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夢悠病  作者: 諸藤 海都


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第3章 君のいない時間

三度目の夢を見る前に、僕は一つだけ決めていた。


今度こそ、君に聞こう。


君は、自分がもうこの世にいないことを知っているのか。


そして、僕が目を覚ましたあと、君はどこへ行くのか。


聞きたいことはいくらでもあった。


けれど、いざ君を目の前にすると、きっと何も言えなくなるのだろう。


そんな気もしていた。


*


その日の夕方、直人から電話があった。


「お前さ、最近どうした?」


開口一番、そんなことを言われた。


「どうしたって?」


「いや、なんか元気になったなと思って」


「そう?」


「そうだよ。前なんか、話しかけても返事するだけだったじゃん」


僕は曖昧に笑った。


直人は少し黙ってから、続けた。


「まあ、元気ならいいんだけどさ」


「うん」


「無理してないよな?」


「してないよ」


「ならいい」


電話の向こうで、何かを飲む音がした。


「そういや、今度みんなで飯行くんだけど、お前も来ない?」


僕は時計を見た。


午後六時四十二分。


「……ごめん」


「またかよ」


「ちょっと、予定があって」


「予定?」


「うん」


「何の?」


僕は答えに迷った。


眠ること。


それが、今の僕にとって何より大切な予定だった。


「大したことじゃないよ」


そう言うと、直人は小さくため息をついた。


「そっか。まあ、気が向いたら連絡して」


「ありがとう」


電話を切った。


部屋は静かだった。


僕はスマートフォンを机に置き、ノートを開いた。


そこには、二日間の夢の記録が残っていた。


一日目は、海。


二日目は、水族館。


どちらの夢にも、君がいた。


僕は新しいページに日付を書いた。


その下に、まだ何も書かれていない三行目がある。


『三日目』


今夜は、どれくらい一緒にいられるのだろう。


数時間。


一日。


それとも、もっと長く。


僕はペンを置いた。


そして、ふと思った。


もし夢の中で一週間を過ごせたら。


現実では、たった一晩なのに。


君と七回も朝を迎えられる。


七回も「おはよう」を言える。


それは、なんて幸せなことだろう。


*


午後十時。


僕は布団に入った。


以前の僕なら、まだ起きている時間だった。


けれど今は違う。


夜が来るのを、ずっと待っていた。


目を閉じる。


君の顔を思い浮かべる。


白いワンピース。


少し癖のある髪。


笑うと細くなる目。


そして、あの声。


「おやすみ」


僕は小さくつぶやいた。


返事はなかった。


それでも、寂しくはなかった。


きっと、もうすぐ会える。


そう信じていたから。


*


目を開けると、雨が降っていた。


窓を叩く雨音。


薄暗い部屋。


少し湿った空気。


僕はベッドの上に座っていた。


隣には、君がいた。


「おはよう」


君はそう言って、カーテンを開けた。


「今日、雨だね」


僕はしばらく君を見つめていた。


三度目だった。


もう驚くことはないと思っていた。


けれど、やっぱり嬉しかった。


「……おはよう」


僕が答えると、君は笑った。


「なんか眠そう」


「うん。ちょっと」


「昨日、夜更かしした?」


僕は首を横に振った。


昨日。


君にとっての昨日は、水族館へ行った日なのだろうか。


それとも、僕の知らない一日があったのだろうか。


「ねえ」


「ん?」


「昨日、何してた?」


君は不思議そうに首をかしげた。


「昨日?」


「うん」


「一緒に水族館行ったじゃん」


心臓が、少し速くなった。


覚えている。


君は、昨日のことを覚えていた。


「……そっか」


「どうしたの?」


「いや、何でもない」


君は僕の顔を覗き込んだ。


「変なの」


そう言って笑った。


僕も笑った。


けれど、胸の奥には小さな疑問が残っていた。


夢は、続いている。


昨日の夢と、今日の夢。


別々の夜に見ているはずなのに、君の中では一つの時間としてつながっている。


それが、どういうことなのか。


僕にはまだ分からなかった。


*


雨の日は、外へ出ない。


それが君の決まりだった。


「だって、靴濡れるじゃん」


「傘させばいいだろ」


「傘さしても濡れるもん」


君はそう言って、ソファに寝転がった。


「今日は家で映画見ようよ」


「何見る?」


「恋愛映画!」


「また?」


「また!」


君は嬉しそうにリモコンを手に取った。


僕は隣に座った。


映画が始まる。


ありふれた恋愛映画だった。


男女が出会い、惹かれ合い、すれ違い、最後には結ばれる。


君は途中で何度も泣いた。


僕はそのたびにティッシュを渡した。


「泣きすぎだろ」


「だって、かわいそうじゃん」


「最後、幸せになるんだからいいだろ」


「そういう問題じゃないの」


君は鼻をすすった。


「途中が悲しいと、最後が幸せでも泣いちゃうんだよ」


僕は笑った。


「変なの」


「変じゃないもん」


君は少し怒ったように言った。


それから、画面を見つめたままつぶやいた。


「でもさ」


「うん」


「最後が幸せなら、途中が悲しくてもいいのかもね」


僕は君を見た。


君は映画に夢中で、僕の視線には気づいていなかった。


僕は何も言わなかった。


ただ、その言葉を覚えておこうと思った。


*


翌朝。


僕は君の声で目を覚ました。


「おはよう」


君が笑っていた。


僕は思わず飛び起きた。


「……え?」


「どうしたの?」


「今、朝?」


「そうだよ」


君は不思議そうな顔をした。


「昨日、映画見ながら寝ちゃったじゃん」


僕は部屋を見回した。


昨日と同じ部屋。


同じカーテン。


同じ机。


そして、同じ君。


けれど、一つだけ違うことがあった。


僕は、目を覚ましていなかった。


現実の部屋ではない。


夢の中で、朝を迎えていた。


「……すごい」


思わず声が漏れた。


「何が?」


「いや、何でもない」


君は笑った。


「朝から変な人」


そう言って、僕の頭を軽く叩いた。


僕はその手を握った。


「ねえ」


「ん?」


「今日も一緒にいられる?」


君は目を丸くした。


それから、少し照れたように笑った。


「当たり前じゃん」


その言葉が、何より嬉しかった。


*


二日目は、買い物に出かけた。


君が新しい靴を欲しがっていたからだ。


駅前のショッピングモール。


休日らしく、人で賑わっていた。


君は何軒もの店を回った。


白いスニーカー。


黒いブーツ。


少し派手な赤い靴。


どれも試着しては、僕に感想を求めてきた。


「これ、どう?」


「似合うよ」


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ、こっちは?」


「それも似合う」


「適当じゃない?」


「そんなことないよ」


君は疑わしそうに僕を見た。


「全部似合うって言うじゃん」


「実際、似合うから」


そう答えると、君は少し黙った。


そして、顔をそらした。


「……そういうこと、急に言わないでよ」


耳が赤くなっていた。


僕は笑った。


結局、君は白いスニーカーを買った。


帰り道、君は何度も袋の中を覗いていた。


「そんなに嬉しい?」


「うん!」


「よかったね」


「今度、これ履いて海行こうね」


僕は足を止めた。


海。


最初に君と再会した場所。


「……うん」


僕は答えた。


「絶対、行こう」


君は笑った。


「約束ね」


その言葉を聞いて、僕は少しだけ胸が苦しくなった。


君との約束は、もう二度と叶わないものだと思っていた。


けれど今は違う。


夢の中なら、何度でも約束できる。


そして、何度でも叶えられる。


そう思っていた。


*


三日目。


僕たちは海へ行った。


君は新しいスニーカーを履いていた。


砂浜に着くと、君はすぐに靴を脱いだ。


「せっかく買ったのに」


僕が言うと、君は笑った。


「砂が入るの嫌だもん」


「じゃあ、何のために履いてきたの」


「海まで歩くため!」


まったく、君らしい。


僕たちは波打ち際を歩いた。


海は穏やかだった。


空には雲が少なく、遠くの水平線までよく見えた。


君は何度も貝殻を拾っていた。


小さな白い貝殻。


少し欠けた桃色の貝殻。


形の変わった巻き貝。


「ねえ、これ見て」


君が差し出したのは、小さな二枚貝だった。


「かわいくない?」


「うん」


「持って帰ろうかな」


「いいんじゃない?」


君は嬉しそうにポケットへしまった。


それから、僕の手を握った。


「ねえ」


「ん?」


「また来ようね」


「うん」


「来年も」


「うん」


「再来年も」


僕は君を見た。


君は海を眺めながら続けた。


「おじいちゃんとおばあちゃんになっても、来ようね」


僕は答えられなかった。


君は僕の顔を覗き込んだ。


「嫌?」


「……嫌じゃないよ」


「じゃあ、約束」


君は小指を差し出した。


僕はその指に、自分の小指を絡めた。


「約束」


君は満足そうに笑った。


僕も笑った。


けれど、そのとき初めて思った。


夢の中で、僕たちは歳を取るのだろうか。


それとも、ずっとこのままなのだろうか。


もし、ずっとこのままだったら。


それは、幸せなことなのだろうか。


*


四日目。


五日目。


六日目。


夢は、終わらなかった。


僕たちは毎朝「おはよう」を交わし、夜には「おやすみ」と言った。


一緒に料理をした。


近所の公園を散歩した。


君の好きな喫茶店へ行った。


くだらないことで喧嘩もした。


洗濯物の干し方。


テレビのチャンネル。


冷蔵庫に残しておいたプリンを、どちらが食べたのか。


そんなことで、君は本気で怒った。


僕も、つい意地を張った。


けれど、夜には仲直りした。


君はいつも、先に謝るのが苦手だった。


だから、僕が謝る。


すると君は、少しだけ口を尖らせて言う。


「……私も、ごめん」


そして、笑う。


僕はその笑顔が好きだった。


何度見ても、飽きなかった。


*


七日目の夜。


僕たちはベランダに出ていた。


空には、たくさんの星が浮かんでいた。


君は僕の隣で、温かいココアを飲んでいた。


「ねえ」


「ん?」


「一週間って、あっという間だね」


僕は君を見た。


一週間。


確かに、夢の中では七日が経っていた。


けれど、現実ではどうなのだろう。


僕はまだ眠っているのだろうか。


それとも、もう朝になっているのだろうか。


「……そうだね」


僕は答えた。


君は空を見上げた。


「でも、楽しかった」


「うん」


「来週も、こんな感じがいいな」


僕は笑った。


「毎日、同じことしてても?」


「うん」


君は迷わず答えた。


「だって、好きな人と一緒なら、何してても楽しいじゃん」


その言葉に、僕は何も返せなかった。


君は少し照れたように笑った。


「……なに?」


「いや」


「変な顔」


「君もね」


「ひどい!」


君は笑いながら、僕の肩を叩いた。


僕も笑った。


その瞬間。


遠くで、何かが鳴った。


小さな電子音。


ピピピピ。


聞き覚えのある音だった。


目覚まし時計。


僕は顔を上げた。


音は、どこからともなく聞こえていた。


ピピピピ。


ピピピピ。


「……ねえ」


君が言った。


「どうしたの?」


僕は答えられなかった。


音が、少しずつ大きくなっていく。


君の顔が、ぼやけ始めた。


「……あ」


分かった。


夢が終わる。


僕は慌てて君の手を握った。


「待って」


「え?」


「もう少しだけ」


君は不思議そうな顔をした。


「どうしたの?」


「お願いだから」


僕は必死だった。


一週間。


たった一週間だった。


けれど、僕にとっては何より大切な時間だった。


君と過ごした七日間。


それが、今、終わろうとしている。


「……行かないで」


君は僕を見つめた。


そして、静かに笑った。


「大丈夫だよ」


その声が、遠くなる。


「また明日ね」


僕は何かを言おうとした。


けれど、言葉にならなかった。


世界が白く染まっていく。


君の姿が、光の中へ溶けていく。


最後に聞こえたのは、いつもの言葉だった。


「おやすみ」


*


目を覚ますと、朝だった。


見慣れた天井。


薄い染み。


カーテンの隙間から差し込む光。


僕はしばらく動けなかった。


一週間。


君と一週間を過ごした。


それなのに、僕は今、現実の部屋にいる。


スマートフォンを見る。


午前七時十三分。


日付を確認した。


昨日から、一日しか経っていなかった。


「……嘘だろ」


思わず声が漏れた。


夢の中では七日間。


現実では、たった一晩。


僕はノートを開いた。


震える手で、夢の内容を書き始めた。


『三日目』


『一週間』


『買い物』


『海』


『喧嘩』


『仲直り』


『七回のおはよう』


そこまで書いて、ペンが止まった。


七回。


僕は、君と七回も朝を迎えた。


現実では、たった一度眠っただけなのに。


僕はノートの最初のページを開いた。


一日目。


数時間。


二日目。


一日。


三日目。


一週間。


夢の中の時間が、明らかに長くなっている。


偶然ではない。


何かが起きている。


僕はそう確信した。


*


その日、僕は大学を休んだ。


体調が悪かったわけではない。


ただ、どうしても調べたいことがあった。


夢の中で、時間が長く感じられる現象。


現実では数時間しか経っていないのに、夢の中では何日も過ごしたように感じること。


僕はインターネットで、いくつもの言葉を検索した。


『夢 時間 長い』


『夢の中 一週間』


『夢 現実 時間差』


似たような体験談はいくつか見つかった。


けれど、どれも僕の体験とは違っていた。


夢の中で何年も過ごした気がする。


一晩で別の人生を経験した。


そんな話はあった。


しかし、僕の夢には続きがある。


昨日の夢で買った靴を、今日の夢でも君は履いている。


昨日交わした約束を、今日の君は覚えている。


夢の中で過ごした日々が、確かにつながっている。


そんな話は、なかなか見つからなかった。


諦めかけたときだった。


検索結果の下の方に、一つの記事が表示された。


古い個人ブログだった。


更新日は、十年以上前。


タイトルは短かった。


『夢悠病について』


僕は画面を見つめた。


夢悠病。


聞いたことのない言葉だった。


記事を開く。


そこには、こんなことが書かれていた。


『夢悠病とは、夢の中で主観的な時間が異常に長く感じられる現象を指す、非公式の呼称である。』


『夢の内容が連続し、同じ人物や場所が繰り返し現れることがある。』


『体験者の中には、現実よりも夢の中で過ごす時間を大切に感じる者もいるという。』


僕は息を呑んだ。


まるで、自分のことが書かれているようだった。


さらに読み進める。


『ただし、医学的に確立された疾患ではなく、報告例も極めて少ない。』


『夢の中での時間感覚がどこまで延長され得るのかは、不明である。』


記事は、そこで終わっていた。


僕はしばらく画面を見つめていた。


夢悠病。


夢が、悠久の時間へと変わっていく病。


本当にそんなものがあるのだろうか。


それとも、誰かが作ったただの言葉なのだろうか。


分からなかった。


けれど、僕はその名前をノートに書いた。


『夢悠病』


そして、その下に小さく付け加えた。


『君に会える病気』


*


夜になった。


僕はベッドに腰掛け、ノートを開いていた。


三日間の記録。


数時間。


一日。


一週間。


もし、このまま夢の中の時間が長くなっていくのなら。


次は、一か月だろうか。


一年だろうか。


それとも。


僕はペンを握りしめた。


少しだけ、怖かった。


夢の中で何年も過ごしてしまったら。


現実へ戻ったとき、僕はどうなるのだろう。


大学のこと。


友人のこと。


家族のこと。


現実には、まだ僕の生活がある。


それを忘れてはいけない。


そう思った。


けれど同時に、別の気持ちもあった。


もし、夢の中で一年を過ごせるなら。


君と、もう一度誕生日を祝える。


クリスマスを迎えられる。


春には桜を見て、夏には海へ行ける。


秋には紅葉を眺め、冬には雪の中を歩ける。


君が生きていた頃、当たり前だったこと。


それを、もう一度経験できる。


僕はノートを閉じた。


そして、机の上の写真立てを手に取った。


そこには、海で笑う君がいた。


「……ねえ」


僕は写真に話しかけた。


「もし、また会えたらさ」


少しだけ、声が震えた。


「今度は、もっと長く一緒にいようね」


返事はなかった。


それでも、僕は笑った。


*


その夜。


眠りにつく直前、僕は不思議な感覚に包まれた。


体が、ゆっくりと沈んでいくような感覚。


暗闇の向こうから、誰かの声が聞こえた。


「……ねえ」


懐かしい声だった。


「早くおいでよ」


僕は目を開けようとした。


けれど、まだ開かなかった。


声だけが、はっきりと聞こえていた。


「待ってたんだよ」


君だった。


僕は心の中で答えた。


今、行くよ。


すると、君は嬉しそうに笑った気がした。


「じゃあ、明日は何しようか」


明日。


その言葉が、妙に遠く感じられた。


僕は思った。


夢の中に明日があるのなら。


明後日も、その次の日もあるのなら。


いつか、君と何十年も過ごせる日が来るのだろうか。


そして、もし。


その時間に終わりがなかったら。


僕たちは、どうなるのだろう。


暗闇の向こうで、君が僕の名前を呼んだ。


僕は、その声のする方へ歩き出した。


もうすぐ、君に会える。


そう思うだけで、胸が温かくなった。


そのときの僕は、まだ知らなかった。


次に目を覚ますまでに、どれほどの時間が流れるのか。


そして。


いつか僕にとって、「おはよう」が夢の中だけの言葉になることを。

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