最終章 おはよう、そしておやすみ
君と過ごす、十二度目の春が来た。
今年も桜は綺麗だった。
去年と同じ公園。
去年と同じ道。
去年と同じ、君の笑顔。
けれど、僕たちは少しずつ変わっていた。
君の髪には、以前より短い毛先が揺れている。
僕の目元には、いつの間にか小さな皺ができていた。
夢の中でも、人は歳を取るらしい。
そんな当たり前のことを、僕は不思議に思っていた。
「ねえ」
君が僕の袖を引いた。
「今年も、あそこで写真撮ろうよ」
指さした先には、大きな桜の木があった。
毎年、二人で写真を撮っている場所だった。
「また?」
「また!」
君は笑った。
「毎年撮るって決めたじゃん」
「そうだったね」
僕たちは桜の木の下に立った。
君はスマートフォンを取り出し、僕の隣に並んだ。
「もっとこっち来て」
「近いって」
「いいから!」
僕は少しだけ君に近づいた。
君は満足そうに笑った。
シャッターの音が響く。
画面には、二人の笑顔が映っていた。
「いい写真!」
君は嬉しそうに言った。
僕はその写真を眺めた。
十二年前。
初めて君と夢の中で再会したとき、僕は泣いていた。
君の顔を見るだけで、涙が止まらなかった。
それなのに今は、こんなにも自然に笑えている。
人間は、不思議な生き物だと思った。
どれほど悲しいことがあっても、いつか笑えるようになる。
たとえ、その悲しみが消えなくても。
「ねえ、来年も撮ろうね」
君が言った。
僕はうなずいた。
「うん」
君は笑った。
「再来年も」
「うん」
「その次も」
「もちろん」
君は僕の手を握った。
「じゃあ、約束」
僕はその手を握り返した。
「約束」
春の風が吹いた。
桜の花びらが、二人の間を通り過ぎていった。
*
それから、何年もの時間が流れた。
僕たちは、数え切れないほどの朝を迎えた。
春には桜を見た。
夏には海へ行った。
秋には紅葉を眺めた。
冬には雪の降る窓辺で、温かいココアを飲んだ。
君は相変わらず、雨の日に外へ出たがらなかった。
僕は相変わらず、トーストの片面にしかバターを塗らなかった。
君はそれを見つけるたびに、呆れたように笑った。
「もう、何年言わせるの?」
「何年だろうね」
「いい加減、覚えてよ」
「覚えてるよ」
「じゃあ、なんで?」
僕は笑った。
「君が塗ってくれるから」
君は少し黙った。
それから、照れたように笑った。
「……ずるいなあ」
そんな日々だった。
何も特別なことはない。
ただ、君がいて、僕がいる。
それだけの毎日。
けれど、僕は知っていた。
それが、どれほど奇跡的なことなのか。
*
二十年目の冬。
僕たちは、久しぶりにあの水族館へ行った。
君が好きだった、クラゲの水槽。
青い光に照らされた透明な体が、水の中をゆっくり漂っていた。
君は昔と同じように、長い時間立ち止まっていた。
「ねえ」
君が言った。
「覚えてる?」
「何を?」
「初めてここに来た日」
僕は笑った。
「もちろん」
「私、変なこと言ったよね」
「クラゲは時間を気にしてるのかな、って?」
君は驚いたように僕を見た。
「え、覚えてるの?」
「覚えてるよ」
君は嬉しそうに笑った。
「すごいね」
僕は水槽を眺めた。
あの日、君は言った。
楽しい時間は、どうしてあんなに早く終わってしまうのだろう、と。
けれど今、僕たちは二十年もの時間を過ごしている。
夢の中で。
現実では、どれほどの時間が経っているのか分からない。
僕はもう、長いこと現実の夢を見ていなかった。
直人の声も。
あの部屋の天井も。
机の上の写真立ても。
少しずつ、遠い記憶になっていた。
「ねえ」
君が僕の手を握った。
「どうしたの?」
僕は首を横に振った。
「何でもないよ」
君は僕を見つめた。
そして、静かに笑った。
「そっか」
僕たちは、もう一度水槽を眺めた。
クラゲは、相変わらずゆっくりと漂っていた。
時間など、気にすることもなく。
*
三十年目の春。
君は、庭に小さな花壇を作った。
色とりどりの花を植え、毎朝水をやっていた。
僕は縁側に座り、その様子を眺めていた。
「ねえ、ちょっと手伝ってよ」
君が言った。
「何を?」
「この鉢、重いの」
僕は立ち上がり、君のところへ向かった。
二人で鉢を運び、花壇の隅に置いた。
君は満足そうにうなずいた。
「いい感じ!」
「そうだね」
君は僕を見た。
「ねえ、来年はもっと増やそうよ」
僕は笑った。
「庭が花だらけになるよ」
「いいじゃん」
君は嬉しそうに笑った。
「毎朝、綺麗な花が見られるんだよ?」
僕はうなずいた。
「それもいいね」
君は僕の腕に自分の腕を絡めた。
「じゃあ、決まり!」
僕たちは、しばらく花壇を眺めていた。
風が吹き、花が揺れる。
君の髪も、少しだけ揺れた。
その横顔を見ながら、僕は思った。
僕は、どれほど長い時間を君と過ごしてきたのだろう。
三十年。
現実の僕が生きてきた時間よりも、ずっと長い。
けれど、不思議と長くは感じなかった。
君と過ごす一日は、いつだって新しかった。
*
四十年目。
五十年目。
六十年目。
僕たちは、ゆっくりと歳を重ねた。
君の髪には白いものが混じり始めた。
僕も、以前ほど長く歩けなくなった。
それでも、毎年あの海へ行った。
砂浜を歩く速度は、少しずつ遅くなった。
君はもう、波打ち際まで走らなくなった。
けれど、笑い方だけは変わらなかった。
「ねえ」
君が言った。
「私たち、ずいぶん長く一緒にいるね」
僕はうなずいた。
「そうだね」
「何年くらい?」
僕は少し考えた。
「六十年くらいかな」
君は目を丸くした。
「そんなに?」
「うん」
君は笑った。
「すごいね」
僕も笑った。
「すごいね」
君は海を眺めた。
「でも、あっという間だったなあ」
僕は君の手を握った。
「そうだね」
君は僕を見た。
「ねえ」
「ん?」
「来年も来ようね」
僕はうなずいた。
「うん」
君は笑った。
「約束」
僕はその手を握り返した。
「約束」
*
七十年目の冬。
僕は、久しぶりに夢を見た。
夢の中で、さらに夢を見る。
そこには、見覚えのある部屋があった。
薄い染みのある天井。
閉じられたカーテン。
机の上の写真立て。
そして、ベッドに横たわる僕。
けれど、以前とは少し違っていた。
部屋には、誰もいなかった。
時計の針だけが、静かに進んでいた。
僕はベッドの傍らに立ち、自分自身を見つめていた。
若い頃の僕だった。
君を失って、半年が過ぎた頃の。
僕はその顔を見つめた。
不思議な気持ちだった。
あの頃の僕は、毎日が苦しかった。
君のいない朝を迎えることが、何より辛かった。
それなのに今は、君と七十年もの時間を過ごしている。
僕は、ベッドに横たわる自分に近づいた。
そして、小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
あの日、眠ってくれて。
君に会いに来てくれて。
僕は、君ともう一度人生を歩むことができた。
そのとき。
遠くで、誰かの声がした。
「……おやすみ」
優しい声だった。
誰の声なのか、分からなかった。
けれど、不思議と懐かしかった。
僕は目を閉じた。
そして、静かに答えた。
「おやすみ」
*
目を覚ますと、君がいた。
「おはよう」
君は笑っていた。
僕はゆっくりと体を起こした。
窓の外では、雪が降っていた。
「……おはよう」
僕が答えると、君は嬉しそうに笑った。
「今日は寒いね」
「そうだね」
君は僕の隣に座った。
そして、僕の手を握った。
「ねえ」
「ん?」
「何か、いい夢でも見た?」
僕は少し考えた。
それから、笑った。
「うん」
「どんな夢?」
僕は君を見つめた。
「昔の夢」
君は首をかしげた。
「昔?」
「うん。ずっと昔の」
君は少しだけ笑った。
「そっか」
そして、僕の肩に頭を預けた。
「じゃあ、今日は昔話でもしようか」
僕はうなずいた。
「いいね」
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
*
それから、さらに長い時間が流れた。
僕たちは、何度も春を迎えた。
何度も夏を過ごした。
何度も秋を眺めた。
何度も冬を越えた。
やがて、僕は年を数えることをやめた。
君も、いつからか年齢を気にしなくなった。
不思議なことに、僕たちはある時から、それ以上歳を取らなくなった。
君の髪には白いものが残っていた。
僕の顔にも、皺が刻まれていた。
けれど、それ以上変わることはなかった。
季節だけが、何度も巡っていった。
僕たちは、それを不思議に思わなかった。
ただ、毎日を過ごしていた。
朝になれば、君がいる。
夜になれば、君と眠る。
それが、僕たちの世界だった。
*
ある春の日。
僕たちは、またあの海へ行った。
何度目なのか、もう分からなかった。
砂浜には、誰もいなかった。
波の音だけが、静かに響いていた。
君は僕の隣に座った。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、どれくらい一緒にいるんだろうね」
僕は笑った。
「さあ、分からないな」
君も笑った。
「数えきれないね」
「そうだね」
君は海を眺めた。
「でも、幸せだね」
僕はうなずいた。
「うん」
君は僕の手を握った。
「ねえ」
「ん?」
「これからも、一緒にいてくれる?」
僕は君を見た。
君は少し照れたように笑っていた。
何十年も、何百年も一緒にいるのに。
君は、時々こうして聞いてくる。
僕はそのたびに、同じ答えを返す。
「もちろん」
君は嬉しそうに笑った。
「約束ね」
僕はその手を握り返した。
「約束」
夕日が、海を橙色に染めていた。
僕たちは、しばらく黙ってその景色を眺めていた。
やがて、君が小さくつぶやいた。
「ねえ」
「うん」
「私ね、ずっと言いたかったことがあるんだ」
僕は君を見た。
君は海を眺めたまま、続けた。
「最初にここで会った日、君、泣いてたでしょ」
「……うん」
「あのとき、私、何も聞かなかったよね」
僕はうなずいた。
君は少しだけ笑った。
「本当はね、分かってたんだ」
僕は息を呑んだ。
「……何を?」
君は僕を見つめた。
「君が、私に会いたかったこと」
僕は何も言えなかった。
君は続けた。
「それから、ここが夢だってことも」
風が吹いた。
君の髪が、ゆっくりと揺れた。
「……知ってたの?」
僕が聞くと、君はうなずいた。
「うん」
「最初から?」
「うん」
僕は言葉を失った。
君は、すべて知っていた。
自分が現実にはいないことも。
僕が夢の中で君に会いに来ていたことも。
それなのに、何も言わなかった。
「……どうして?」
僕は聞いた。
君は少し考えた。
そして、静かに笑った。
「だって、君が笑ってくれたから」
僕は君を見つめた。
「最初に会ったとき、君、すごく泣いてた」
「……うん」
「でも、次の日は笑ってくれた」
君は僕の手を握った。
「それが、嬉しかったの」
僕は何も言えなかった。
君は続けた。
「私ね、君が幸せなら、それでいいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……僕も」
ようやく、声が出た。
「僕も、君が幸せなら、それでいい」
君は笑った。
「じゃあ、同じだね」
僕はうなずいた。
「うん」
君は僕の肩に頭を預けた。
「ねえ」
「ん?」
「これからも、いっぱい笑おうね」
僕は君の手を握り返した。
「うん」
「いっぱい喧嘩して」
「うん」
「いっぱい仲直りして」
「うん」
「いっぱい、おはようって言おうね」
僕は目を閉じた。
そして、静かに答えた。
「……うん」
君は嬉しそうに笑った。
「約束」
僕はうなずいた。
「約束」
*
それから、どれほどの時間が流れたのだろう。
百年。
千年。
それとも、もっと。
僕たちは、もう数えることをやめていた。
季節は何度も巡り、街の景色も少しずつ変わっていった。
けれど、君だけは変わらなかった。
僕の隣で笑い、怒り、泣き、そしてまた笑った。
僕も、変わらなかった。
君の笑顔を見るたびに、幸せだと思った。
君の声を聞くたびに、嬉しいと思った。
君の手を握るたびに、温かいと思った。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
*
ある夜。
僕たちは、いつもの部屋で眠る準備をしていた。
君はベッドに入り、僕を見つめた。
「ねえ」
「ん?」
「明日、何する?」
僕は少し考えた。
「散歩でも行こうか」
君は笑った。
「いいね」
「それとも、海に行く?」
「海もいいなあ」
君は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日起きてから決めようよ」
僕はうなずいた。
「そうだね」
君は布団を肩まで引き上げた。
そして、いつものように言った。
「おやすみ」
僕も答えた。
「おやすみ」
部屋の電気を消す。
窓の外では、静かな夜が広がっていた。
僕は目を閉じた。
君の寝息が、隣から聞こえていた。
その音を聞きながら、僕は思った。
昔、僕は君を失った。
もう二度と会えないと思っていた。
けれど、今は違う。
君は隣にいる。
明日も、明後日も。
その次の日も。
きっと、ずっと。
僕は小さく笑った。
そして、眠りについた。
*
朝。
柔らかな光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
遠くで鳥が鳴いている。
窓の外では、春の風が吹いていた。
僕はゆっくりと目を開けた。
隣には、君がいた。
君は僕の顔を覗き込みながら、笑っていた。
「おはよう」
いつもの声。
いつもの笑顔。
いつもの朝。
僕は笑った。
「おはよう」
君は嬉しそうに笑った。
「今日は何する?」
僕は少し考えた。
そして、答えた。
「君と一緒なら、何でもいいよ」
君は少し照れたように笑った。
「なにそれ」
僕も笑った。
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
二人の新しい一日が、始まろうとしていた。
*
――現実世界。
静かな部屋に、朝日が差し込んでいた。
机の上には、一冊のノートが置かれていた。
最後のページには、震えた文字でこう書かれていた。
『夢悠病』
その下に、小さく一文が添えられていた。
『君に会える病気』
窓の外では、鳥が鳴いていた。
時計の針が、静かに進んでいた。
ベッドの傍らには、直人が座っていた。
彼はしばらく、眠る友人の顔を見つめていた。
そして、机の上の写真立てに目を向けた。
そこには、海で笑う二人の姿があった。
直人は小さく息を吐いた。
「……いい夢、見てるんだろうな」
返事はなかった。
けれど、眠る友人の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
直人は立ち上がった。
窓のカーテンを少しだけ閉める。
そして、静かに部屋を出ていった。
廊下に出る直前、彼は一度だけ振り返った。
「……おやすみ」
扉が、静かに閉まった。
部屋には、時計の音だけが残った。
*
夢の中では、君が笑っていた。
「ねえ、早く行こうよ!」
僕は笑った。
「今行くよ」
君が手を差し出す。
僕は、その手を握った。
温かかった。
あの日と、何も変わらない温もりだった。
僕たちは歩き出した。
どこまでも続く、春の道を。
君は僕の隣で笑っていた。
僕も、笑っていた。
もう、朝を恐れる必要はなかった。
もう、別れを数える必要もなかった。
ただ、君と歩いていけばよかった。
明日も。
明後日も。
その次の日も。
いつまでも。
いつまでも。
君との別れは永遠で、そして永劫だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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