第2章 おはようのない朝
夢を見た翌朝、僕は久しぶりに朝食を食べた。
冷蔵庫に残っていた食パンを一枚取り出し、トースターに入れる。
焼き上がるまでの三分間。
僕は何度も右手を開いたり、閉じたりしていた。
昨日、君とつないだ手。
そこには当然、何も残っていない。
けれど、まだ覚えていた。
君の指の細さも、手のひらの温かさも。
夢だった。
そんなことは分かっている。
それでも、僕は嬉しかった。
半年間、一度も会えなかった君に、ようやく会えたのだから。
トースターが音を立てた。
パンを皿に移し、バターを塗る。
そのとき、ふと思い出した。
「また片面しか塗ってない」
君はいつも、そう言って笑っていた。
僕はパンの片面にしかバターを塗らない。
別にこだわりがあるわけじゃない。ただ、もう片方に塗る必要を感じなかっただけだ。
けれど君は違った。
「両面に塗ったほうがおいしいじゃん」
「手がべたべたになるだろ」
「じゃあ、私が塗ってあげる」
そう言って、僕のパンを取り上げる。
結局、僕はいつも君の塗ったパンを食べていた。
今朝は、久しぶりに両面に塗ってみた。
少し、しつこかった。
「やっぱり片面でいいじゃん」
思わず口にしてから、僕は笑った。
君がいなくなってから、独り言が増えた。
返事がないことにも、随分慣れてしまった。
*
大学へ向かう電車の中で、僕は昨日の夢を思い返していた。
白いワンピース。
青い海。
夕暮れの砂浜。
そして、君の声。
「明日も会えるよ」
本当に、そうなのだろうか。
夢というものは、見ようと思って見られるものではない。
もう一度同じ夢を見たいと願ったところで、叶う保証はどこにもない。
それでも僕は、期待していた。
今夜、眠れば。
また君に会えるかもしれない。
そう考えるだけで、いつもより電車の揺れが心地よく感じられた。
「おい」
肩を叩かれた。
振り返ると、大学の友人である直人が立っていた。
「何ぼーっとしてんの」
「別に」
「いや、めっちゃにやけてたぞ」
「嘘つけ」
「ほんとだって。なんかいいことあった?」
僕は少し迷った。
昨日、死んだ恋人と夢で会った。
そんな話をしたところで、どう反応すればいいのか困らせるだけだろう。
「ちょっと、いい夢見た」
そう答えると、直人は意外そうな顔をした。
「夢?」
「うん」
「なんだそれ。宝くじでも当たった?」
「そんな感じ」
「夢で当たっても意味ないだろ」
直人は笑った。
僕も、つられて笑った。
すると彼は、一瞬だけ目を丸くした。
「……なんだよ」
「いや」
直人は窓の外へ視線を移した。
「久しぶりに笑ったなと思って」
僕は何も言えなかった。
電車は、いつもと変わらない速度で走っていた。
*
その日の講義は、ほとんど頭に入らなかった。
教授の声を聞きながら、僕はノートの端に小さく文字を書いていた。
『夢』
その下に、『海』。
さらに、『白いワンピース』。
忘れないためだった。
人間の記憶は、思っている以上に曖昧だ。
朝には鮮明だった夢も、昼になれば輪郭がぼやけ、夜にはほとんど思い出せなくなる。
僕はそれが嫌だった。
せっかく会えた君を、もう一度忘れてしまうような気がしたから。
ノートに書き足す。
『午後五時くらいの夕日』
『冷たい砂』
『右手』
『また明日』
そこで、ペンが止まった。
君は確かに言った。
明日も会える、と。
けれど、夢の中の君にとっての明日とは、いつなのだろう。
僕が眠るたびに、君の世界にも朝が来るのだろうか。
それとも、あの砂浜でずっと僕を待っているのだろうか。
考えても答えは出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
僕は今夜、眠るのが楽しみだった。
君がいなくなってから、初めてのことだった。
*
午後十一時。
僕はいつもより早く布団に入った。
部屋の電気を消す。
スマートフォンを枕元に置き、目を閉じる。
けれど、眠れなかった。
時計を見る。
十一時十二分。
もう一度目を閉じる。
十一時二十七分。
寝返りを打つ。
十一時四十一分。
「……全然眠れない」
当たり前かもしれない。
眠ろうと意識すればするほど、眠れなくなる。
子供の頃、遠足の前日に眠れなかったことを思い出した。
あの頃は、明日が楽しみで仕方なかった。
今の僕も、きっと同じなのだろう。
ただ、楽しみにしているのは明日ではない。
今夜だった。
僕は天井を見つめた。
例の染みがあった。
犬に見えると言っていた、あの染み。
しばらく眺めているうちに、ふと気づいた。
「……あ」
確かに、犬に見えなくもない。
耳が二つあって、鼻先が少し尖っている。
「なんだよ」
僕は小さく笑った。
「本当に犬じゃん」
君に教えたかった。
半年かけて、ようやく分かったのだと。
きっと君は笑うだろう。
「遅すぎるよ」
そう言って、いつものように僕をからかうに違いない。
そんなことを考えているうちに、まぶたが重くなっていった。
遠くで車の音がした。
時計の秒針が進んでいた。
そして、いつの間にか。
僕は眠っていた。
*
「……ねえ」
声がした。
「ねえってば」
誰かが肩を揺らしている。
「もう、いつまで寝てるの?」
聞き覚えのある声だった。
僕はゆっくり目を開けた。
白い天井。
窓から差し込む朝日。
薄い水色のカーテン。
そして。
「おはよう」
君がいた。
僕の顔を覗き込みながら、君は笑っていた。
「やっと起きた」
僕は言葉を失った。
昨日は海だった。
けれど、今日は違う。
ここは、僕の部屋だった。
正確には、君が生きていた頃の僕の部屋。
机の上には君の化粧ポーチが置かれ、壁には二人で選んだカレンダーが掛かっていた。
ベッドの隣には、君がいつも使っていたクッションがある。
「……なんで」
「ん?」
「なんで、ここに?」
君は不思議そうな顔をした。
「なんでって、昨日泊まったじゃん」
そう言って、僕の額に手を当てた。
「熱でもある?」
僕は首を横に振った。
君は安心したように笑った。
「じゃあ、早く起きて。朝ごはんできてるよ」
そう言って、部屋を出ていこうとする。
僕は慌てて君の名前を呼んだ。
君が振り返る。
「なに?」
「……おはよう」
君は一瞬きょとんとした。
それから、嬉しそうに笑った。
「うん。おはよう」
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、僕には十分だった。
昨日の約束は、本当だった。
君は、また会いに来てくれた。
*
食卓には、トーストが二枚並んでいた。
君は椅子に座り、マグカップを両手で包んでいた。
「早く食べないと冷めるよ」
「うん」
僕は向かいの椅子に座った。
トーストを手に取る。
そして、気づいた。
バターが、両面に塗られていた。
「……これ」
「なに?」
「両面に塗った?」
君は得意げに笑った。
「もちろん」
「手、べたべたになるだろ」
「またそれ?」
君は呆れたように笑った。
「いい加減、両面のおいしさを認めなさい」
僕はパンを一口かじった。
昨日の朝、自分で塗ったものより、ずっとおいしく感じた。
「……うまい」
「でしょ?」
君は満足そうに頷いた。
それから、僕の顔をじっと見つめた。
「ねえ」
「ん?」
「なんか今日、変じゃない?」
心臓が跳ねた。
「そう?」
「うん。ずっと私のこと見てる」
「……そうかな」
「そうだよ」
君は少し照れたように笑った。
「そんなに見られると、食べづらいんだけど」
僕は慌てて視線を落とした。
君は声を立てて笑った。
懐かしかった。
その笑い声も、話し方も。
僕が忘れかけていた、何でもない朝だった。
*
朝食を終えると、君は突然言った。
「ねえ、今日どこか行かない?」
「どこに?」
「うーん」
君は腕を組み、しばらく考えた。
「水族館!」
「急だな」
「いいじゃん。久しぶりに行きたい」
「この前行かなかった?」
そう言いかけて、僕は口を閉じた。
この前。
その言葉が、どれほど遠いものなのか。
君と最後に水族館へ行ったのは、亡くなる二か月ほど前だった。
僕にとっては八か月前。
けれど、君にとってはどうなのだろう。
「行ったっけ?」
君は首をかしげた。
「まあ、何回行ってもいいじゃん」
そう言って立ち上がる。
「ほら、準備して!」
僕はその背中を見つめた。
そして、思った。
夢の中なのだから、何でもいい。
今日が何月何日なのか。
昨日がいつだったのか。
そんなことは、どうでもよかった。
君がいる。
それだけで、僕には十分だった。
*
水族館は、思っていたよりも空いていた。
平日の昼間だからだろうか。
大きな水槽の前にも、人はまばらだった。
君は子供のようにはしゃいでいた。
「あ、見て! エイ!」
「見えてるよ」
「すごい顔してる!」
「顔じゃないだろ、あれ」
「え、そうなの?」
君は本気で驚いていた。
僕は笑った。
君は昔から、魚を見るのが好きだった。
特にクラゲが好きで、水族館へ行くと必ず長い時間立ち止まっていた。
今日もそうだった。
青く照らされた水槽の前で、君はじっとクラゲを眺めていた。
透明な体が、水の中をゆっくり漂っている。
「きれいだね」
君が言った。
「うん」
「ねえ、クラゲってさ」
「うん」
「時間とか、気にしてるのかな」
僕は君を見た。
「どういうこと?」
「だって、ずっとふわふわしてるじゃん」
君は水槽に視線を戻した。
「朝とか夜とか、昨日とか明日とか。そういうの、分かってるのかなって」
僕は少し考えた。
「分かんないんじゃない?」
「そっか」
君は小さく笑った。
「じゃあ、いいなあ」
「なんで?」
「時間を気にしなくていいから」
僕は何も言わなかった。
君は続けた。
「私ね、たまに思うんだ」
「何を?」
「楽しい時間って、なんであんなに早く終わっちゃうんだろうって」
水槽の中で、クラゲがゆっくりと傘を開いた。
「嫌な授業は長いのに、好きな人といる時間は一瞬じゃん」
「まあ、そうだね」
「不公平だよね」
君は頬を膨らませた。
僕は笑った。
すると君は、僕の手を握った。
「だからさ」
「うん」
「今日が、ずっと続けばいいのにね」
僕は君を見つめた。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。
僕も、同じことを思っていた。
この時間が終わらなければいい。
明日が来なくてもいい。
ただ、君と一緒にいられるのなら。
「……そうだね」
僕は君の手を握り返した。
「ずっと、続けばいいね」
君は嬉しそうに笑った。
*
水族館を出ると、空は夕焼けに染まっていた。
君は帰り道でアイスを買った。
冬なのに。
「寒くないの?」
僕が聞くと、君は笑った。
「寒いよ」
「じゃあ、なんで買ったの」
「食べたかったから」
まったく、君らしい答えだった。
僕たちは駅まで歩いた。
君はアイスを食べながら、今日見た魚の話をしていた。
僕は相槌を打ちながら、その横顔を眺めていた。
ふと、違和感を覚えた。
駅前の時計が、午後五時を指していた。
けれど、僕たちが水族館を出たのも、確か午後五時頃だったはずだ。
ずいぶん歩いた気がする。
それなのに、時計の針はほとんど動いていなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「今、何時?」
君はスマートフォンを取り出した。
「五時十分」
「そっか」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
僕はもう一度、駅前の時計を見た。
午後五時十分。
君のスマートフォンと同じだった。
気のせいだろう。
夢の中なのだから、時間の流れがおかしくても不思議ではない。
そう思うことにした。
*
家に帰ると、君はソファに倒れ込んだ。
「あー、疲れた!」
「歩きすぎたね」
「でも楽しかった!」
君は満足そうに笑った。
僕は隣に座った。
テレビをつけると、知らない番組が流れていた。
君は僕の肩にもたれかかってきた。
「ねえ」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「どれくらい?」
「めちゃくちゃ」
「適当だなあ」
君は笑った。
僕も笑った。
しばらく、二人でテレビを眺めていた。
やがて、君が小さくあくびをした。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝てもいいよ」
「やだ」
「なんで?」
君は僕の肩に頭を預けたまま、つぶやいた。
「もったいないから」
僕は君を見た。
「何が?」
「今日が終わるの」
君は目を閉じた。
「せっかく楽しかったのに、寝たら終わっちゃうじゃん」
僕は返事をしなかった。
君は知らない。
僕にとって、眠ることがどれほど大切になってしまったのか。
君に会うためには、眠らなければならない。
けれど、君と過ごす時間が終わるのも、眠りから覚めるときだった。
何だか、変な話だった。
僕は君の髪をそっと撫でた。
「また明日があるよ」
そう言うと、君は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
君は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日も一緒にいようね」
「もちろん」
君は小指を差し出した。
「約束」
僕はその小指に、自分の小指を絡めた。
「約束」
それから君は、僕の肩に頭を戻した。
数分後には、静かな寝息が聞こえてきた。
僕は動かなかった。
君を起こしたくなかったから。
テレビの音が、遠くで聞こえていた。
時計の針が、ゆっくり進んでいた。
僕は君の寝顔を眺めながら、思った。
幸せとは、きっとこういうことなのだろう。
特別な場所へ行くことでも、高価なものを贈ることでもない。
好きな人が隣で眠っている。
ただ、それだけのこと。
僕はずっと、その幸せを取り戻したかった。
*
目を覚ますと、朝だった。
見慣れた天井。
薄い染み。
カーテンの隙間から差し込む光。
僕はゆっくりと体を起こした。
君はいなかった。
隣には、冷たくなった枕があるだけだった。
「……そっか」
夢が終わったのだ。
分かっていたことなのに、胸が痛んだ。
スマートフォンを見る。
午前七時十三分。
昨日と同じ時刻だった。
僕は少し驚いた。
あれほど長い夢を見たのに、いつもと変わらない朝だった。
水族館へ行って、夕食を食べて、テレビを見て。
君と丸一日過ごしたような気がする。
けれど、現実では一晩しか経っていない。
僕はノートを開いた。
昨日のページの続きに、夢の内容を書き始めた。
『二日目』
『自分の部屋』
『朝食』
『水族館』
『クラゲ』
『アイス』
『約束』
そこまで書いて、ペンを止めた。
一つ、思い出したことがあった。
君は水族館で言っていた。
「今日が、ずっと続けばいいのにね」
僕はその言葉をノートに書き足した。
そして、しばらく眺めていた。
もし、本当にそうなったら。
もし、夢の中でだけ時間が止まらず、いつまでも君と一緒にいられたら。
そんなことを考えてしまった。
もちろん、不可能だ。
夢はいつか覚める。
朝は必ず来る。
それが当たり前なのだから。
僕はノートを閉じた。
そのとき、ふと気づいた。
昨日の夢では、君と一日を過ごした。
一昨日の夢では、夕方の海で数時間を過ごした。
夢の中で過ごす時間が、長くなっている。
偶然だろうか。
僕はもう一度ノートを開いた。
『一日目 数時間』
『二日目 一日』
その下に、三行目を書いた。
『三日目 ?』
しばらく見つめてから、僕は小さく笑った。
「……まさかね」
窓の外では、いつもと変わらない朝が始まっていた。
人々は学校へ向かい、会社へ向かい、それぞれの一日を過ごしている。
僕も、そろそろ大学へ行かなければならない。
けれど、その日の僕には、どうしても確かめたいことがあった。
もし今夜も、君に会えたなら。
もし夢の中で過ごす時間が、さらに長くなっていたなら。
そのときは。
僕はノートの最後に、一つだけ言葉を書き加えた。
『明日も、君に会いたい。』
そして、ペンを置いた。
まだ僕は知らなかった。
この何気ない願いが、やがて僕の時間を大きく変えていくことを。
そして。
君と過ごす一日が、いつか僕の一生よりも長くなることを。




