君は海を見つめたまま続けた。


「もしかしたら、何百年も」


僕は少し考えた。


そして、笑った。


「いいんじゃない?」


君は顔を上げた。


「本当に?」


「うん」


「飽きない?」


「飽きないよ」


君は少しだけ笑った。


「どうして?」


僕は君の手を握った。


「君がいるから」


君は目を丸くした。


それから、顔を赤くした。


「……ずるい」


「何が?」


「そういうこと、普通に言うところ」


僕は笑った。


君も笑った。


しばらく、二人で海を眺めていた。


やがて君が、小さくつぶやいた。


「じゃあ、ずっと一緒にいようね」


僕はうなずいた。


「うん」


「明日も」


「うん」


「明後日も」


「うん」


「その次も」


僕は君を見つめた。


「ずっと」


君は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見ながら、僕は思った。


永遠とは、どれほど長い時間なのだろう。


一年。


十年。


百年。


千年。


それとも、もっと。


僕には分からない。


けれど、一つだけ確かなことがあった。


君と過ごす時間なら、どれほど長くても構わない。


そう思っていた。


*


その夜。


僕は久しぶりに、現実の夢を見た。


薄暗い部屋。


閉じられたカーテン。


机の上の写真立て。


そして、ベッドに横たわる僕。


部屋には、誰かがいた。


直人だった。


彼は椅子に座り、僕を見つめていた。


「……なあ」


直人が言った。


「聞こえてるか?」


僕は返事をしようとした。


けれど、声が出なかった。


直人は小さく息を吐いた。


「お前さ、最近、全然起きないんだよ」


僕は息を呑んだ。


起きない。


その言葉が、胸に突き刺さった。


「最初は、ただ寝てるだけだと思ってたんだけどさ」


直人はうつむいた。


「もう、ずいぶん経つんだ」


僕は必死に目を開けようとした。


けれど、体は動かなかった。


直人は続けた。


「……でも、なんか幸せそうなんだよな」


僕は彼を見つめた。


「たまに、笑ってるんだよ」


直人は少しだけ笑った。


「何の夢見てんだろうな」


僕は答えたかった。


君に会っているんだ。


ずっと、君と一緒にいるんだ。


けれど、声は届かなかった。


直人は立ち上がった。


そして、僕の肩にそっと触れた。


「……また来るよ」


その声が、遠くなっていった。


*


目を開けると、君がいた。


「おはよう」


いつもの声。


いつもの笑顔。


いつもの朝。


僕はしばらく君を見つめていた。


君は不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの?」


僕は何も言わなかった。


ただ、君を抱きしめた。


君は驚いたように声を上げた。


「ちょっと、急にどうしたの?」


僕は答えなかった。


君は少し黙った。


それから、そっと僕の背中に手を回した。


「……怖い夢でも見た?」


僕は小さくうなずいた。


君は優しく笑った。


「大丈夫だよ」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。


「私、ここにいるから」


僕は君を抱きしめたまま、目を閉じた。


現実の世界では、僕はまだ眠っている。


けれど、ここでは目を覚ましている。


君と話し、笑い、食事をして、季節を重ねている。


どちらが本当の世界なのだろう。


そんなことを考えた。


けれど、答えは出なかった。


君は僕の背中を優しく撫でた。


「ねえ」


「……うん」


「今日、何する?」


僕は少し考えた。


そして、笑った。


「散歩でも行こうか」


君は嬉しそうにうなずいた。


「うん!」


窓の外では、春の風が吹いていた。


僕たちの十一年目の春が、始まろうとしていた。


*


その日の夜。


君が眠ったあと、僕は一人でベランダに出た。


空には、たくさんの星が浮かんでいた。


僕は手すりに寄りかかり、夜空を見上げた。


現実の世界。


君のいない世界。


そこには、まだ僕を待っている人がいる。


直人。


家族。


大学の友人たち。


僕は、いつか目を覚ますのだろうか。


それとも、このまま君と過ごしていくのだろうか。


分からなかった。


けれど、僕は初めて思った。


永遠とは、終わらないことではないのかもしれない。


終わってしまったものを、いつまでも忘れられないこと。


それもまた、永遠なのかもしれない。


君との別れは、永遠だった。


どれだけ時間が経っても、現実では君に会えない。


その事実は、決して変わらない。


けれど。


夢の中では、君がいる。


僕の名前を呼び、笑い、手を握ってくれる。


そして、明日も「おはよう」と言ってくれる。


僕は夜空を見上げた。


「……ねえ」


小さくつぶやいた。


「僕たち、あと何回おはようって言えるのかな」


返事はなかった。


けれど、部屋の中から君の寝息が聞こえていた。


僕は笑った。


そして、静かに部屋へ戻った。


君は、いつものように眠っていた。


僕は隣に横になり、君の手を握った。


「おやすみ」


小さくつぶやく。


君は眠ったまま、少しだけ笑った。


その顔を見ながら、僕は目を閉じた。


明日も、君に会える。


そう信じて。


そして、僕はまだ知らなかった。


次に訪れる朝が、僕たちにとって、永劫の始まりになることを。

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